第30話 『神への冒涜』
窓から差し込む午後の陽光は柔らかく、手入れの行き届いたソファは、座れば身体が沈み込むほどに心地よい。一見すれば上質な時間を過ごせそうな応接室だが、そこはどこか、息苦しい空気に満ちていた。
ディアボロは、その座面に深く背を預け、向かいの男を睨み据えていた。
そこには、柔らかな慈愛に満ちた笑みを湛え、微塵も表情を崩さないバルトロメウスが座っている。だが、ディアボロにはその温和な微笑みが、感情を隠すために貼り付けられた仮面のようにしか見えなかった。
本来ならば、この隣にはアルフレッドがいるはずだった。すぐ側にいるべき者がここにいない。その現状が、ディアボロには許し難く、深紅の瞳が、抑えきれぬ苛立ちを静かに燃やしていた。
「……貴様。アルフレッドをどこへやった。答えろと言っている」
ディアボロの声は低く、抑えきれぬ苛立ちを孕んでいた。その言葉一つ吐き出すのにも、内側で煮え滾る黒い魔力を必死に抑え込む必要があった。
もし、今ここで思うがままに自身の力を振るえば、この邸宅のみならず、周囲の街区ごと跡形もなく消し飛んでしまうだろう。
最強の魔王が、最強であるがゆえに指一本動かせない。磁器のように白い額には、じわりと冷たい汗が滲み、不快な感触となって頬を伝い落ちた。
「そんなに険しい顔をしないでくれたまえ。彼は今、静かな眠りの中で守られている。作成途中の私の大切なコレクションの一部として、ね」
バルトロメウスが、白い手袋をした手で音もなくティーカップを置いた。カチリ、という硬質な音が、ディアボロの張り詰めた神経を逆撫でする。
その時、廊下から静寂を破る激しい足音が響いた。
扉が開き、ゼノンとルシウスが滑り込むように入ってくる。
二人とも顔色が悪い。ゼノンは胃を押さえ、額に脂汗を浮かべている。ルシウスは眼鏡を押し上げ、荒い息を整えようとしている。
二人は部屋に満ちた、今にも爆発しそうな主の魔力の圧に息を呑む。空気が重い。一歩踏み込むだけで、肌が焼けるような感覚がある。
「ゼノン、そしてルシウスか。遅いぞ。……アルフレッドの気配が、どんどん遠のいていく」
ディアボロは視線だけを彼らに向けた。その瞳は、理性の灯が消え入りそうなほどに深い深紅へと染まっている。声は低く、絞り出すような響きだ。
「申し訳ございません……」
ゼノンが胃を押さえたまま、声を絞り出す。
ルシウスが一歩前に出て、冷静な声で告げる。
「魔王様。この男の『天秤』を崩すための、決定的な証拠を見つけてきました」
ディアボロが、わずかに顔を上げる。その深紅の瞳に、わずかな希望の光が宿る。
「……だが、奴の善行は全て記録されている。孤児院への寄付、貧民への施し、教会への献金。完璧に記録されているはずだ。天秤を崩す証拠など……」
「あります」
ゼノンは苦痛に顔を歪めながらも、はっきりとした声を絞り出す。
「この男が長年隠し通してきた、決定的な『偽善の記録』が……!」
バルトロメウスが、くすりと笑った。
「おや、魔界からの客人がさらに増えたようだね。歓迎するよ。だが、君たちが何を見つけようと、無駄だと思うがね」
その余裕の笑みに、ゼノンが顔を歪めてさらに胃を強く押さえた。そのとき、ルシウスが苦しむ同僚を庇うように一歩前に踏み出し、王都で集めた証拠の束を握りしめていた。
「バルトロメウス・フォン・グランツ。あなたの『聖人』としての顔は、今日この時を以て終わりです」
ルシウスの声が、冷徹な刃となって室内を切り裂いた。彼は手元の書類を、バルトロメウスの前の大理石のテーブルへと叩きつける。乾いた紙の音が、張り詰めた空気を震わせた。
「孤児院への寄付記録と、実際の受領額の乖離。財務記録の食い違い……そして、あなたと接触した英雄たちが次々と消えている。これが、あなたの言う『善行』なのですか?」
バルトロメウスは、ゆっくりと書類に目を落とした。その灰色の瞳が、一枚、また一枚と証拠を追っていく。数秒の沈黙が流れる。やがて、何がおかしいのか、くくっと喉を鳴らして笑い始めた。その笑みは、まるで子供の拙い悪戯を見つけた大人のように、優しく、残酷だった。
「……論理的な指摘だね、魔界の徴収官。よく調べたものだ」
バルトロメウスが書類を一枚、また一枚とめくっていく。その仕草は優雅で、まるで興味深い読み物を楽しんでいるかのようだ。指先が、白手袋の上から紙の感触を確かめるように滑っていく。
「確かに、財務記録に食い違いがあるようだね。だが、それは孤児院側の受領記録が誤っているだけだろう。長年、多額の寄付を続けていれば、記録の齟齬が生じることもある。そんなことは、常識だよ」
穏やかな口調。慈愛に満ちた微笑み。まるで、子供の失敗を優しく諭すかのような態度だった。バルトロメウスは書類から視線を上げ、ルシウスを見つめる。その眼差しには、微塵の動揺も見えない。
「それに、消えた英雄たちの記録? 彼らは自らの意志で旅立ったのだろう。私に責任があるとでも? 英雄とは、そういうものだ。ある日突然、風のように姿を消す。それが彼らの生き方なのだから」
ルシウスが一歩踏み込む。眼鏡の奥の瞳が、鋭く光る。
「ならば、なぜ彼らは全員、あなたと接触した直後に消えているのですか? 偶然にしては、あまりに不自然だ」
「ふむ。それは興味深い指摘だが……」
バルトロメウスが書類を置き、ティーカップを手に取る。陶器が白手袋に触れる、かすかな音。彼は一口、紅茶を飲んだ。その仕草は、まるで午後の優雅なティータイムを楽しんでいるかのように、ゆったりと、余裕に満ちていた。
「消えた? 人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。彼らは永遠の安息を得たのだよ。……そうだろう、魔王陛下? 貴方には特別に、私の愛のコレクションをお見せしたはずだが」
その瞬間、ディアボロが低く唸るような声を発した。応接室の空気が、一瞬で凍りつく。
「……ああ。この眼で見たぞ。貴様の地下室で、まるで剥製のように『飾られた』英雄たちをな」
ディアボロの声は、抑えきれぬ怒りに震えている。深紅の瞳が、燃えるような光を放つ。拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいるのが見えた。
「我は、敵を殺した。国を滅ぼした。だが、あんな風に『飾る』ことはせぬ。貴様は、人間でありながら、魔族より残酷だ」
バルトロメウスは、一瞬だけ沈黙した。その灰色の瞳に、何かが走る。驚き、ではない。むしろ、愉悦に近い光だった。そして、くすりと笑う。
「あれこそが、真の『愛』だと、まだ理解できないのかね? 彼らは永遠に、最も美しい瞬間のままだ。時の流れという暴力から、私が守ってあげたのだよ。老いることも、傷つくことも、裏切られることもない。完璧な姿で、永遠に」
「愛じゃない! それは、狂気だ! 我々魔族でも、ここまではしない!」
ゼノンが、胃の痛みに耐えながら叫ぶ。その声は震えているが、強い意志が込められていた。
バルトロメウスが、くすりと笑った。その笑みは、まるで子供の戯言を聞いているかのように、優しく、侮蔑的だった。
「魔族の倫理観で私を測らないでくれたまえ。君たちには理解できないだろうが、私の行いは『芸術』なのだよ。それに……」
バルトロメウスが立ち上がり、人形のような使用人たちに視線を向ける。
「君たちの指摘には、致命的な欠陥がある。財務次官を呼びたまえ」
バルトロメウスが人形のような使用人に指示を出す。使用人は無言で頭を下げ、部屋を出ていった。
やがて、扉が開いた。財務次官が震えながら入ってくる。小太りで、額に汗を浮かべた中年の男だ。その足取りは重く、まるで処刑台へ向かう罪人のようだった。
「……バルトロメウス様、お呼びでしょうか……」
財務次官の声は、掠れている。視線は定まらず、部屋の隅、床、天井と、落ち着きなく彷徨っている。額の汗が、一筋、また一筋と頬を伝い落ちる。
「君に聞きたいことがある。この記録の食い違いについて、説明してくれたまえ」
バルトロメウスが、穏やかに問う。その声は優しく、慈愛に満ちている。だが、その視線は氷のように冷たい。灰色の瞳が、財務次官を射抜いている。
財務次官の顔が、見る見るうちに蒼白になっていく。震える手で額の汗を拭おうとするが、手が震えすぎて上手くいかない。唇が小刻みに震え、何かを言おうとして、声にならない。
数秒の沈黙。
そして、耐えきれなくなったかのように、財務次官が床に膝をついた。
「も、申し訳ございません……! つい、出来心で……長年、寄付金の一部を……」
その声は、絞り出すようだった。震える指が、床を掴む。頭を深く下げ、バルトロメウスの足元に額をつけんばかりに平伏する。
「本当に、本当に申し訳ございません……! 最初は、ほんの少しだけ、と思っていたのです……それが、年を重ねるごとに、止められなくなって……」
バルトロメウスは、その姿をじっと見下ろしていた。表情は変わらない。慈愛に満ちた微笑みのまま。だが、その瞳だけが、冷たく、鋭く、財務次官を見つめている。
「……貴様」
バルトロメウスの声が、初めて低く沈んだ。その灰色の瞳に、一瞬だけ怒りの色が走る。室温が、わずかに下がったような錯覚すら覚える。
財務次官が、さらに深く頭を下げた。体全体が震えている。
「申し訳ございません……本当に申し訳ございません……!」
だが、バルトロメウスは深く息を吐き、すぐに表情を整えた。まるで怒りなど最初からなかったかのように、穏やかな微笑みを取り戻す。白手袋をはめた手で、ティーカップを再び手に取る。
「……なるほど。私の部下が、勝手に横領していたわけだ。これは私の管理責任だね。申し訳ない」
バルトロメウスが、ルシウスに向き直る。その微笑みは、再び慈愛に満ちている。まるで、何事もなかったかのように。
「だが、私は知らなかった。これで理解いただけたかね? 私に罪はない。罪があるのは、この愚かな男だけだ」
論理的には、逃げられる。バルトロメウスの主張には、一定の説得力がある。法的には、彼を裁くことはできないだろう。
ゼノンが胃を押さえながら、必死に叫ぶ。声が震えているが、それでも諦めない。
「でも……でも、神はあなたの『心』を見ています! あなたが本当に知らなかったのか、それとも黙認していたのか……神はわかっている!」
バルトロメウスが、くすりと笑った。ティーカップをソーサーに戻し、優雅に立ち上がる。
「神? 神は私に加護を与えている。それが何よりの証拠だよ。もし私が罪人ならば、神はこの腕輪を私に与えはしない」
バルトロメウスが、左腕の腕輪を軽く撫でる。そこには、神が描かれている。静かな腕輪。それが、ただそこに在るだけ。
「神は、私を認めている。私の善行を、私の愛を」
その瞬間、ディアボロの周囲の空気が変わった。
ドォォォォォンッ、と。
質量を持った圧力が、応接室を揺らした。ティーカップが、ソーサーの上で震える。窓ガラスが、びりびりと震動する。財務次官が恐怖に顔を歪め、床に這いつくばる。
ディアボロが立ち上がる。その周囲の大気が、触れるものすべてを破壊するような黒い魔力に変換されていく。深紅の瞳が、理性の灯が消え入りそうなほどに暗く、深く染まっている。
「……もうよい。これ以上、この男の口から発せられる戯言を、聞くわけにはいかぬ」
ディアボロの声は、低く、地を這うような響きだった。その一言一言が、殺意と破壊の予兆を孕んでいる。
「魔王様! いけません、今ここで力を使えば……!」
ゼノンが必死に叫ぶ。胃の痛みで声が震えている。だが、それでもディアボロを止めようと、必死に声を張り上げる。
「離れろ、ゼノン。……我が、我自身の手で、この男を、この屋敷を、灰にしてくれる」
ディアボロの周囲の魔力が、さらに濃くなる。空気が歪み、視界が揺らぐ。
「お待ちください!!」
ルシウスがディアボロの前に立ち塞がった。その動きは俊敏で、まるで主を止めるために全身全霊をかけているかのようだった。眼鏡の奥の瞳が、強い意志を湛えている。
「時間を……時間をください」
ルシウスの声は、冷静だが強い意志を帯びている。震えてはいない。魔王の圧倒的な魔力を前にしても、一歩も引かない。
「この腕輪は『神聖なる安息』……神の加護によるもの。だが、神の加護には『天秤』がある。善行と悪行を量り、善が上回る限り加護は続く」
ルシウスが、素早く説明を続ける。言葉は淀みなく、理路整然としている。
かつて魔界の禁書で一瞥した『因果の均衡』。その不気味なほど一致する理屈こそが、耐え難いほどの怒りで我を失いかけた主を繋ぎ止める、唯一の鎖だと彼は確信していた。眼鏡の奥の瞳が、必死にディアボロを射抜く。
「我々は、バルトロメウスの善行が『偽物』であることを証明しました。孤児院への寄付は横領され、実際には届いていなかった。つまり、善行の大半が無効です」
「……それで?」
ディアボロの声は、低く、抑えきれぬ怒りに震えている。周囲の魔力が、さらに濃くなる。床が、わずかに軋む音を立てる。
「天秤を、悪行へと傾けるのです」
ルシウスが、一歩踏み込む。
「善行が無効化されれば、天秤は崩れる。神の加護は失われ、腕輪は砕ける。物理的な破壊ではなく、概念としてこの腕輪を否定する。そうすれば、アルフレッド様は無傷で戻ってこれます」
ゼノンが、胃を押さえながら続ける。声は震えているが、諦めていない。
「ボクたちが、バルトロメウスの善行をさらに調べます。横領の規模、実際の寄付額、全てを明らかにして……神に、この男の『偽善』を証明します」
ディアボロは、濁った瞳でルシウスを見つめた。深紅の瞳が、理性と破壊の狭間で揺れている。拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいるのが見えた。
一秒が、永遠のように長く感じる。
応接室に、重い沈黙が降りる。時計の針が、カチ、カチと時を刻む音だけが響く。
やがて、ディアボロが手を掲げた。
その手のひらから、黒い炎が揺らめき始める。だが、それは熱を持たない、冷たい炎だった。空気が凍りつくような、不吉な光。魔界でのみ灯る、時を刻むための魔灯。その炎は、ゆらゆらと揺れながらも、確かな存在感を放っている。
ディアボロは、その炎をテーブルの上に置いた。黒い炎は、静かに、ゆっくりと燃えている。まるで生き物のように、揺らめき、脈動している。
「……この炎が、消えるまでだ」
ディアボロは、絞り出すような声で告げた。その声には、底なしの憤怒と、わずかな希望が混じっている。
「一欠片でも残っているうちは、待とう。だが、完全に消えた瞬間……」
ディアボロの深紅の瞳が、バルトロメウスを射抜く。
「我はこの世界の半分を、アルフレッドの葬列として焼き払う。……行け」
ゼノンとルシウスは、黒い炎を一瞥した。その炎は、静かに、だが確実に燃え続けている。時間は限られている。二人はディアボロに深く頭を垂れると、弾かれたように部屋を飛び出していった。その足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていく。
再び、息苦しい静寂が戻る。
応接室には、ディアボロとバルトロメウス。そして、静かに燃え続ける黒い炎だけが残された。バルトロメウスは、その炎を興味深そうに眺めている。微笑みを浮かべたまま、ティーカップを手に取る。
「魔界の魔灯ですか。美しいですね。時を刻むための炎……実に興味深い」
ディアボロは答えない。ただ、ソファに深く腰を下ろし、拳を握りしめる。
ディアボロは指先一本動かせず、かつてない無力感と闘いながら、遠く離れた部屋で凍りつこうとしている愛する者の気配を探し求めていた。黒い炎が、ゆらゆらと揺れる。その光が、ディアボロの顔を照らす。
時間だけが、冷酷に、容赦なく、過ぎていく。
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