第110話 『魔王の器と、算盤の記憶』
王都の職人街から響く槌の音が、遠く微かに聞こえる昼下がり。忙しかったランチタイムを終え、店内には緩やかな時間が流れている。
ディアボロとアルフレッドはカウンターに並び立ち、アルフレッドが洗った食器を、ディアボロが丁寧に拭き重ねていく。
「やっと、いつも通りになってきましたね」
少し前まで空虚な職人街は、日が経つにつれ活気に満ち、キッチン・ブランの扉が開く回数も、日に日に増えていた。
「……そうだな、悪くない」
ディアボロは手に持っている布巾に目を落とし、その口元をわずかに緩めた。
あらかた片付けは終わり、ディアボロは自身で紅茶を淹れ、窓際の席へ座る。柔らかな湯気を立てる紅茶に、満足げに目を細めた。
アルフレッドはまな板に乗っている肉の筋切りを始める。
キィ……、と控えめな音を立てて、裏の扉が開く。
入ってきたのは、魔王代理のゼノン。いつものように胃を押さえる様子はなく、ゆっくりと店内に入ってくる。灰色の髪がわずかに揺れ、視線は落ち着かないまま店内を彷徨っていた。
彼は丸椅子に腰を下ろすこともなく、カウンターの前に立ち尽くしている。
「ゼノンさん?」
肉を切る手を止め、アルフレッドがゼノンを見る。ゼノンはその問いかけには答えず、ディアボロに向き直った。
「……魔王様」
ゼノンは口を開きかけ、何かを言い淀むと、手のひらに視線を落とした。
「……魔界が、手の中にあるような感覚があるんです」
ゼノンは手のひらを何度も開いては、閉じる。
カチャッ、と静かにティーカップが置かれる。
ディアボロの深紅の瞳が、ゼノンを真っ直ぐに見据えた。
「……そうか」
「魔王様も、同じなんですか……? まさか……」
アルフレッドの包丁の手が止まる。そして視線を上げ、ディアボロを見る。
「……魔王としての器が、貴様にも備わった」
アルフレッドは何かを考えるように、ディアボロを見つめたまま動かない。
「……貴様は、何を欲する」
ディアボロの低い声が、地を這うように響いた。ゼノンの肩がビクリと跳ねる。
彼の口が微かに開いたが、そこから音は紡がれなかった。
ただ、自分の手のひらを凝視したまま、微動だにしない。
「ぼ、ボクは……魔王様が無事ならそれで……」
ゼノンが小さく、ポツリと話し出す。
「ボクには……まだ覚悟がないんです。……気持ちもついてきてません」
ゼノンは俯き、ゆっくり息を吐いた。
静まり返った空間に、カツン、と石畳に当たる靴の音が響いた。
わずかに開いていた扉の影に、ルシウスが立っていた。
「失礼します。……ゼノン、来ていたのですね」
柔らかな白いシャツに、薄手の黒茶のニットベスト。いつもの執務服の装いとはかなり違う雰囲気に、アルフレッドは目を見張る。
片手には、使い込まれた木製の算盤と、一輪の百合の花。
アルフレッドに軽くお辞儀をし、ルシウスはカウンターの前を通る。そのとき、厨房にいたアルフレッドの鼻腔を、微かな香りがよぎった。
百合の香りとは違う、冷たく、静かな香り。
ルシウスはディアボロの前に行き、頭を下げる。
「毎年この日を休みにしていただき、感謝します」
「……ふん、お前にとっては命の次に大事な日なのだろう?」
ルシウスは頭を下げたまま、目を閉じ、穏やかに笑う。
「ええ、母の命日ですので。……今年も無事に墓へ行けました」
アルフレッドはゼノンとルシウスが座るカウンターの前へ、紅茶を差し出す。二人とも落ち着いたのか、店内の空気はわずかに緩んでいた。
「お母様の、命日だったんですか?」
空気が和らいだ頃合いを見て、アルフレッドはルシウスに尋ねた。
「ええ、人間の母の命日です」
こともなげにルシウスは返事をする。その言葉にゼノンの目が、わずかに見開かれたが、視線を落とし、口を閉ざした。
「そうだったんですね」
「だいぶ時間は経ったのですが……未だに母の教えは刻み込まれているんです。それが、私の生きる道でもありましたから」
ディアボロはルシウスに向き直り、冷めた紅茶に口をつける。
「ふん、ルシウス、貴様は効率的なのに、こういうときだけ非効率だな」
ルシウスはディアボロの目を見て、眼鏡を上げ、苦笑した。
「ええ、これだけは割り切れません」
そう言うと、ルシウスは手元の算盤を優しく撫でた。
ディアボロはその仕草を静かに見ていた。
彼がディアボロに「仕えたい」と懇願した必死な目。泣きそうになりながらも、魔界を救うため、選択をしなければならなかったあの背中。
その記憶が、不意に脳裏をよぎった。
その瞬間、ディアボロの胸の奥がチクリと痛んだ。胸元を押さえたときには、すでに痛みは消えていた。
やがて彼はゆっくりと顔を上げ、窓ガラスの向こう、秋口の空へと視線を流す。
「……アルフレッド、我に茶を」
「はい、今淹れますね」
アルフレッドが新しい湯をティーポットへ注ぎ込む。コポ、コポ……と、穏やかな水音が、静寂に満ちた空間に溶けていった。




