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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第2部:英雄たちの休日と、黄金の再会

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第32話 『キッチン・ブラン再始動』

 朝日が、職人街の裏路地に差し込む。石畳を照らす光は柔らかく、あちこちから焼きたてのパンの香りが漂ってくる。王都の朝は、いつもと変わらず穏やかに始まっていた。

 だが、バルトロメウスの館からようやく『キッチン・ブラン』へと戻ってきたアルフレッドを待ち受けていたのは、その穏やかさとは残酷なほどにかけ離れた光景だった。


 アルフレッドは、入り口で立ち尽くしたまま、息を呑んだ。


 視線の先、店の中央に位置するあの大理石のカウンターが、見るも無惨に粉砕されていた。中心から爆発したかのようにひび割れ、鋭い破片を床一面にぶちまけている。壁や他の調度品は不自然なほど無傷だった。それが逆に、一点のカウンターのみに注がれた暴力の異常さを際立たせている。


「なんでこんなことに……」


 アルフレッドは、吸い寄せられるように、砕かれた断面の前に膝をついた。指先でそっと触れた石の角は、氷のように冷たい。その冷たさに触れた瞬間、昨日の光景が、まるでつい数秒前のことのように鮮明に思い浮かんだ。薄れゆく視界の端で、最後に捉えたディアボロの顔。これまで見たこともないほど蒼白に歪み、なりふり構わずこちらへ手を伸ばしていた、あの必死な形相。


「……酷い有様だな」


 背後から響く、低く、どこか自嘲気味なディアボロの声。アルフレッドが振り返ると、そこには朝日の逆光を背負った主人が佇んでいた。深紅の瞳は、足元に広がる瓦礫を、自らの傷跡を見るかのように射抜いている。


「マスター……。このカウンター、どうして……」


「我が壊した」


 ディアボロは、迷いなく、けれど絞り出すように言った。彼はアルフレッドの隣まで歩み寄ると、その長い指先で、砕かれた石の鋭い断面をなぞった。


「昨日、お前を死へと引きずり込もうとしたあの男。奴をこの手で捻り潰そうと拳を振るったが、奴の体は霧のようにすり抜けた。行き場を失った我が拳は、ただこの場所を砕くことしかできなかったのだ」


 アルフレッドは、自分の指先に絡みつく白い石粉をじっと見つめた。自分はただ、抗いがたい眠りに落ちていただけだった。

 けれど、ディアボロのこの低く、掠れたような声を聞けば分かる。彼が口にした「死へと引きずり込む」という言葉が、どれほど重く、切実なものだったのかを。

 このカウンターに拳を叩きつけるしかなかったディアボロの心中を思うと、胸の奥が苦しくなるのを抑えきれなかった。


「……掃除、しましょう。マスター」


 アルフレッドは、努めて明るい声を出して袖をまくり上げた。


「俺、ここでマスターに新作の味見をしてもらうのが好きなんです。だから、早く元通りにしないと。……俺、マスターを放ってどこかにいなくなることはありませんから」


 ディアボロは一瞬、目を見開いた。耳の先端がわずかに色付いたのを悟られぬよう、彼は慌てて顔を逸らし、足元の大きな石の破片を掴み上げた。


「ああ、直すぞ。ともに、な」


 二人が作業を始めると、やがて表の通りから、重い荷物を運ぶ足音と、石畳を硬く叩く規則正しい靴音が近づいてきた。


「お、お待たせしました……。アルフレッドさんに言われた食材、全部揃えてきましたよ」


 山のような野菜袋を抱え、疲れを見せつつも確かな足取りでゼノンが飛び込んできた。その隣では、重い肉の塊を担いだルシウスが、一分の乱れもない足取りで店に入り、そのまま厨房の奥へと向かう。


「ゼノン、冷蔵庫に収めるまでが仕事ですよ。……ふむ、しかし店内は随分な惨状ですね。アルフレッド様、まだ寝ていなくてはならない身で『皆に食べさせるから市場へ寄れ』などと無茶を言うから何かと思えば。なるほど、この瓦礫を片付けるには確かに人手が必要ですね」


 ルシウスは慣れた手付きで肉の塊と野菜を奥の冷蔵庫へと運び入れると、眼鏡の奥の鋭い瞳で店内の状況を査定し、すぐに瓦礫の分別を始めた。


「アルフレッド様、力仕事は私が。……二度と、私に無駄な心配をさせないでください。あなたの料理が食べられなくなるのは、魔界の損失ですから」


「アルフレッドさんが無事で本当によかった。……ボクもこれ、片付けちゃいますね。終わったあとのご飯、楽しみにしてますから」


 ゼノンは胃を押さえつつも、どこか吹っ切れたような顔でアルフレッドに微笑みかけると、迷いなく雑巾を手に取り、猛然とテーブルを磨き始めた。


 掃除は数時間に及んだ。

 ようやく全ての破片を運び出し、アルフレッドがふう、と一息ついたその時だった。急に立ち上がった反動で視界がぐらりと揺れ、膝の力が抜ける。倒れる、と思った瞬間、背後から伸びてきた腕がアルフレッドの肩を支えた。


「……無理をするな、アルフレッド」


 ディアボロの、短く、けれど硬い声が降ってくる。


「あ、すみません……。ありがとうございます、マスター」


 アルフレッドは、触れた手のひらの、いつもの冷たさに一瞬だけ目を細めた。


「……さっさと座れ。後は我らがやる」


 ディアボロはぶっきらぼうにそう返し、アルフレッドを半ば強引に近くの椅子へと座らせた。心配そうに覗き込むゼノンに、ルシウスも冷徹な分析を口にする。


「『安息』の後遺症でしょう。無理は禁物です。片付けが終わって料理が作れるようになるまでは、休んでいてください」


「……はい。すみません、お言葉に甘えます」


 アルフレッドは素直に頷き、椅子に深く腰を下ろして、三人の働く姿を見守ることにした。


 ディアボロ、ゼノン、ルシウスの三人が、最後の片付けを終える。

 やがて、店内は元の姿を取り戻した。カウンターの破片は片付けられ、床は磨かれ、厨房も整理された。まだカウンターの修理は必要だが、それは後日でいい。


 磨き上げられた床に、外の陽光が反射する。

 アルフレッドは静かに立ち上がり、厨房のコンロの前へ向かった。


「俺の出番ですね。英気をつけるため豚肉のソテー、ラビゴットソースかけ、それとゼノンさんたちが買ってきてくれた新鮮な野菜を使って、美味いスープを作りますよ」


 カチリ、という音とともに、コンロに青い炎が宿る。

 冷え切っていた厨房に、再び「命」の音が響き始めた。その背中を、ディアボロ、ゼノン、ルシウスの三人は、もう二度と失いたくない大切な日常を噛み締めるような、静かな眼差しで見守っていた。


 窓の外では、朝日が職人街を照らしている。焼きたてのパンの香り、馬車の蹄の音、人々の笑い声。いつもの、穏やかな朝。


 だが、その穏やかさの中で、王都では、何かが動き始めていた。

 王都の地下深くの一室で、一人の男が魔導映像板の無機質な光に照らされている。そのモノクルの奥で、冷徹な瞳が細められた。


 静かな嵐の予兆が、そこにはあった。

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