第34話 『聖女の脱獄』
王都の喧騒はとうに眠りに落ち、キッチン・ブランの周囲は深い静寂に包まれていた。昼間の熱気が嘘のように冷え切った厨房には、使い込まれた鍋が月光を反射して鈍く光り、微かに残るスパイスの香りが、一日の終わりを告げている。
アルフレッドは、風呂上がりの心地よい倦怠感に身を任せ、コックコートの代わりに、洗いざらした薄手の寝間着を纏っていた。
「ふぅ、明日の仕込みも終わったし、のんびりできますね」
まだ湿り気を帯びた髪をタオルで拭いながら、彼はカウンターの椅子に軽く腰掛けた。小麦色の肌には、湯気で火照った赤みが薄く残り、石鹸の清潔な香りがふわりと漂う。
その隣では、ディアボロが優雅にワインを揺らしていた。漆黒の寝衣をルーズに着崩したその姿は、夜の闇に溶け込むような妖艶さを醸し出している。
「……アルフレッド、貴様。野菜をみじん切りにする音が、浴室まで響いていたぞ」
「すみません、マスター。でも、このカウンター、思ったより早く直ってよかったです。ちょっと欠けてたところもきれいになおってて、元通りです」
アルフレッドは、天板の滑らかな感触を確かめるように撫で、微笑みながら白湯を口に含んだ。
その、安らぎのひとときが、凄まじい「音」によって、無惨に引き裂かれた。
――ドォォォォォォンッ!!
深夜の静寂を切り裂き、店の裏口から凄まじい衝撃音が轟いた。空気が震えるほどの圧力に、棚に並んだグラスは激しく揺れるものの、不思議と一つとして床へ落ちることはなかった。ただ、裏口の扉だけが「内側への圧力」に耐えかねたように、蝶番ごとねじ切れ、店内の床へと派手に倒れ込んだ。
舞い上がる埃、そして冷たい夜風とともに闇の中から、月の光を背負った純白の衣が踏み込んでくる。
「ただいま戻りました! アルフレッド様、ディアボロ様。夜分に失礼いた……」
威勢よく踏み込んできた聖女エレンだったが、カウンターに座る二人の姿を捉えた瞬間、その言葉がぴたりと止まった。
そこにいたのは、寝間着からはだけた小麦色の胸元を晒し、湿った髪から水滴を伝わせた、上気した姿のアルフレッド。そして、背後に立つ魔王が、あろうことか慈しむような手つきで、アルフレッドの髪を優しく撫でつけているではないか。
エレンの目から、聖女の慈愛が急速に失せていき、代わりにディアボロを灰にせんばかりの凄まじい嫉妬の焔が宿る。杖を握る手に凄まじい力がこもり、杖がミシッ、と悲鳴を上げ、彼女の周囲の空気が怒髪天の勢いで逆巻く。
その様子を見て取ったディアボロはフフン、と勝ち誇った顔をエレンに向けた。
「……ディアボロ様。その……薄汚い不浄の指を、今すぐアルフレッド様から離しやがれ……じゃなくて、お離しになっていただけますかしら?」
静かな、しかし地の底から響くようなエレンの低音に、店内の温度が急降下した。彼女の周囲の空気が否応無しに重くなっていく。
「エレン!? な、なんでここに……っていうか、その扉!」
アルフレッドが店の中で声を上げたのと、エレンのすぐ後ろ、夜の闇からガシャン、ガシャンと硬い音が迫りくるのは同時だった。建物の壁を震わせるほど重々しい震動が、一歩ずつ確実に店へと近づいてくる。
当然、アルフレッドはスルリと傍らの布巾を取り、装着する。
裏口の枠を掴み、絶望に満ちた形相で現れたのは、騎士団長ガイルだった。
「え、エレン様ぁぁ。まさかこんな……」
深夜の緊急事態に、鎧を下半身しか装着していない姿。哀れなガイルは店内に滑り込むなり、店内にいる三人と顔をあわせた。
一瞬、思考が停止したような沈黙がみんなに流れる。
すっとアルフレッドを見たガイルの視線が、湯上がりで無防備な「小麦色の肌」と「濡れた髪」に釘付けになったが、顔はクロスマンだったので、事なきを得た。
その静寂のなか、エレンの震えるつぶやきが漏れた。
「……もう、耐えられませんわ……っ!」
限界だった。
エレンはよろめく足取りでカウンターに詰め寄ると、そこに立つアルフレッドの胸元に、弾かれたようにその顔を埋めた。
「エ、エレン……っ!?」
アルフレッドの、石鹸の香りが残る温かい肌。布巾の下で、彼は心臓が止まるかと思うほどの衝撃に硬直する。エレンは必死に彼に抱きつき、その逞しい胸板に顔を押し当てて「むっはー! たまらん!!」と高まる感情のままに、頭をぐりぐり押し付けてきた。
その光景を間近で見せつけられたディアボロは、負けじとアルフレッドを後ろから抱きしめた。
「なにこれ……」
湯上がりのクロスマンは、困り果てたショボ顔をしてカウンターに腰掛けたままだった。前後を聖女と魔王に塞がれ、もはや逃げ場などどこにもない。
そんな惨状を目の当たりにして、ガイルの顔が劇的に歪む。
「……そ、それはやめてくださいっ! それならば私に……いや、善良な王都民にそんな、抱きつくだなんて……っ!」
ガイルは半泣きになりながら、鋼のような力でエレンの肩を掴んだ。
「お許しください、エレン様! 貴女を異端審問にかけるなど、このガイル、死んでもさせはしない! 貴女のこの『間違い』は、私が隠し通してみせます……だから、今は……!」
ガイルがエレンを力いっぱい引き剥がそうとしてもびくともしなかった。
「やめてくださいませ、今わたくしは最高にいいところ……いえ、神に抱かれているところなんですのよ!」
そのときガイルはひらめいた。
「こ、こうすれば……」
とエレンの脇腹に手を差し込みくすぐる。
「あはっ!? いやっ、やめ……あはははは!」
その隙を見逃さず、ガイルは爆笑して力が抜けたエレンを抱え上げた。
「さあ、帰りますぞ、我らの本営へ!」
嵐が去った後、扉が閉まった。
静まり返った厨房で、ディアボロは腕を解こうとはしなかった。それどころか、アルフレッドの背中に心地よさそうに額を預け、ふっと毒気を抜いたような静かな声を漏らす。
「……もう少し、このままでいいか?」
それは魔王としての命令ではなく、どこか手に入れた宝物を手放したくないときのような、微かな甘えを含んだ響きだった。
アルフレッドは、背中から伝わる魔王の意外なほど静かな体温に、毒気を抜かれたように脱力する。
だが、同時に大きな問題に直面していた。
アルフレッドは困り果てたショボ顔のまま、頭に被ったままの布巾をいつ取ればいいのか、そして床で無惨に転がっている扉をいつ直せばいいのか。
そのタイミングだけを必死に考え続けていた。
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