第31話 『ほどけた呪縛』
ディアボロとバルトロメウスだけが残された応接室で、黒い炎はゆらゆらと揺れ続けている。カチ、カチと部屋の時計の音とともに時間が過ぎていく。
ディアボロは身じろぎもせず、黒い炎を見つめている。炎が確実に小さくなっていく様子がアルフレッドの命のように見えた。
バルトロメウスはそんなディアボロの様子を楽しげに見つめ、優雅に紅茶を飲む。
「美しい炎ですね、魔王陛下。時間を経るごとに消えていく炎……まるで、君とアルフレッドの絆のようだ」
ディアボロは答えない。ただ、黒い炎を見つめ続ける。爪が手のひらに食い込み、わずかに血が滲む。
炎がだいぶ小さくなった頃、扉が勢いよく開いた。
「魔王様!! お待たせしました!」
ゼノンとルシウスが、息を切らして飛び込んでくる。二人とも汗と埃にまみれ、髪が乱れている。だが、その瞳には強い光が宿っていた。ディアボロが顔を上げ、二人に問いかける。
「……見つけたのか?」
「はい」
ルシウスが一歩前に出て、新たな証拠の束をテーブルに叩きつける。
「バルトロメウス様の善行の決定的な証拠です。孤児院への寄付、年間百万ゴールドと記録されていますが、実際に孤児院が受け取ったのは十万ゴールドのみ。残りの九十万ゴールドは、やはり財務次官が横領していました」
バルトロメウスが書類に目を落とす。表情は相変わらず穏やかだ。
「それは既に聞いた話だね。私は知らなかった、と答えたではないか」
バルトロメウスは姿勢を崩さず、余裕の笑みを浮かべる。
「いいえ」
ルシウスが別の書類を取り出す。
「これは、あなたの執務室から見つけた、あなた自身の筆跡のメモです。『財務次官の横領、確認。だが、計算上は問題なし。天秤は釣り合う』」
バルトロメウスの笑みが、わずかに硬くなる。
「……それは、いつのものかね?」
「二十年前です」
ゼノンが胃を押さえながら叫ぶ。
「貴様は知っていた! 二十年間、ずっと! それでも黙認していた! 天秤を釣り合わせるための実験のために!」
バルトロメウスは深く息を吐き、くすりと笑う。
「……よく調べたものだ。だが、それがどうした?私の計算は正しかった。天秤は、今も釣り合っている」
その瞬間、空気が変わった。バルトロメウスの周りの空間が、わずかに歪む。まるで、熱に揺らぐ陽炎のように。腕輪の周辺だけ、世界が揺らいでいる。
バルトロメウスが、驚いて腕輪を見る。
「……何だ……?」
腕輪の存在そのものが、歪み始めている。まるで、この世界から拒絶されているかのように。神が描かれた腕輪の絵が、ぼやけている。輪郭が定まらない。バルトロメウスは今までなかった腕輪の様子に動揺した。同時にカチ、と小さな音が腕輪から発せられると腕輪に、細かなヒビが入りはじめた。
「……なぜだ……? 私の善行は、まだ残っている……! 計算は完璧だったはずだ……!」
笑みが消え、青ざめたバルトロメウスが腕輪に手を当てる。必死に、何かを確かめようとする。だが、ヒビは広がっていく。
その様子を見て、わかっていたかのように冷静な口調のルシウスが一歩踏み込む。
「神は、貴様を見放した」
ルシウスとは反対の熱くなったゼノンが叫ぶ。
「貴様の善行は、全て偽物だった! 見返りを求めた善行! 実験のための善行! 神を騙そうとした罪だ!」
ゼノンの叫びは、怒りというより『恐怖』に近かった。
神の加護を悪用し、人の生を「保存」する。魔族ですら踏み越えない禁忌を、この人間は平然と犯していた。
「違う……違う! 私は神を理解しようとしただけだ! 神の加護のメカニズムを解明し、善悪の天秤を計算し、完璧な善行を積み上げた! それは罪ではない!学問だ! 探求だ!」
取り乱した様子のバルトロメウスを見て、ディアボロが立ち上がった。
ゆっくりと、だが確実に。快適だった周囲の空気が一瞬で凍りつき、深紅の瞳が燃えるような光を放つ。
「……貴様は、全てを秤にかけていた」
ディアボロの声は、低く、抑えきれぬ怒りに震えている。
「孤児も、英雄も、寄付も。全てを天秤の上に乗せて計算していた」
「そうだ」
バルトロメウスが答える。その声には、まだ消えない驕りが残っている。
「私は全てを理解した。神の加護を、善悪の天秤を、完璧に計算した。それが私の研究だ」
「……貴様の善行は、見返りを求めたものだ」
ディアボロが続ける。
「神の加護を得るため。実験を成功させるため。貴様は、善行を『手段』にしたのだ」
「それの何が悪い? 善行は善行だ。動機など関係ない」
「違う」
ディアボロの脳裏に、アルフレッドとの日々がフラッシュバックする。「マスター、紅茶です」と言って、カップを差し出す姿。「マスター、今日は何を作りましょうか」と尋ねる明るい声。爪が出てしまったとき、優しく手を撫でる暖かさ。厨房でランチメニューを互いに模索していたこと。
胸の奥が、焼けるように痛んだ。
「……真の善とは、見返りを求めぬものだ」
ディアボロの声が、わずかに震える。
「我は、アルフレッドから学んだ。見返りなどなくとも、ただ共に在るだけで満たされるということを」
「……フッ。共に在るだけで満たされる? それが君の言う『愛』かね?」
バルトロメウスの口角が上がり、狂ったかのように笑う。
「なんとも陳腐で、救いようのない感情だ。いずれ失われるものにすがるなどと。私の『保存』こそが至高の愛だ。永遠に、最も美しい瞬間のまま……」
一段と高くなったバルトロメウスの声にかぶせるように、ディアボロが言う。
「愛などという言葉で飾るな。それはただの執着だ。貴様は、彼らを自らの欲のために『所有』したかっただけだ」
ディアボロの拳が、震える。
「我は、敵を殺した。国を滅ぼした。だが、こんな風に『飾る』ことはせぬ」
深紅の瞳が、バルトロメウスを射抜く。
「貴様は、人間でありながら、魔族より残酷だ」
バルトロメウスの顔が、わずかに歪む。その灰色の瞳が、わずかに揺れる。
「……違う」
バルトロメウスが呟く。その声は、いつもの穏やかさを失っている。
「私は、彼らを愛している。永遠に、美しいままで……それは、愛だ……」
だが、その言葉は、自分自身に言い聞かせているようだった。
「それは愛ではない」
ディアボロが、冷徹に断じる。
「貴様は、彼らの時間を奪った。彼らの未来を奪った。それは、支配だ。所有だ。愛ではない」
バルトロメウスの呼吸が、乱れる。白手袋をはめた手が、わずかに震える。
「違う……違う……私の研究は……正しい……」
その瞬間、腕輪のヒビが、さらに深く広がる。パキ、パキと音を立てて。
バルトロメウスが、腕輪を見る。その灰色の瞳に、初めて恐怖の色が浮かぶ。
「……だめだ……!」
バルトロメウスが腕輪に手を当てる。必死に、崩壊を止めようとする。
「私の計算は……完璧だった……! 天秤は釣り合っていたはずだ……! なぜ……なぜだ……!」
その声は、もはや慈愛に満ちた聖人のものではない。追い詰められた男の、絶望の叫びだった。
ルシウスが、冷静に告げる。
「神は、貴様を見放した。腕輪の崩壊はその証拠ではないのですか?」
ゼノンが、叫ぶ。
「貴様の善行は、自分の私欲のため、神を騙そうとした罪だ!」
「違う……違う!」
バルトロメウスが首を振る。その動きは、まるで悪夢を払いのけようとするかのようだ。
「私は神を理解しようとしただけだ! 神の加護のメカニズムを解明し、善悪の天秤を計算し、完璧な善行を積み上げた! それは罪ではない! 学問だ! 探求だ!」
だが、その言葉は空しく響く。腕輪のヒビは、もう止まらない。
バルトロメウスの表情が、崩れていく。慈愛に満ちた微笑みが、歪んでいく。灰色の瞳が、焦点を失っていく。
「私の……私の研究は……正しいのだ……!」
そして、理性の最後の糸が切れた。
「私の研究は正しい! 正しいのだ!!!」
バルトロメウスが、狂おしいほどの哄笑を上げる。その笑い声は、応接室に響き渡る。もはや、そこには聖人の面影はない。ただ、狂気に染まった一人の男だけがいた。
同時に、腕輪のヒビが、一気に深く広がる。パキ、パキ、パキと音を立てて。
バルトロメウスはもう腕輪を気にする様子もなく、耳障りな哄笑を上げ続けている。
その様子を見たディアボロが、見下すようにつぶやく。
「所詮はただの人間か。この程度で、精神が焼き切れてしまうとはな。もう、終わらせよう」
ディアボロが一歩踏み出す。
その瞬間、ディアボロの周囲の大気が、黒い魔力に変換される。だが、それは破壊のためではない。ディアボロは、ゆっくりと拳を握りしめる。
「我の感じている『愛』で、貴様の『執着』を断ち切る」
ディアボロが、拳を振り上げると、その横でゼノンが叫ぶ。
「魔王様! 今なら通じます! 偽りの加護は崩れかけています!」
ディアボロは止まらない。渾身の拳が、バルトロメウスの腕輪に叩き込まれた。以前は透過したはずの拳が、今度はガキン、と硬質な音を立てて弾かれた。
空気が一瞬だけ震える。
その異変に、ルシウスが確信を持って頷いた。
「……天秤が崩れた。神の加護が、完全に失われた」
ディアボロが、もう一度拳を振るう。
「終わりだ」
二度目の拳が、腕輪を完全に砕いた。腕輪の欠片が、薄い光の粒子となって消えていく。
その瞬間、腕輪が制御していた全ての「安息」が解放された。
屋敷のどこかで、アルフレッドの心臓が動き出す。腕輪が止めていた生命の循環が、再び流れ始める。呼吸が戻る。体温が戻り始める。地下室では、ガラスケースが一斉に震え、英雄たちが、一人、また一人と目覚め始めた。
支配されていた様子の使用人たちも元に戻ったようで戸惑っている中、控えめに応接室の扉がノックされた。いち早く気付いたゼノンは扉に駆け寄って開く。そこには、アルフレッドがだるそうに立っていた。
「……マスター」
そこに立っていたのは、壁に手をつき、まだ少し青白い顔をしたアルフレッドだった。息は浅く、苦しげに、途切れ途切れだが、その群青の瞳は真っ直ぐにディアボロを捉えている。
「すみません、なんかずっと俺、爆睡していたようで……でも、マスターの気配がしたから……」
そのアルフレッドの言葉を最後まで聞かず、ディアボロは、アルフレッドを強く抱きしめた。そして、止められない安堵が、頬を伝う。
「……ふん、寝すぎだぞ。我の胃袋は空虚な暗黒貴族に支配されているのだ」
ディアボロの声は、震えながらもアルフレッドに不満を言った。
「はいはい、俺もすごい腹ペコなので、ボリュームある食事でも作りますか」
その優しい言葉が、いつものアルフレッドで、ディアボロは心底ホッとする。だが、この頬を伝う水分はアルフレッドに見せるわけにはいかぬ。だがごまかす方法も思い浮かばず、アルフレッドの肩に顔を寄せる。
「あ、いいんですね。なんだ、マスターも腹ペコなら急がないと。さ、戻りましょうよ」
ディアボロの手をつかみ、アルフレッドは応接室を出る。
「なんかボクもお腹すいちゃったな……。アルフレッド様の料理美味しいし……」
胃を違う意味で抑えるゼノン。
「ふむ。魔王様の様子も見たいことですし、一緒に戻りましょう。キッチン・ブランに」
眼鏡を押し上げ、ルシウスも同意した。
バルトロメウスは、魂が抜かれたように床に膝をついていた。
「私の研究は……私の愛は……正しいのに……」
その時、地下室から重い足音が響いてきた。複数の足音。金属の鎧が擦れる音。
扉が開き、黄金の甲冑を纏った聖騎士グレゴリウスが入ってくる。その後ろには、大賢者エリアーナ、弓聖リディア、そして他の英雄たち。彼らの瞳には、怒りと、悲しみが混じっていた。
グレゴリウスが、バルトロメウスの前に立つ。
「バルトロメウス・フォン・グランツ。貴様の罪は重い」
大賢者エリアーナが続ける。
「神への冒涜だ。神の加護を私物化し、神を愚弄した」
弓聖リディアが、冷たい視線を向ける。
「そして、我々を『保存』した。人の時間を奪い、人の意志を奪った」
英雄たちが、バルトロメウスを囲む。バルトロメウスは、抵抗しない。ただ、虚ろな目で空虚を見つめている。
「……神だけなのか。私の自由にならないものは……」
英雄たちが、狂った思想のバルトロメウスを連行していく。テーブルの上では、残っていた黒い炎が、最後の光を放って消えた。
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