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元勇者だけど、たまに猫になる魔王とレストランをやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第5部:脱ぎ捨てた過去と、騒がしい日常の帰還

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第109話 『深夜の厨房と、王冠を持たない青年』

 夜も更け、職人街から槌の音が完全に消え去り、明かりもまばらになって、虫の声が穏やかに聞こえる時間帯。『キッチン・ブラン』の厨房では、アルフレッドがブイヨンを弱火で煮詰めていた。


 コト、コトという微かな気泡の音と、深く甘い肉や野菜のどこか懐かしい香りが、オレンジ色のランプに照らされた店内に満ちている。


 窓際の特等席では、ディアボロが純白の燕尾服の袖口を少しだけ捲り、無言で本を開いていた。シュッ、とページをめくる音と厨房のスープの煮える音が合わさり、秋口の夜の肌寒さを和らげていた。


 カランコロン、と店内に、控えめなベルの音が響く。


「おう。遅い時間にすまんのう」


 正面の扉を静かに開けて入ってきたのは、土の匂いを微かに纏わせた作業服姿のグレゴリウスだった。その背後には、彼に半分寄りかかるようにして、一人の青年が立っている。

 青年は、グレゴリウスに促されるように、ふらふらと店内に足を踏み入れた。真新しい簡素な麻の服を着ているが、その線の細い身体は、自力で立っているのさえやっとのようだった。


「いらっしゃい、グレゴリウスさん。……そちらの方は?」


 アルフレッドがエプロンで手を拭いながら、グレゴリウスへ声をかけると、青年はカウンターの丸椅子に座るなり、力尽きたようにテーブルへ突っ伏した。


「ふう……だいぶやられたもんじゃ」


 グレゴリウスが一息つき、突っ伏したままの青年を振り返った。その青年からは、染み付いたであろう濃いインクの匂いが漂ってくる。


「わしの甥なんじゃが、眠らず、ずっと書類整理しててな、食事もとらずにこのざまじゃ」


 グレゴリウスは、そう言ってため息をついた。突っ伏した青年の細い肩が、浅い呼吸に合わせて微かに上下している。


「ではなにか胃に優しいものでも……」

「そうしてやってくれると助かるわい」


 読書していたディアボロは、インクの匂いに眉をひそめた。


「人間の王か。書類に潰されるとはな」


 傲慢な言葉とは裏腹に、ディアボロは開いていた本を静かに閉じる。


「いやあ、全くじゃ」


 困り顔のグレゴリウスを見たディアボロは、厨房へ向かいグラスを取った。冷蔵庫の麦茶を入れ、青年へ差し出す。


「……ふん、息も絶え絶えではないか。ゆっくり飲ませるがいい」


 トン、と目の前に置かれたグラスに気が付き、その麦茶を取り、数口に分けて飲み干すと、王の瞳に少しだけ生気が戻った。


「……ありがとうございます」


 アルフレッドは、ふつふつと煮立っていた鍋から、黄金色のコンソメを小鍋へと移した。余分な脂を丁寧に取り除き、澄み切ったスープを温め直す。立ち上る湯気と共に、野菜の甘みと肉の深いコクが、インクの匂いを打ち消すように広がった。


「まずは、これを。胃を温めてから、何かお作りします」


 アルフレッドは、手に馴染んだ白い陶器のスープボウルへ、一滴もこぼさぬようスープを注ぎ、王の前へと差し出した。


「わしの作った野菜も入っておる。効果は抜群じゃぞ。な、ディアボロ殿」

「ふっ、当然に決まっておるわ」


 ディアボロは少し胸を張り、満足げに口角を上げた。

 皆が見守る視線の中、王が震える手でスプーンを握り、黄金色のスープを一口、口へと運ぶ。温かな液体が喉を通り、空っぽだった胃にじわりと熱が広がった。


「お、美味しいです……すごく」


 ディアボロとグレゴリウスは、顔を見合わせてニヤリと笑った。


「じゃろう。部屋にこもってばかりじゃ、なんも良くないぞ、テオ」


 そんな会話を耳にしながら、アルフレッドは手際よくフライパンにバターを落とした。パチパチとはぜる音と共に、芳醇な香りが店内に立ち込める。小麦粉を薄く纏わせた白身魚を滑り込ませると、黄金色に染まった表面がカリッと音を立てる。頃合いを見て魚を裏返し、火が通ったところで皿に盛ると、こんがりとしたムニエルが焼き上がった。


「お待たせしました。白身魚のムニエルです。レモンを絞ってお召し上がりください」


 食欲が復活してきたのか、若き王、テオドールは目の前の皿に目を輝かせた。レモンを絞り、ナイフを入れるとサクリ、と微かな音を立て、中の蒸された白身から柔らかい湯気が立ち上る。フォークでそれを掬い、息で冷まして一口食べた。


「な、なんですかこれは……」


 テオドールの目がパッと開き、頬には赤みが差し始めた。それを見たディアボロも、グレゴリウスも、揃ってアルフレッドへ顔を向ける。


「わしにもそのムニエルを頼む! 倍で頼む!!」


「……我にも、いや夜中か……」


 アルフレッドはディアボロの踏ん切りのつかない様子を見て、優しげに笑い、そっと三枚のムニエルを作り始めた。



 食後のデザートは、洋梨のコンポート。赤ワインで煮たそれは、淡いランプの光の中で瑞々しい艶を保っていた。


「こんなに、鮮やかだったなんて……」

「じゃろう、テオも一人で抱え込まぬようにするんじゃぞ」


 鍋を洗うアルフレッドと紅茶を淹れるディアボロが、何やら言い合いをしながら、せわしなく動いていた。カチャカチャと食器が鳴る音が、夜の静寂を心地よく埋めていく。


「ほら、あいつらみたいに、分け合えばきっとうまくいくからの」


 テオドールはコンポートを一口食べる。深く濃い甘さがじゅわっと溢れ、洋梨が舌の上で頼りなく溶けていく。厨房から聞こえる騒がしいやり取りが、その甘さと一緒に胸の奥まで染み渡り、視界がじわりと歪んだ。

 そこに、香り高い紅茶が差し出される。


「……ふん、茶だ。一緒に楽しむがいい」

「ありがたくいただくぞい、魔王殿」

「えっ!」


 驚いた瞬間、テオドールの目に溜まっていた涙がこぼれる。それを見たグレゴリウスは「まだまだうちの甥っ子は青いのう」とケラケラ笑う。


「しかし、魔王殿がなぜここに?」


 真っ直ぐに見つめてくる人間の若き王に、ディアボロは口角を上げて、楽しそうに答える。


「奴との約束だ。我は違えぬ」


 チラリとアルフレッドを見る、その目が、ほんの一瞬だけ和らいだ。



「……ごちそうさまでした。……本当に」


 テオドールが、アルフレッドに向かって深く頭を下げる。


「いつでも、腹が減ったら来てください」


 アルフレッドがカウンターを拭きながら、優しく笑い返した。


「……ふん。人間のたかだか王の分際で、我の料理人の腕を堪能したか。……アルフレッド、我が茶が冷めた。さっさと淹れ直せ」


 いつも座っている窓際から、テオドールを見て、皮肉そうな笑みを浮かべた魔王が、声を漏らす。


「はいはい、今淹れますよ。……では、夜も遅いので、お気を付けて」


 インクと書類の重圧から解放された、小さな路地裏の深夜。王冠を持たないただの青年として、彼は静かに、温かい紅茶の香りの余韻に身を委ねていた。



 カランコロン、と扉が閉まり、静寂が戻った。ディアボロは窓の外を見たまま、ふと、自分の胸に手を当てた。


「……ふん、気のせいか」


 窓の外では、夜風が静かに通り過ぎていった。

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