第115話 『深淵の食卓と、ひと匙の救い』
ガラッ……。
崩壊した魔王城の瓦礫が再び崩れ落ちる。
何度もその音を聞き、ゼノンは不安そうに顔を上げた。その目に、ディアボロの姿が映る。
「あっ、魔王様!!」
封印を抜けてきたディアボロが、ぐったりとしたアルフレッドを抱えたまま、ゼノンの前に立つ。
「アルフレッドさん……。こ、これ、どうしたんですか?」
ゼノンはディアボロの手についた赤を見て、背伸びしてアルフレッドの様子を見る。呼吸は浅く、かすかな息だけが漏れていた。
「我が攻撃した。背中を貫いた」
「ええっ!? ま、待ってくださいっ……」
ゼノンの指先がアルフレッドの背中へ伸び、とろりと崩れて、傷口を覆うように広がった。
「と、とりあえず止血だけでも……!」
「……」
ディアボロはそっぽを向いたまま、「頼む」と小さく呟く。その耳だけが、熱を帯びて赤くなっていた。
「は、はいっ! ボクに出来るのは血を止めるだけで……それ以上は……」
「わかっている。後は我が見る。……早くしろ」
「わかりました、急ぎますぅ!」
キッチン・ブランの二階。
いつもと変わらぬ部屋に、アルフレッドを運び込む。慎重に彼をベッドに横たえた瞬間、ディアボロの張り詰めていた息が漏れた。
そして、ベッドサイドに持ってきた救急箱を開け、包帯を掴む。
「む……」
ゼノンが止血した傷を見下ろし、ディアボロは動きを止めた。包帯を握ったまま、手が動かない。ベッド脇の丸椅子に、とさり、と座り込む。
「……我は、なにもできんのか」
「うぅ……」
アルフレッドから声が漏れる。ディアボロは反射的に顔を上げ、舌打ちした。そして、アルフレッドを抱き起こす。包帯を首元から巻きつけ、手探りのまま、腰まで巻き下ろした。ところどころ浮いているが、構わず結び留める。
「ふん、相変わらず脆いな。だが……貴様は我が治す」
そのとき、階下からノック音が聞こえた。どうやら誰かが来たらしい。「勝手に消えるな、アルフレッド」そう言い残し、ディアボロは部屋を出た。
「チッ、せっかく一人で出てきましたのに。アルフレッド様はどちらに?」
聖女のエレンが、階段から降りてくる途中のディアボロに声をかけた。直後、鼻をスン、と鳴らした。
「ちょっと待ってくださいませ。……血の匂いですわね! まさか……」
エレンはディアボロを突き飛ばし、階段を駆け上がろうとする。だが、その腕をディアボロが強く掴んだ。
今のアルフレッドを、誰にも見せたくなかった。
「は、離しなさい! アルフレッド様が!!」
ディアボロは眉間に皺を寄せ、大きく息を吐いた。エレンが空いた手でディアボロを滅茶苦茶に叩く。
その一撃が、ディアボロの胸元に当たり、一瞬、呼吸が止まった。
「……っ」
たまらずエレンの手を離し、ディアボロは階段の手すりに寄りかかり、胸を押さえ、詰まった息を吐き出す。
「……ちょっと、どうしましたの?」
「……何も、あるわけがなかろう。店は休みだ。……帰れ」
そのまま、エレンの背を押し、ディアボロは扉を閉め、閂をかけた。扉の外からエレンの声が聞こえた。
「手持ちの品なので効果は薄いですけど……傷薬を置いていきますわ。お代は、今度美味しいものを食べさせてくださいませ。それでチャラですわよ」
エレンの気配が消え、ディアボロはそっと扉を開けると、小さな器に入った緑色の軟膏がぽつんと置かれていた。それを取り、ディアボロはアルフレッドのところへ戻る。巻いた包帯をほどき、軟膏を塗って、もう一度包帯を巻く。
日が陰り、どこからか夕食の香りが漂いはじめるころ、ディアボロは厨房のコンロの前で、腕を組み、仁王立ちしていた。
「ふむ……」
手にあるのは、表紙に禍々しい髑髏の装飾が施された一冊の古文書。魔導料理書『深淵の食卓』である。そのページをめくり、ディアボロは最後のページに目を留めた。
『素材ではない。料理の真髄は心である』
冷蔵庫を開けると、ストックのコンソメスープとベーコンと牛乳。野菜の棚から、ディアボロは玉ねぎとほうれん草を出した。
玉ねぎを細かく刻み、火にかけたフライパンで丁寧に炒める。透き通る色に変わったら別皿に取り、フライパンへ油を引く。生の米を入れ、表面に油が回るまでゆっくりと混ぜる。
さらにコンソメスープを入れ、玉ねぎを戻し、しばらく煮る。ふつ、ふつ、と柔らかな音が、静かな厨房に広がる。
「ふん、食べやすくすればいいのだろう」
米が煮える間、ディアボロはシンクに寄りかかり、目を閉じると、ここで調理をしていたアルフレッドの小麦色の腕が脳裏に浮かぶ。パフェを作っていたときの真剣な眼差し。夜中に食べた砂漠の砂のようなきなこパン。そして、芳醇な香りの紅茶『ブラン』を淹れてくれたときの滑らかな手つき。
いつもアルフレッドは優しい笑みを浮かべ、ディアボロに笑いかけてくれていた。今は、その光景が、やけに遠く感じられた。
カタン、とテーブルの皿に立てかけていたヘラがずれて落ちた。
ディアボロはフライパンの中身を確認し、ほうれん草を刻んだものを入れ、少し煮る。ミルクを注ぎ、味を軽く整え、二つの器に盛り、トレーに載せて二階へ向かう。
「……マスター、居たんですね。よかった……」
「……アル。貴様……」
言葉が続かない。ディアボロの手からトレーが滑り落ちかける。が、こぼさないように持ち直す。血の気の引いた顔のアルフレッドはそれを見て、くすりと笑う。
「……匂いで気がついちゃいました。美味しそうだったので」
ディアボロは歯を食いしばり、天井を見る。そしてしばらく動けない。
「……まだ、熱いぞ」
「もう限界です。早くください」
顔を上に向けたまま、視線だけをアルフレッドに落とす。ガチガチに巻いた包帯で、アルフレッドの腕は上がらない。肩の力を抜き、静かに息を吐いたディアボロは思い切って丸椅子に座ると、サイドテーブルに置いたミルクリゾットをそっと掬う。
「ほら、口を開けろ」
ディアボロの頬に色味が差しているのが見え、アルフレッドは悪戯そうな笑みを浮かべた。
「あーん」
「っ、この……」
ディアボロはギリっとスプーンに力を入れ、アルフレッドの口にミルクリゾットをぐいと押し込む。
「熱っ! ……でも、すごく美味しいです」
「決まっておる。我を誰だと思っておるのだ」
口角を上げ、ディアボロがアルフレッドを見据える。その質問に怯むことなく、アルフレッドはさらりと言った。
「俺だけの、マスターです」
そして、互いに声を上げて笑った。
その笑いは、職人街の夜のような、温かな響きだった。
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