第114話 『雨に溶ける、約束の温度』
天井の傷は、あのときのまま残っていた。
ハンバーグを分けた瓦礫も、崩れたまま、日陰に沈んでいた。
目の前のディアボロから、胸を軋ませていたあの音は聞こえない。
「よかった。……あのまま、消えてなくて、よかった」
ディアボロは、静かにアルフレッドを睨みつけている。あのときのように、いきなり襲いかかってはこない。
ディアボロは視線を外し、俯いた。さらりと銀髪が流れ落ち、表情が見えなくなる。そして、視線を落としたまま、ゆっくりと右手をアルフレッドへ向ける。
震える手に、黒い魔力が滲み、それが一気に収束し、黒炎となってアルフレッドへ放たれた。
アルフレッドはディアボロを見つめたまま、微動だにしない。黒炎は耳を掠め、背後の壁に当たり消滅する。
パキッ。
収まっていたあの音が、空気を軋ませるように響いた。
アルフレッドは眉根を寄せ、ディアボロを見る。肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた彼の表情は、苦悶に歪んでいた。
「……よせ。我は……」
ディアボロの苦しげな声が、バキバキと鳴り出した嫌な音に塗りつぶされていく。
「……逃げろ、アルフ……」
胸を押さえたディアボロの手から、漆黒の爪がせり出す。次の瞬間、それがアルフレッドに向かって振り下ろされた。頬が裂け、つ、と血が流れる。震える爪が何度も振るわれ、血飛沫が散る。その軌道は、どれもわずかに逸れていた。
ビキン!
ひときわ大きな音が、胸の奥から鳴る。
ディアボロの身体が跳ね、膝から崩れ落ちかける。が、倒れない。
荒かった吐息が、ゆっくりとおさまっていく。そのまま、背筋だけがすっと伸び、静かに顔を上げる。
伏せた睫毛の下には、空虚な深紅が広がっていた。
右手が上がり、黒炎がいくつも練り上がる。
それらは一斉にアルフレッドへ放たれた。だが、当たるはずの瞬間、すべてが霧のように掻き消える。
ディアボロは体勢を整え、爪を振るう。それもまた、アルフレッドの身体を掠めるだけだった。
「何故だ」
ディアボロは、空虚な瞳で自分の両手を見る。それを見たアルフレッドは、唇を固く結び、顔を歪めた。
ディアボロの中に、まだ自分はいる……いたんだ。
ディアボロは、アルフレッドからゆっくりと距離を取った。
掲げられた右手に魔力が集まり、大規模殲滅魔法の詠唱が始まる。アルフレッドの頭上で黒い渦が巻きあがり、バチバチと青い閃光を散らしながら、辺りの空気を焼いていった。
「……やめてくれ」
掠れた声が、アルフレッドの口から漏れた。
遠くのディアボロが腕を振る。次の瞬間、魔法がアルフレッドの頭上へと降り注ぐ。だが、それも当たる前に全て消え、焦げた匂いだけが残った。
崩れた天井から雨が降り注ぐ。冷たい雫が、二人を打ちつけた。
「……そうか。我は……欠けたのだな」
アルフレッドを見て、ディアボロが、潤んだ声で呟いた。
そのまま、右手の爪が伸びる。
指を揃え、自分の心臓へと狙いを定めた。雫に濡れたディアボロの口角が、すべてを受け入れたように、かすかに上がる。
それを見た瞬間、アルフレッドは考えるより先に駆け出していた。
「バカ野郎ッ!!」
ディアボロの爪が心臓へ届く寸前、アルフレッドはその胸に体ごとぶつかった。夢中で抱きしめた背中に、手刀が突き刺さる。
「ぐっ……」
背中が火のように熱い。意識が白く飛びそうになる。
食い込んだ爪から血が溢れ、雨に溶けていく。その温度に、ディアボロは動きを止めた。アルフレッドは苦痛に顔を歪めつつも、抱きつく手は緩めない。
「……あんたは、俺と約束した」
ディアボロの耳元で、アルフレッドは震える声で呟いた。
こらえきれなくなった涙がアルフレッドの頬を伝い、ディアボロの胸元へ落ちる。燕尾服の奥に広がっていた黒いあざが、雨と涙に溶けるように、ゆっくりと流れていく。
「俺だけの、マスターだろ」
かすかにディアボロの鼓動が聞こえる。もうあの嫌な音は聞こえない。ホッとしたアルフレッドは、ディアボロを見上げようと、わずかに手を緩めた。
そのとき、頭の上に、ぽつん、と。
雨じゃない、温かな雫が落ちた。
「……い、言いおったな……その約束、一分子も違えるなよ」
低くやわらかな、いつもの声が震えて響く。
アルフレッドはその声に苦笑する。そして、抱きしめた腕から力が抜け、そのまま崩れ落ちた。
「おい、アルフレッド!」
ディアボロが慌ててアルフレッドを抱きとめる。
アルフレッドの背中から流れる血が雨に混ざり、足元へと広がっていく。その赤が、予想以上に大きく見えた。
「チッ……貴様の体は、脆すぎる」
そう吐き捨てる声が、ひどく震えていた。
ディアボロはアルフレッドを抱え上げると、腕の中の重さを確かめるように一瞬だけ目を伏せ、小さく息を吐いた。
それから、アルフレッドを抱えたまま、崩壊した魔王城を後にする。
その傍ら、かつて二人が座った場所に、雨雲の隙間から漏れた陽の光が落ちていた。
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