第106話 『相棒の剣と、料理人の答え』
夏の王都の路地裏に、涼やかな風がさらりと吹き抜ける。
その風に混ざった故郷を思わせる懐かしい匂いを感じた瞬間、バザルトの脳裏には、かつての情景が鮮やかに蘇った。
赤く熱された鉄の匂いが立ち込める、薄暗い工房。
煤にまみれた二人の青年が、まだ少年の名残を残した顔で向かい合っていた。
一人が、打ち上がったばかりの剣を、もう一人へと静かに差し出す。
「……お前に、持っててほしい。今の俺の最高の出来だ」
バザルトの手に、一本の剣が収まる。
魔物との戦いで負った深い傷により、幼馴染であり最高の相棒でもあった親友は、剣士の命である利き手の自由を失った。
志半ばで冒険者を引退し、鍛冶師へと転じた彼から初めて贈られた、魂の宿る一振りだった。
その日からバザルトは、冒険者として剣を振るい続けた。
憧れの勇者アルフレッドの背中を、たった一人で追いかけて。二年前に姿を消したと思っていたアルフレッド。
だが、彼は勇者を辞め、王都の路地裏で料理人として生きていた。
石畳から立ち上る熱気が、バザルトの心を蒸し上げる。
懐から取り出したのは、煤けて端が丸まった一枚の紙の端切れ。
そこには、病に倒れた母親の薬代を工面してほしいという、親友の震えるような筆跡の無心が記されていた。
その端切れの裏には、一枚の依頼書が隠されている。
『勇者アルフレッドを無力化せよ』
依頼主である宰相はすでに失脚し、捕縛されていた。だが、前金として受け取った報酬の金貨は、今もバザルトの手元に残っている。
バザルトは、使い込まれた剣の柄を握った。
「……行くか」
そう言うと、バザルトは路地裏の先の店を見据え、歩き出した。
キッチン・ブランの厨房では、アルフレッドが仕込み用のズッキーニを刻んでいた。鮮やかな緑を刻む、トントン、という規則正しい音だけが、誰もいない広い空間に響く。
窓際の特等席は空いたままだ。
その空白が、アルフレッドを少し落ち着かなくさせていた。
カランコロン、と穏やかに扉のベルが鳴った。
「申し訳ありません。まだ開店前で……」
アルフレッドが音に反応し、視線をまな板に落としたまま返事をする。
その背にカキン、と剣を鳴らす音が聞こえ、アルフレッドは思わず視線を上げ、訪問者を見る。
そこには真っ黒なマントを羽織った男――バザルトが、音もなく入り口に立っていた。窓際の空席を一瞥し、アルフレッドがいる厨房に面したカウンターの前で足を止めた。
「……頼みがある」
アルフレッドがバザルトへ向き直る。
「店の外で、一度だけ剣を合わせてほしい。勇者、アルフレッドとして」
アルフレッドは、困ったように眉をさげ、頭をガリガリと掻く。
「もう、俺は勇者じゃないんだ」
言葉を濁して剣を合わせようとしないアルフレッドを、バザルトはまっすぐに見据えたまま、引き下がらなかった。
その視線に、アルフレッドは小さく息をついた。
「夜なら、この店の裏庭で剣を受けようか」
「……わかった。夜に」
そう言うと、バザルトは静かに店を出ていった。
日中の熱気が引き始め、夜の裏庭にはようやく涼しい風が流れていた。
無言でバザルトが剣を抜く。その鋭い切っ先に対して、アルフレッドは使い慣れた魔鋼の包丁を逆手に構えた。
「もう、勇者のように剣を構えるってことはないのか」
寂しく笑うバザルトの言葉が、夜の裏庭に低く響く。
「あぁ、もうあの勇者の剣は捨てたからな」
その声をきっかけに、バザルトが石畳を蹴る。
火花が散り、金属の激突音が虚空に反響した。無駄がなく、それでいて重い一撃を、アルフレッドは包丁で辛うじて受け止める。
バザルトの剣筋は一振りごとに、血を吐くような年月の重さが宿っていた。
その重さにアルフレッドは思わず一歩、後退する。
バザルトは休まず剣を打ち込む。
アルフレッドは、そのすべてを塞いでいく。
激しい打ち合いの合間、バザルトの親指が、無意識に剣の柄を微かになぞった。
アルフレッドの群青の瞳が、その刹那の仕草を捉える。
刃の角度。重心の取り方。柄の握り心地。それはピタリとバザルトに合わせて作ってある剣の造形だった。
まっすぐな羨望をぶつけてくるバザルトの瞳は、まだ『勇者』を打ち負かせると信じていた。その剣と共に。
いつ終わるか分からない剣戟の中、アルフレッドは、はぁ、と小さく溜息をつき、決意の目をバザルトへ向けた。
そして包丁を持ち直すと、バザルトが打ち込んできたタイミングで包丁をひねり、剣の側面を叩き上げる。
パキンッ!
甲高い音が中庭に響き、バザルトの剣の切っ先が宙を舞い、中庭の石畳に突き刺さる。
「すまないな」
アルフレッドは折れた剣先を拾い、バザルトへと手渡した。
バザルトは何が起こったのか理解できない様子で、呆然と立ち尽くしている。
その背に、アルフレッドは静かに声を掛けた。
「落ち着いたら、店の中へ来い」
時間が経ち、月が天頂へと昇るころ、吹っ切れた様子のバザルトが店内に入ってきた。
「いきなりで悪かったな」
ボソッとバザルトがアルフレッドへ謝った。アルフレッドは返事の代わりに、バザルトへたっぷり野菜の入ったミネストローネを差し出した。
「こちらこそ。……その剣、誰かが打ったやつだろ」
「ッ……」
ミネストローネを食べていたバザルトは、我慢しきれないように涙を流した。その様子を見たアルフレッドは、穏やかに声を掛けた。
「いい仕事をしてるな」
そのあと無言でミネストローネを完食したバザルトは、懐にしまった折れた剣に一度触れ、「ありがとう、また来る」と一言残し、去っていった。
夕暮れの光が、煤けた鍛冶屋の土間を赤く染めていた。バザルトは久しぶりに故郷に戻り、親友の元へと足を運ぶ。
金槌の音が止んだ静寂の中に、鉄の匂いが立ち込めていた。
「よお、帰ったぞ」
バザルトが声を掛けると、炉の前にいた男が顔を上げた。かつて彼のために剣を打った親友は、以前よりも少し痩せたように見えた。
バザルトは無言で、懐から布に包まれたものを差し出す。
カチン、と乾いた音を立てて土間に置かれたのは、二つに折れた剣だった。
「すまん、折っちまった」
その折れた剣と、申し訳なさそうなバザルトを見た親友は、使い込まれた前掛けを締め直し、再び炉に火を熾した。
「次は、折れねえやつを打ってやる。……今の、お前に合うやつをな」
ゴォッ、と勢いよく火が爆ぜ、夕暮れの空に高い鎚の音が響いた。
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