第111話 『斜陽に溶ける、喉鳴り』
初秋の柔らかく、少し褪めた陽光が、白い壁に斜めの影を伸ばしている。
ランチ営業を終え、今日は閉店した『キッチン・ブラン』に、客の姿はない。
店内に漂うのは、極上の茶葉『ブラン』の芳醇な香りと、裏ごしされた栗と焦がしバターの重く甘い匂いだ。
アルフレッドは厨房で、季節のデザートの試作をしていた。オーブンから焼き上がったメレンゲの土台を取り出す。
それは、手のひらほどの大きさで、アーモンドが練り込まれている。
淡いきつね色に仕上がり、軽やかにサクサクと焼き上がっていた。
茹で上がった栗を裏ごしし、たっぷりと泡立てた生クリームと合わせる。それを絞り袋に移した。薄くカスタードクリームを塗った土台に、甘く煮た栗を一粒置く。
そこへ先ほどのクリームを重ね、絞り袋の先を器用に動かしながら、丸く山を形作っていく。
ディアボロは窓際の席で、ゆったりと琥珀色の紅茶を口に運ぶ。
アルフレッドが、最後の仕上げに雪のような粉砂糖をモンブランに振りかけた。出来上がったばかりの特製モンブランを小皿に乗せ、ディアボロの前に静かに置く。
「どうでしょう? 以前に食べて美味しかったので、うちでも出してみようかと」
「……小さいな」
「試食なので。気に入ったらもっと作りますよ」
ディアボロが、銀のフォークを手に取った。サクッ、と土台のメレンゲが割れる。アルフレッドの視線が、ディアボロの口元に止まる。彼の口角が微かに上がり、深紅の瞳が細められた。いつもと寸分違わぬ、満足げな表情だ。
そのまま、カチャ、とフォークが陶器に触れる音がした。
「なんだ? 次は一回り大きいものを所望するぞ」
ディアボロは、至近距離で見られていたことにわずかに眉をひそめた。
「……早くしろ」
そう言って、紅茶を口に運ぶ。
アルフレッドは何も言わずに厨房へ戻り、一回り大きいモンブランを作り始める。甘く煮た栗を細かくしたほうが、口当たりがよくなると思い、包丁で栗を刻む。
「痛っ」
ジワッと、指先に微かな痛みが走った。見えないほどの小さな切り傷から、一滴の赤い血がまな板に落ち、赤いシミがにじんだ。
ディアボロが厨房に入ってくる。まな板の赤色を見て、アルフレッドの手を取る。ひんやりとした手が、アルフレッドの呼吸を浅く詰まらせる。
「……貴様の体は、脆すぎる」
しばらく手を握っていたディアボロは、アルフレッドの血が止まったことを確認し、ゆっくりと手を離した。彼は無言のまま踵を返し、何事もなかったかのように窓際へ戻っていく。
片付けも終わり、店内は緩やかなオレンジ色の夕日に染まっていた。アルフレッドはトントン、と明日のスープ用の野菜を切っていた。
ふと包丁の手を止めると、窓際からすうすう、と静かな呼吸音が聞こえる。顔を上げ、窓際を見ると、そこにはゆったり椅子にもたれかかったディアボロがうたた寝をしていた。一分子の狂いもない、彫刻のような長い睫毛が、白い頬に濃い影を落としていた。お腹のあたりで組んだ指先は、力が抜けている。
アルフレッドは、近くの椅子の背に掛かっていたブランケットを手に取り、静かにディアボロの肩へかける。ブランケットの肌触りに、彼は無意識に吸い寄せられ、頬を擦り寄せる。その感触に気づいたのか、ディアボロの睫毛が揺れ、ゆっくりと、深紅の瞳が開く。
「……寝ていたか」
「ええ、気持ちよさそうでしたよ」
ディアボロはブランケットを隣の椅子に掛け、大きく伸びをする。
「ふん、最近眠くてな……今日の晩飯はなんだ?」
「ブラウンシチューのグラタンと温野菜サラダにしようかと。店の残りがあるのですぐできますよ」
「……そうか。ならば、赤ワインも用意しろ」
ディアボロはそう言って、カウンターに腰を下ろした。アルフレッドは無言で頷き、厨房へ戻る。
アルフレッドは、ディアボロが好む辛めの赤ワインとグラスをカウンターへ置く。
厨房のコンロの火にかけた小鍋の中で、ブラウンシチューが温まり、底から大きな泡がプクッ、プクッ、と爆ぜ始めた。立ち上る湯気が、アルフレッドの視界を白く曇らせる。温まったシチューを、茹でたマカロニの上にかけ、チーズをたっぷりと乗せ、オーブンに入れた。香ばしい匂いが店内に広がり、オーブンの中でグラタンの表面がパチパチと小さく音を立てた。
「はい、どうぞ」
湯気を立てる器が、ディアボロの前に置かれた。
ディアボロは木製のスプーンを手に取り、熱々のグラタンを口に運ぶ。
アルフレッドは、その横顔をカウンターの内側から静かに見つめていた。
ディアボロは、満足げに目を細める。赤ワインのグラスを手に取り、一口含む。
アルフレッドの群青の瞳が、ディアボロの喉元に止まった。いつもなら、美味いものを食べた瞬間に、彼の内側から溢れ出していた「ぐるる……」という、あの喉鳴りの音が、完全に消えていた。
「……アルフレッド、貴様は食べんのか」
「ええ、俺は後で。先に召し上がってください」
アルフレッドは努めて穏やかに返し、視線を落とした。蛇口の雫が、シンクに置いた器の冷たい水を揺らす。
音が、しない。
その事実が、アルフレッドの心の奥にこびりついた。
――翌朝。
遅い時間に、二階から、ギシリ、と重い足音が降りてくる。時間をかけて階段を下りきり、ディアボロが姿を現した、その瞬間だった。
ドサッ。
鈍く、重い音がした。
糸の切れた操り人形のように、ディアボロの体は、床へと崩れ落ちた。
職人街から、いつものように槌を打つ音が、遠く響き始めた。
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