第28話 『凍れる鼓動』
王都の朝は、石畳を叩く馬車の規則正しい音と、あちこちから漂う焼きたてのパンの香りで穏やかに始まる。
だが、職人街の裏路地に佇むレストラン『キッチン・ブラン』の厨房は、それら外の賑やかさとはまた違う、凛とした活気に満ちていた。
大きな寸胴の中では、カボチャとナッツのスープがふつふつと、音を立てて煮えている。
立ち上る湯気がカウンターを温かく湿らせ、店内に香ばしい匂いを振りまいていた。アルフレッドは小皿に取ってスープの味をたしかめ、わずかな塩を足す。
窓際の席では、ディアボロが朝日に深紅の瞳を細めながら、食後の紅茶を楽しんでいた。
不意に、その安らぎを招かれざる客のドアベルが切り裂いた。
入ってきたのは、柔らかな風格を纏った男だった。
四十代半ば、完璧に整えられたプラチナブロンドの髪と、すべてを見透かすような洗練された灰色の瞳。
男が微笑むだけで、さっきまで湯気に満ちて温かかった厨房は、一瞬にしてひんやりとした静謐さに支配されていく。
ディアボロが深紅の瞳を向け、侵入者の値打ちを測るように冷徹に男を射抜く。
それを見たアルフレッドは、ディアボロを遮るように一歩踏み出し、丁寧に男へ声をかけた。
「まだ開店時間前なんです。なにか御用ですか?」
男はアルフレッドの問いを柔らかく受け流すと、まるで父親のような静かで深い慈しみを湛えた目でアルフレッドを見つめ、そのあとゆっくりと店内を見渡した。
「ああ、これは失礼。あまりに懐かしい顔を見たものでね。……久しぶりだね。アルフレッド君」
そう言うと男は、慈愛に満ちた穏やかな微笑みをアルフレッドに向ける。
「……あなたは、どなたですか?」
アルフレッドは困惑を隠せぬまま問い返す。
男の瞳はどこまでも優しげだが、言っていることの意図がさっぱり掴めない。
アルフレッドは、拭いきれない違和感だけが残るのを自覚しながら、男を見つめ返した。
「忘れてしまったのかい? 君が小さい頃に何度か会ったことがある……そう、君のいた孤児院の院長だよ」
「……院長、先生?」
アルフレッドの眉間に、微かな歪みが走る。
記憶の底にある輪郭を必死に手繰り寄せようとするアルフレッド。
その反応を楽しむように、男はゆっくりと視線を厨房へと走らせた。
「ふむ。こうして懸命に腕を振るう君の下働き姿は、実に健気で、喜ばしいものだ」
男はそこまで言うと一度言葉を切り、窓際に座るディアボロに向き直った。
その灰色の瞳は、優しく硬質な光を浮かべていた。
「あぁ、これは失礼した。貴殿がアルフレッド君の雇い主かね。私はバルトロメウス・フォン・グランツ。現在は王都財務卿。伯爵を名乗らせてもらっている」
ディアボロの眉がぴくりと動く。椅子に座ったまま、紅茶のカップを置くその手から、じわりと隠しきれない威圧感が漏れ出す。
男の声音に宿る、奇妙に歪んだ「所有権」の匂い。
それを嗅ぎ取ったディアボロが、伯爵を威圧するかのように睨んだ。
だがバルトロメウス伯爵は、ディアボロの視線を春の微風を浴びるかのように受け流すと、再び慈愛に満ちた表情でアルフレッドへと向き直る。
「どうかな? 私のことは思い出してもらえたかな?」
そう言うと伯爵はアルフレッドの手をそっと自身の両手で包み込む。
その白く冷ややかな両手が触れた瞬間、アルフレッドの脳裏に、封印されていたはずの光景がフラッシュバックした。
暗く長い廊下、規律という名の抑圧、あの時の匂い、そして自分を「至宝」と呼び、執着の目を向けた男の体温。
「あ……」
血の気が引いていくアルフレッドを、伯爵は逃がさない。
「アルフレッド君。これほどみすぼらしく、不衛生な環境で君の才を浪費し続けるのは、あまりに悲しい間違いだとは思わないかね? 君という『至宝』を、本来あるべき正しい場所へ戻してあげなくてはいけない」
男が慈しむように、左袖にある神が描かれた腕輪をなぞる。
その直後、男の唇が堪えられなかったのか、残忍な笑みに形を変える。逃れられぬ睡魔が、アルフレッドの意識を強引に深淵へと引きずり込んでいく。
まぶたが鉄の扉のように重い。指先から力が抜け、握っていたはずの日常が砂のようにこぼれ落ちていく。
必死に顔を上げ、掠れゆく視界の先に追い求めたのは、ただ一人だけ。
ディアボロ。
落ちかけたアルフレッドの目の前で、その顔がこれまでの永い月日で一度も見せたことのないほど、蒼白に歪んでいる。
最後に見たのは、ディアボロがなりふり構わずこちらへと手を伸ばす、あまりに必死な形相だった。そこで、アルフレッドの意識は灯火が消えるように、真っ暗な静寂へと吸い込まれていった。
「アルフレッド! どうしたのだ、おい……?」
がくり、と膝をつくアルフレッドを、ディアボロは間一髪で抱きとめた。
アルフレッドの返答はない。
何より恐ろしいのは、腕の中にある体温が、驚くべき速度で失われていくことだった。
「アルフレッド! おい、起きろ! 目を閉じるなと言っている!」
ディアボロの叫びは行き場を失い、店内の空気を圧し潰した。
どれほど揺さぶろうとも、アルフレッドは一向に目を覚ます気配がない。
しっかりと抱き上げたアルフレッドの胸からは、生物が刻むべき拍動が完全に消え失せていた。
煮え滾る魔力が、ディアボロの体内を駆け巡る。
目の前の男を、その根源ごと焼き尽くせと本能が吼える。
だが、ディアボロはその破壊の衝動を、血を吐くような思いで抑え込んだ。
今ここで力を解放すれば、アルフレッドと互いに築いたこの場所を、自分自身の手で破壊してしまう。その危うさを、魔王は必死に抑えこむ。
ディアボロの腕のそばへ、伯爵が音もなく歩み寄る。
屈み込み、穏やかな手付きで、眠るアルフレッドの髪を整えた。
その指先が熱を帯びて、アルフレッドの肌を撫でる。
「——貴様、触るな!」
ディアボロの理性が爆ぜた。
アルフレッドを左腕で守りながら、右の拳を伯爵の顔面へと叩き込む。
だが、その拳は男の肌を打つ直前で、まるでないものを打ったかのように虚空を透過し、背後のカウンターを粉々に粉砕しただけだった。
「なっ……!?」
伯爵は一歩も動かず、優雅な微笑を絶やさないまま、粉塵を避けるように立ち上がった。そのまま、辛うじて形を残したカウンターの端に腰を下ろす。
「暴力という野蛮な手段では、神の数式を解くことはできるわけがない」
ディアボロが、どろりとした深紅の殺意に染まった瞳で、くすりと笑った伯爵を睨む。
バルトロメウスは、先ほどの現象について、愉悦を込めて語り始めた。
「無駄だよ、魔王陛下。これは呪いではなく、神が私に与えた腕輪『神聖なる安息』。物理的な破壊は私には届かない。理論によって構築された、因果の鉄壁だ。それ以外にも色々使い方があってね、魔王を完全に無力化する方法も、こうすれば出来る」
ディアボロが抱きとめているアルフレッドの心臓付近に腕輪を押し付ける。
そして、バルトロメウスはディアボロの耳元でささやく。
「私の心臓が止まれば、アルフレッド君の活動も終わる。わかるかね? 物理攻撃以外で私を害すれば、アルフレッド君の命も消えるということだよ」
ディアボロの拳が、届かぬ怒りに、激しく、激しく震える。
「正体を隠し、勇者との薄汚いままごとに興じていた哀れな怪物よ。最強の力を持ちながら、愛する者のためにその力を一切使えぬ気分はどうだね?」
男を殺せば、アルフレッドが死ぬ。その事実が、ディアボロの心を押しつぶす。
「さあ、魔王陛下。彼を永久にこの静寂の中に留め置くか、それとも、私の手でその『安息』を終わらせるか……選ばせてあげよう」
作り手を失った厨房では、スープの鍋だけが空しく煮え続けていた。
朝日の差し込むキッチン・ブランは、今や一人の慈悲深き狂人と、光を奪われ静止した勇者と、慟哭を押し殺した魔王だけの、音のない牢獄と化していた。
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