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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第2部:英雄たちの休日と、黄金の再会

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第35話 『英雄のクワと、夜明けのポテ』

 昨夜の喧騒が嘘のように、キッチン・ブランには完璧な静寂が満ちていた。

 冬の名残を帯びた空気の中、窓からは柔らかな朝の陽光が差し込み、店内は磨き上げられた白い壁を優しく撫でている。


 アルフレッドは、沸かしたての湯をポットに注いだ。ふわりと広がる芳醇な茶の香り。琥珀色の液体がカップに満たされる音だけが、静かな店内に響く。

 窓際の特等席では、ディアボロが長い睫毛に朝の光を纏わせ、柔らかな表情で外を見ていた。透き通るような白磁の肌が、陽光を吸い込んで淡く輝いている。

 ディアボロの表情を見たアルフレッドも、にこやかな顔で彼に紅茶を差し出した。


「……悪くない香りだ」


 彼は満足げに目を細め、カップに口をつける。視界の端には、綺麗に修繕された裏口の扉が収まっていた。先日エレンが吹き飛ばした跡が、跡形もなく消えていることに安堵する。


 そのとき、控えめに玄関のベルの音が鳴った。


 そこに立っていたのは、かつて黄金の甲冑を纏っていたはずの元聖騎士団長、グレゴリウスだった。だが、その身に纏っているのは、まだ土の匂いを知らない、卸したての真新しい作業着。そしてその手には、聖剣ではなく一本のピカピカに磨かれたクワが握られていた。


「……ほう。黄金の甲冑を脱ぎ捨て、今度は農夫の真似事か?」


 ディアボロはカップを持ったまま、面白がるように口角を上げた。先日、貴族として礼節を尽くした男が、今日はまるで別人のような格好で現れたのだ。だが、その表情には以前のような悲壮感はなく、どこか晴れ晴れとしたものが漂っている。


「マスター、そんな言い方は失礼ですよ。……グレゴリウスさん、その格好。まさか、名誉騎士団長をお辞めになったんですか?」


 アルフレッドが思わず手を止めて尋ねると、グレゴリウスはニカっと笑い、新品の帽子を脱いでカウンターに置いた。


「うむ。辞めてきた。たった今、辞表を叩きつけてきたところじゃ」


 あまりにあっけらかんとした物言いに、アルフレッドは目を丸くした。


「えっ!? 本当に、ですか?」


「そうとも。十五年という月日は長すぎたわい。今の騎士団は、書類、書類、規則、規則……。なんでもかんでも理屈ばかりで、息が詰まって死にそうじゃった。かつてのように剣で語る時代は終わったようでの」


 グレゴリウスは少し寂しげに、しかし未練はないという風に肩をすくめた。そして、真剣な眼差しでアルフレッドとディアボロを見据えた。


「わしの魂に火をつけたのは、先日ここで食った『ポテ』じゃ」


「ポテ、ですか?」


「ああ。あの野菜の甘み、肉の旨み……。十五年もの間、冷たいケースの中で止まっていたわしの魂が、あの熱いスープで生き返った気がしたんじゃ。わしはもう、飾られるだけの英雄は御免じゃよ」


 彼は愛おしそうに、真新しいクワの柄を強く握りしめた。


「泥にまみれ、汗をかき、自ら育てた命を食らう……。わしはな、そんな当たり前の『人間』としての生を、ここから始めたくなったんじゃ」


 それは、若々しい肉体を持ちながら時を止められていた男の、心からの願いだった。


「そこでじゃ。アルフレッド、そして魔王殿。折り入って頼みがある」


 グレゴリウスは身を乗り出した。


「これからわしの領地へ来てくれんか? 広大な土地があるんじゃが、ずっと放置しておって荒れ放題なんじゃ。最高の野菜を育てるために、お主らの『食』への知恵を貸してほしい。農地の計画を、一緒に立ててくれんか」


 その瞳は、少年のように輝いていた。十五年の空白を埋めるような熱意に、アルフレッドは少し驚いたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。


「いいですね。野菜が採れたらぜひいくつかほしいです」


「ふん。味がわかるのはこの我ぐらいだからな」


「おお、受けてくれるか! ならば善は急げじゃ!」


「ええ。今日は天気もいいですし、ピクニックがてら行きましょうか」


 アルフレッドは玄関に『臨時休業』の札をかけると、厨房に戻り手早く調理し、それを詰めたランチボックスを持った。


 馬車の車輪が石畳を叩き、やがて乾いた土を踏む音へと変わる。車窓の景色は王都の煉瓦色から、冬枯れの褐色へと寂しく塗り替えられていく。


 そして、太陽が天頂に昇る頃。


「……うっ、こ、腰が」


 目的地に降り立ったアルフレッドは、強張った腰をさすりながら呻いた。長時間の揺れと慣れない硬い座席は、元勇者の鍛え上げられた肉体といえどよほど堪えたらしい。


「だらしないぞ、アルフレッド。たかが馬車に揺られた程度で」


 続いて優雅に降り立ったのはディアボロだ。彼は燕尾服の裾を払うと、アルフレッドの情けない姿を冷ややかに見下ろした。もっとも、彼はずっと店から持ち込んだふかふかなクッションに座っていたのだが。


「マスターはずっと中で寝てただけでしょう。……それにしても」


 アルフレッドは腰を伸ばし、白い息を吐きながら目の前に広がる光景を見渡した。

 そこは、眠れる荒野だった。かつて豊かな穀倉地帯だったはずの土地は、十五年という歳月によって完全に野生へと還っている。枯れたススキが寒風にざわざわと揺れ、地面は霜が降りたように白く、岩のように硬く凍てついていた。


「……酷いもんだろう?」


 グレゴリウスが、ピカピカのクワを肩に担いで苦笑した。


「わしが止まっていた間も、冬は何度も巡っておったようじゃ。屋敷も畑も、見る影もない」


 彼は寂しげに目を細めたが、すぐに首を振って気を取り直した。


「だが、土は死んでおらん。今はまだ眠っているだけじゃ。……さて、叩き起こす前に腹ごしらえと行こうか!」


「そうですね。店を閉める前に、ありあわせで作ってきました」


 アルフレッドはバスケットを開いた。中にはバゲットの真ん中に切れ込みを入れ、厚切りのハムとチーズ、朝の余り物のレタスを挟んだだけの無骨なサンドイッチが詰め込まれている。肌を刺すような冷たい風が吹く荒れ地で、三人の男たちは枯れ草の上に腰を下ろした。


「……ふん。皿もなしか」


 ディアボロは文句を言いながらもサンドイッチを受け取り、ガブリと噛み付いた。冷気で引き締まったパンを噛みしめると、中の生地からふわりと柔らかな湿り気が広がり、シンプルな具材の塩気と混ざり合う。


「……悪くない」


「でしょう? こういう寒い場所で食べると、また格別なんですよ」


 アルフレッドも大きな口で頬張り、水筒の温かい茶で流し込む。キッチン・ブランの温かい食事もいいが、冬空の下で食べるパンと肉の味は室内で食べる味と違い、心も身体も満たされるようだった。


「うまい! これじゃよ、この噛みごたえ!」


 グレゴリウスは感動の涙を浮かべ、バゲットを噛み締めている。十五年の空白を埋めるように、彼は一口一口を愛おしそうに味わった。


 食事が終わると、三人は少しの間、枯れ草の上で身体を休めた。冷たい風も、満たされた腹には心地よい食休みだ。やがて、グレゴリウスがパンパンと膝の上を払って立ち上がる。


「よし! では、やるか!」


 グレゴリウスは新品の手袋を締め直し、気合一閃、大きくクワを振り上げた。


「わしの十五年分、まとめて耕してやるわ! ふんっ!!」


 英雄の豪腕から繰り出された一撃が、凍てついた大地に突き刺さるはずだった。


 ガィィィィン!!


 甲高い金属音が冬枯れの野に木霊した。クワの刃先は地面に弾かれ、衝撃でグレゴリウスの手からすっぽ抜けて空を舞う。


「……なんじゃあ!?」


 グレゴリウスが痺れた手をさすりながら目を丸くする。地面には浅い傷が一つ付いただけ。長年放置された土は踏み固められ、さらに冬の寒さで鎧のようにガチガチに固まっていたのだ。


「……くくっ。なんだその様は、英雄」


 ディアボロが肩を震わせて笑った。


「剣を振るうようにはいかぬようだな。……貸せ。我が見本を見せてやる」


「マスター、無理はしないでくださいよ? 魔法で爆破するのは無しですからね」


「愚か者め。魔王の鍬捌き、刮目かつもくして見よ」


 ディアボロは燕尾服を脱ぎ捨てると、まくり上げた白磁の腕でクワを握った。そして無造作に振り下ろす。


 ズドンッ!


 重い音が響き、クワが深々と凍土に食い込んだ。さらに彼は手首のスナップだけで土塊をひっくり返す。黒々とした土の裏側から、十五年分の冷気が白い湯気となって立ち上った。


「おおっ! すごいぞ魔王殿!」


「……へえ、意外と様になってますね」


「当然だ。破壊と創造は表裏一体。土を砕くことなど、国ひとつ滅ぼすことに比べれば造作もない」


 ディアボロは鼻高々にふんぞり返ったが、その額にはうっすらと汗が滲んでいた。そして、ここから奇妙な開墾作業が始まった。魔王が力任せに凍土を砕き、元勇者が石を取り除き、元聖騎士団長が畝を作る。三人が泥にまみれ、汗を流し、一つの畑を作っていく。


 日は傾き、空が茜色に染まる頃。そこには小さいながらも、黒々とした土が顔を出した立派な畑が一面だけ完成していた。


「……はぁ、はぁ。死ぬかと思ったわい」


 グレゴリウスは大の字になって地面に倒れ込んだ。新品だった作業着は泥だらけになり、ピカピカだったクワも土にまみれている。だが、その顔は少年のように晴れやかだった。


「ありがとう、二人とも。……これが、わしの新しい戦場じゃな」


「ええ。いい畑になりそうですね」


 アルフレッドが白い息を吐きながら微笑む。ディアボロもまた、汚れた手を払うこともせず、満足げに夕陽を見つめていた。


「……アルフレッド。腹が減った」


「はいはい。帰ったら、特製のジャンボハンバーグを作りましょう。グレゴリウスさんも、もちろん食べていきますよね?」


「おお、願ってもない! 労働の後の肉、最高のごちそうじゃ!」


 三人の笑い声が、冬の終わりの乾いた風に吸い込まれていった。

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