第29話 『剥製師の審美眼』
石畳を叩く馬車の蹄の音が、やけに重く、冷たく響く。
王都の朝の活気を切り裂くように走り出した、財務卿の紋章が刻まれた黒塗りの馬車。その豪華な革張りの座席に、ディアボロは、もはや呼吸しているのかさえ定かではないアルフレッドを、壊れ物を扱うように抱きしめたまま座っていた。
「……アルフレッド、起きろ。不味い紅茶を淹れたからと、我を叱らぬか」
ディアボロの声は、震えることさえ忘れたかのように、平坦で、乾いていた。
腕の中にあるのは、かつて小麦色の肌に生命の躍動を宿していた勇者。
だが今、その肌は雪のように白く、触れた瞬間、安心できるはずの温もりがそこにはなかった。
窓の外、遠ざかっていく店の扉。
二人の笑い声が、包丁がまな板を叩く音が、客たちの賑わいが詰まっていたはずの場所。その店内に残されたコンロの火が、まるでディアボロの希望が消えたかのように、すっと消える。
馬車が到着したのは、外界の喧騒を遮断するかのような高い塀に囲まれたバルトロメウス邸だった。
出迎える使用人たちは、一様に整った顔立ちをしているが、瞳に光がなく、人形のように無表情だった。
人形たちは、アルフレッドをディアボロの腕から引き剥がそうと無機質に群がってきた。
普段なら指先一つで消し炭にできる相手だが、アルフレッドの命を盾にされている今、ディアボロは抵抗することすら許されない。
己の無力さに血が滲むほど唇を噛み締めながら、彼はアルフレッドが奪われていくのをただ見送るしかなかった。
「アルフレッド君なら心配はない。今は来客室のベッドで静かに眠ってもらうだけだよ」
生身の人間のはずだが、ディアボロには理解できなかった。
彼らは生きているのに、生命の気配がなかった。
——いずれアルフレッドもそうなってしまうのか。
「さあ、案内しよう。君のような本質に宿る美しさを見抜く瞳を持っているなら、きっと気に入るはずだ」
伯爵が案内したのは、屋敷の最深部、地下へと続く冷え切った階段だった。一段降りるごとに、空気は湿り気を帯び、世界を断絶するような静寂が深まっていく。
長く階段を降りた先にようやく辿り着いた広大な地下ホール。
そこに広がる凄惨な有り様に、ディアボロの深紅の瞳が怒りで裂けそうになる。
地下にあったのは、命を弄ぶ地獄そのものだった。
そこには、十五体以上のクリスタルのケースが整然と並んでいた。
その中には、歴史の表舞台から消えたはずの英雄たちが、生前の美しい瞬間の姿でバルトロメウスの『神聖なる安息』に閉じ込められていた。
最初に見えたのは、黄金の甲冑を纏った五十代ぐらいの男性の騎士姿だった。
剣を天に掲げた雄々しい姿勢のまま、彼は完全に静止している。
銘板には「聖騎士グレゴリウス/王国を救った英雄/保存日:15年前」とあり、表情は、今まさに敵を斬り伏せようとする瞬間の、勇ましい決意に満ちていた。
その隣には、深紅のローブを纏った妙齢の女性の魔道士がいた。
彼女は杖を掲げ、まさに強大な呪文を唱えようとしたその瞬間で止まっている。
銘板には「大賢者エリアーナ/不朽の極致に至りし導師/保存日:20年前」と刻まれ、見開かれたままの瞳には、かつての知性が凍りついている。
さらに歩を進めると、革の鎧を着た筋肉質の若い女性の弓士が見えた。
彼女は力強く弓を引き絞った姿勢のまま固定されている。
銘板には「弓聖リディア/竜を討った勇者/保存日:10年前」とあり、彼女は勝利を確信したような笑顔のまま、その美しさを永遠に固定されていた。
その他、十体以上のケースには、名だたる聖騎士や魔術師、冒険者、盗賊などが並び、それぞれが「最も美しい瞬間」で止められていた。
各ケースには功績と保存日が事務的に刻まれている。そこは英雄たちの悪趣味な「コレクションルーム」と化していた。
そして最深部。そこにはアルフレッドの背丈に合わせた、最高級のベルベットが敷かれた空のケースが置かれていた。
銘板には既に『ALFRED』の名が冷たく刻まれている。
「これこそが、真の愛だよ、魔王陛下。汚れることも、老いることも、裏切ることもない。私が彼らを時の流れという残酷な暴力から守ってあげたいのだ」
ククッ、と我慢できないように笑いを漏らす伯爵の狂気的な美学を前に、ディアボロは激しい怒りに拳を震わせる。
応接室に移動し、ディアボロは豪奢なソファに案内されると、人形のような使用人が紅茶を寸分違わない丁寧な動作で淹れていく。
「そういえば、君は紅茶を愛しているのだね。アルフレッド君に何度も淹れてもらっているのは確認している。魔界で部下たちに傅かれていればいいものを」
アルフレッドを手に入れたという愉悦に浸りながら紅茶を飲むバルトロメウス。対するディアボロは険しい顔をし、手を組んだまま微動だにしない。
「数時間で、アルフレッド君の体温は完全に失われる。君には何もできない。魔王の力はこの神の加護の前では無意味だ。君が築いたあのくだらない日常は、もう二度と戻らない。アルフレッド君は永遠に私のものだ」
楽しそうなバルトロメウスを前に、魔王ディアボロはきつく口を結び、拳をギュッと握るしかなかった。
時間が、魔王の敵として冷酷に過ぎていく。
ディアボロは、最強の力を持っていながら大切な者を救えないという、初めての「無力」を全身で味わっていた。
その頃。
魔界では、ゼノンがディアボロの魔力反応が不自然に消失したことに気づき、激しい胃の痛みに襲われていた。
「いつもなら絶対……魔王様の居場所はボクにだけは知らせてくれているのに……」
ディアボロの魔力反応が途切れるということはあってはならないことだ。
今回の件の報告書の作業量を思い、胃を押さえながらゼノンはルシウスの居室の扉を叩く。
「ゼノン、やはり来ましたね。私も先ほど気づきました。大きな騒ぎになる前に私達が魔王様の様子を見に行きましょう」
ゼノンはすぐさまルシウスを伴い、人間界へと転移する。
辿り着いた『キッチン・ブラン』は、カウンターが破壊され、昼間だというのに真夜中のような静寂に包まれていた。
「……火が、消えている。それにこれは……」
ルシウスが冷え切ったスープと粉砕されたカウンターを確認する。
作りかけのスープが置かれたままで、ディアボロとアルフレッドが不在の様子から、異常事態を察知した二人は調査を開始した。
「ボ、ボクは街の人に聞き込みをしてくるよ」
店内をくまなく調べているルシウスにゼノンは声をかけ、近隣の職人たちに聞き込んでいった。
何人かに声を掛けると「財務卿の馬車がキッチン・ブランにしばらく停車し、そのあと出ていった」という目撃情報を得た。
「ふむ。今の王都の財務卿といえば、バルトロメウス・フォン・グランツ伯爵ですね」
ルシウスがそう言うと、しばらく考え込んだ。
「調べるなら……たくさんの書類がある図書館に向かうのがボクはいいと思います」
「なるほど。伯爵の表立っての記録は調べられそうですね。行ってみましょう、ゼノン」
王都図書館に向かうと、二人はそれぞれに行動する。
ゼノンはバルトロメウス伯爵の善行の記録を、ルシウスは財政記録や寄付の詳細などを調べ始める。
お互いの書類を突き合わせ、矛盾がないかどうかを確認していく。
「あれ? この寄付の金額にずれがあるよ、ルシウス」
「どれですか? 見せてください」
孤児院側の受領記録には、伯爵の財務記録の『十分の一』の金額しか記載されていなかった。いつからずれがあるのかを遡ると、実に二十年前から食い違っていることが判明する。
「……ただの横領ではありません。これは、伯爵の善行が偽りであるという決定的な証拠です。これなら、あの男の加護の『天秤』を崩せるかもしれない」
ルシウスの眼鏡の奥で、冷徹な理性の光が鋭く閃いた。
「ゼノン、急いでバルトロメウス伯爵邸へ向かいますよ。魔王様が、取り返しのつかないことを起こす前に!」
胃痛がひどくなっていたゼノンを引きずるように、ルシウスはバルトロメウス伯爵邸に向かうことにした。
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