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元勇者だけど、たまに猫になる魔王とレストランをやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第5部:脱ぎ捨てた過去と、騒がしい日常の帰還

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第110話 『魔王の器と、算盤の記憶』

 王都の職人街から響く槌の音が、遠く微かに聞こえる昼下がり。忙しかったランチタイムを終え、店内には緩やかな時間が流れている。


 ディアボロとアルフレッドはカウンターに並び立ち、アルフレッドが洗った食器を、ディアボロが丁寧に拭き重ねていく。


「やっと、いつも通りになってきましたね」


 少し前まで空虚な職人街は、日が経つにつれ活気に満ち、キッチン・ブランの扉が開く回数も、日に日に増えていた。


「……そうだな、悪くない」


 ディアボロは手に持っている布巾に目を落とし、その口元をわずかに緩めた。

 あらかた片付けは終わり、ディアボロは自身で紅茶を淹れ、窓際の席へ座る。柔らかな湯気を立てる紅茶に、満足げに目を細めた。

 アルフレッドはまな板に乗っている肉の筋切りを始める。


 キィ……、と控えめな音を立てて、裏の扉が開く。


 入ってきたのは、魔王代理のゼノン。いつものように胃を押さえる様子はなく、ゆっくりと店内に入ってくる。灰色の髪がわずかに揺れ、視線は落ち着かないまま店内を彷徨っていた。

 彼は丸椅子に腰を下ろすこともなく、カウンターの前に立ち尽くしている。


「ゼノンさん?」


 肉を切る手を止め、アルフレッドがゼノンを見る。ゼノンはその問いかけには答えず、ディアボロに向き直った。


「……魔王様」


 ゼノンは口を開きかけ、何かを言い淀むと、手のひらに視線を落とした。


「……魔界が、手の中にあるような感覚があるんです」


 ゼノンは手のひらを何度も開いては、閉じる。


 カチャッ、と静かにティーカップが置かれる。

 ディアボロの深紅の瞳が、ゼノンを真っ直ぐに見据えた。


「……そうか」

「魔王様も、同じなんですか……? まさか……」


 アルフレッドの包丁の手が止まる。そして視線を上げ、ディアボロを見る。


「……魔王としての器が、貴様にも備わった」


 アルフレッドは何かを考えるように、ディアボロを見つめたまま動かない。


「……貴様は、何を欲する」


 ディアボロの低い声が、地を這うように響いた。ゼノンの肩がビクリと跳ねる。

 彼の口が微かに開いたが、そこから音は紡がれなかった。

 ただ、自分の手のひらを凝視したまま、微動だにしない。


「ぼ、ボクは……魔王様が無事ならそれで……」


 ゼノンが小さく、ポツリと話し出す。


「ボクには……まだ覚悟がないんです。……気持ちもついてきてません」


 ゼノンは俯き、ゆっくり息を吐いた。

 静まり返った空間に、カツン、と石畳に当たる靴の音が響いた。

 わずかに開いていた扉の影に、ルシウスが立っていた。


「失礼します。……ゼノン、来ていたのですね」


 柔らかな白いシャツに、薄手の黒茶のニットベスト。いつもの執務服の装いとはかなり違う雰囲気に、アルフレッドは目を見張る。

 片手には、使い込まれた木製の算盤と、一輪の百合の花。

 アルフレッドに軽くお辞儀をし、ルシウスはカウンターの前を通る。そのとき、厨房にいたアルフレッドの鼻腔を、微かな香りがよぎった。

 百合の香りとは違う、冷たく、静かな香り。


 ルシウスはディアボロの前に行き、頭を下げる。


「毎年この日を休みにしていただき、感謝します」

「……ふん、お前にとっては命の次に大事な日なのだろう?」


 ルシウスは頭を下げたまま、目を閉じ、穏やかに笑う。


「ええ、母の命日ですので。……今年も無事に墓へ行けました」


 アルフレッドはゼノンとルシウスが座るカウンターの前へ、紅茶を差し出す。二人とも落ち着いたのか、店内の空気はわずかに緩んでいた。


「お母様の、命日だったんですか?」


 空気が和らいだ頃合いを見て、アルフレッドはルシウスに尋ねた。


「ええ、人間の母の命日です」


 こともなげにルシウスは返事をする。その言葉にゼノンの目が、わずかに見開かれたが、視線を落とし、口を閉ざした。


「そうだったんですね」


「だいぶ時間は経ったのですが……未だに母の教えは刻み込まれているんです。それが、私の生きる道でもありましたから」


 ディアボロはルシウスに向き直り、冷めた紅茶に口をつける。


「ふん、ルシウス、貴様は効率的なのに、こういうときだけ非効率だな」


 ルシウスはディアボロの目を見て、眼鏡を上げ、苦笑した。


「ええ、これだけは割り切れません」


 そう言うと、ルシウスは手元の算盤を優しく撫でた。


 ディアボロはその仕草を静かに見ていた。

 彼がディアボロに「仕えたい」と懇願した必死な目。泣きそうになりながらも、魔界を救うため、選択をしなければならなかったあの背中。

 その記憶が、不意に脳裏をよぎった。


 その瞬間、ディアボロの胸の奥がチクリと痛んだ。胸元を押さえたときには、すでに痛みは消えていた。

 やがて彼はゆっくりと顔を上げ、窓ガラスの向こう、秋口の空へと視線を流す。


「……アルフレッド、我に茶を」

「はい、今淹れますね」


 アルフレッドが新しい湯をティーポットへ注ぎ込む。コポ、コポ……と、穏やかな水音が、静寂に満ちた空間に溶けていった。

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