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元勇者だけど、たまに猫になる魔王とレストランをやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第5部:脱ぎ捨てた過去と、騒がしい日常の帰還

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第107話 『焦がれた魔王と、知らない棘』

 静まり返った広間に、乾いた空気の揺らぎがディアボロの銀髪をさらい、なびかせる。

 ゼノンと転移した先、魔王城の玉座付近は、時が止まったかのように冷え切っていた。戻った二人の耳に、時折、その静寂を拒むような、地を這う重低音が入り込んでくる。

 何かを破壊する鈍い音が、断続的に広間の空気を震わせていた。


「魔王様、窓を……」


 ゼノンに促され、ディアボロは窓の外、階下に広がる魔王城の広場へと視線を落とす。そこには、石畳を叩き続ける、白い髪の少年がいた。

 小柄な体で両手を高く掲げ、組んだ拳を石畳へと叩きつけるたび、ドン、と激しい破砕音が響き、硬い石が容易く砕け散る。

 その動作は途切れることなく、ただ繰り返されていた。


「チッ」


 ディアボロは窓を開け放つと、そのまま純白の燕尾服の裾を翻し、ゆっくりと広場へ降り立つ。

 広場の石畳を両手で壊し続けていた小柄な少年は、ディアボロの気配に気づき、破壊の手を止めて彼に向き直った。

 瞳に一切の感情の揺らぎはない。

 魔力の揺らぎも、殺気も、敵意すらも、微塵も放っていなかった。


 そこへ、急いで階段を降りてきたゼノンが、ディアボロの背後へ滑り込むように立つ。少年の視線が、一瞬だけゼノンの上で止まった。

 値踏みするような、何かを測るようなその眼差しは、いつもの胃を締めつける不安とは違い、胸の奥を鋭くえぐった。


「識別名、ピュルテ、です。彼は名乗らないので……」


 ゼノンは低い声で、主の背に語りかけた。

 その様子を見ていたピュルテは、ゼノンから視線を外し、ディアボロをじっと見つめる。

 無機質なその瞳が、今度は魔王であるディアボロの存在をしっかりと捉えた。

 その瞬間、それまで断続的に響いていた破砕音が、ピタリと止んだ。


「来タ」


 生気のない声に、ディアボロの眉がわずかに動く。体を覆う布はあまりに少なく、その姿には生まれたてのような無垢な不安定さがあった。


「……ふん。くだらぬ」


 ディアボロが体勢を低く構え、その指先から黒い炎がチリッと音を立てて爆ぜた。

 そして白磁の腕を無造作に振り抜く。

 視界を埋め尽くすほどの漆黒の濁流が、轟音と共に石畳を抉りながら、ピュルテへと襲いかかった。

 大気が悲鳴を上げ、足元の黒石が瞬時に融解し、ドロドロに溶けて、魔王城の城壁の一部が巻き添えになり、ズズン、と重苦しい地響きを立てて崩れ落ちた。

 巻き上がった粉塵と、肌を焼くような熱波の嵐。

 ディアボロは悠然と腕を下ろし、冷ややかな深紅の瞳で土煙の先を見据えた。


 だが。

 もうもうと立ち込める煙の向こうから、ペタ、ペタと、軽い足音が響いてくる。

 風に流され、晴れていく視界。そこにいたのは、焦げ跡一つついていないピュルテの姿だった。


「……ほう」


 ディアボロの唇が、愉悦を伴った笑みに形を変える。

 白磁の指先から、黒い爪が鋭く、するっと音を立ててせり出した。


「ならば、これでどうだ」


 ディアボロの両腕から、先程とは比べ物にならない密度の黒炎が全方位へ向けて放たれる。空間そのものが歪み、軋みを上げるほどの熱量。慈悲のない破壊の嵐が、ピュルテを完全に包み込んだ。

 巨大な火柱が天を焦がし、周囲の空気が一瞬で奪われる。

 後方にいたゼノンは息ができず、胸を押さえるようにしてその場に片膝をついた。


 だが、ピュルテは表情一つ変えなかった。


 城壁から剥がれ落ちた瓦礫の雨。四方から迫る圧倒的な業火。迫り来る黒炎が、最初から存在しなかったかのように、彼の肌の数ミリ手前で掻き消えていく。

 頭上から飛来する巨岩は、彼の体に触れる直前に音もなくサラサラと砂になって崩れ落ちた。

 それは、初めからそう決まっていたかのようだった。


 ピュルテは、ただ、真っ直ぐに、標的であるディアボロを目指して直進してくる。それ以外を認識していないかのように。


「……ふん。これでも、まだ止まらぬか」


 ディアボロの構えが変わり、燕尾服の裾が翻る。

 彼は魔力による制圧を捨て、流れるような動作で上体をわずかに捻ると、その拳を腰の位置まで深く沈めた。

 背後から、息を切らせた足音が戦場へ飛び込んでくる。

 だが、ディアボロはそれに目を向けない。


 次の瞬間。


 引き絞られたバネが弾けるような鋭さで、白磁の拳が最短距離を突き抜ける。空気を切り裂き、ピュルテの顎を貫くような軌道を描いて、鋭い一撃が打ち上げられた。


 同時に、バチン、と警告めいた鉄の算盤の音が一度響いた。


「ゼノン! あいつを——」


 遅れて来たルシウスが叫んだ、その刹那。ピュルテの姿がズレたかと思うと、ディアボロのがら空きの胸へと肉薄していた。


「待ってっ!」


 カキン、という音と共に、ゼノンが小さくうめき声を上げる。

 ディアボロの心臓を一突きにしようとしたピュルテの手刀が、ゼノンの手のひらへと移動した核に阻まれていた。


 ピュルテの動きが止まり、その瞳が目の前のゼノンをじっと見つめる。

 何かを測るような視線が、もう一度、彼に向けられた。

 その足が、ほんの半歩だけ後ろへ下がる。ガラス玉のような瞳に、微かな揺らぎが生まれた。


「邪魔、ダ」


 ピュルテの声が落ち、そのまま彼は動きを止めた。

 ディアボロは、深紅の瞳でピュルテの姿を射抜いたまま、ゆっくりと体勢を整える。


「……失せろ」


 ピュルテはゼノンから視線をディアボロへ移した。


「……」


 ピュルテが何かを言う前に、ディアボロはその肩を撃ち抜く。

 拳が触れた箇所を中心に、ピュルテの姿が壊れ、音もなく崩壊していく。


 だが、次の瞬間。


 不自然に、ピュルテの口角が凶悪なまでに吊り上がり、ジロリとディアボロを見上げた。その表情に、ディアボロは息を呑み、動きを止める。

 全身にヒビを走らせたピュルテは、限界点を超え、パン、と音を立てて弾けた。


 散った光が、ディアボロの胸元に触れ、沈んで消えた。


 ゼノンは目の前の出来事を見ていたはずなのに、様々な角度から同時に見ているような違和感を覚えた。

 城の北側の壁に、亀裂が入っている。見ていないのに、わかる。

 魔界の風が東へ変わった。理解してはいけないのに、わかる。

 何故かはわからない。ただ——全部が、手の中にあるような気がした。


 ルシウスは、隣に立つゼノンの横顔を無言で見つめ、その瞳に宿った異質な揺らぎから、静かに思考を巡らせた。


「……くだらぬ。アルフレッドの茶が冷める。さっさと戻るぞ」


 ディアボロが、燕尾服の袖口を払う。眉間に皺を寄せたまま、退屈そうに吐き捨てた。

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