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元勇者だけど、たまに猫になる魔王とレストランをやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第5部:脱ぎ捨てた過去と、騒がしい日常の帰還

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第105話 『石畳に響く音と、再起動の一皿』

 キッチン・ブランへの立ち退き命令が撤回されてから、数日が経った。


 その厨房でアルフレッドは、それでも来てくれる客のために仕込みの手を動かしながら、ふと窓の外へ視線を向けた。


 並び立つ煉瓦造りの建物は、いまだ静かなままだ。

 固く閉ざされた扉。外された看板の跡だけが、壁に薄い四角い影を残している。

 ジリジリと焼ける夏の日差しが、誰もいない職人街の石畳を焼いていた。


 トントン、と包丁を動かす音だけが厨房に響く。

 窓際の特等席では、ディアボロが本を開いていた。紙の擦れる音が、規則正しく店内の静寂に混ざる。


 その時、裏口をノックする音がした。


「はい」


 アルフレッドが手を拭きながら扉を開けると、大きな荷車を引いた女将が立っていた。


「やっぱりね。ここは開いてると思ったわ!」


 そう言うと女将は、籠にたくさん入った桃をアルフレッドに差し出す。


「美味しい桃、たくさん仕入れたからお裾分け。それにね、マスターさぁ、いつも顔色悪いんだから、栄養とりなさいよ!」


 籠の中には、産毛が生えた柔らかな桃が行儀よく並んでいた。夏の光をたっぷり浴びた肌は、ほんのり赤く、柔らかく透き通っている。

 それに気づいたディアボロが、女将に歩み寄り、優しい笑みを浮かべる。


「……女将からの献上物か。無下にはできんな」


「あ、ありがとうございます。……すみません、お気遣いいただいて」


 アルフレッドは、女将から甘い香りの籠を受け取り、丁寧に頭を下げた。


「結局、ここに戻ってきちゃったわよ。また欲しかったら、いつでもおいで。いつものとこで八百屋してるからさ」


 女将の荷車の音が遠ざかる。アルフレッドは籠を抱え、厨房に戻った。


「……戻ってきましたよ、マスター」

「当然だ。それより、その果物で我を悦ばせるものを作れ、アルフレッド」


 ディアボロはそう命じると、石畳を叩く乾いた響きに、ふと目を細める。

 夏の風が通り抜けたのか、ディアボロの燕尾服の裾が、ひらひらと小さく揺れていた。

 それを見たアルフレッドは、ふっと優しく微笑んだあと、再び厨房へと戻っていった。


 昼前、表の通りに人影が通り過ぎる。


 大柄な男だった。幅広の肩に、使い込まれた革のエプロン。

 分厚い手で、重そうな木箱を軽々と運んでいる。

 その足取りは無駄がなく、視線は真っ直ぐ前を向いていた。


 男は、キッチン・ブランの隣の空き区画に木箱を下ろすと、腰に手を当てて建物を見上げた。

 何かを確かめるように、壁の煉瓦を一度だけ指で弾く。


 アルフレッドが表に出ると、革と肉の、かすかな鉄の匂いがした。

 男は気配に気づいたように振り返り、短く会釈する。


「……あんたが、ここの料理人か」

「そうです。アルフレッドといいます」

「ヨルクだ。ここで精肉屋をやることになった。……よろしく頼む」


 それだけ言って、男は次の木箱を取りに馬車へと戻っていった。

 革エプロンの袖から覗く腕には、無数の細かい傷が刻まれていた。


 しばらくして、アルフレッドはディアボロに桃のシャーベットを出した。

 ディアボロは一口食べ、喉の奥で小さく満足げな音を漏らした。その音を聞いて、アルフレッドは少しだけ表情を緩める。


 残った桃を冷蔵庫へ戻そうと、アルフレッドが厨房へ足を向けた、そのとき。

 裏口の扉がノックされた。


「はい、どちらさま……」


 返答前にガチャ、と扉が開くと、立っていたのはヨルク。

 その手には油紙に包まれた塊を持っている。


「開店はまだで何もないが。……引っ越しの挨拶だ、受け取ってくれ」


 油紙を開くと、深い赤色の牛の赤身肉が現れた。

 きめ細かく、脂の筋が美しく入っている。アルフレッドは思わず、息を呑んだ。


「……これは」

「俺が牧場まで、直接行って選んできた物だ。この辺では、うちでしか扱わない」


 ヨルクはまた隣へと戻っていった。開店の準備に戻るのだろう。


 アルフレッドは油紙の上の肉を見つめ、それからゆっくりと、職人街の通りを見渡した。

 隣に精肉屋。

 通りの向こうに、いつもの八百屋。そしてまた、近くの扉が軋む音がする。


 活気が戻ってきた街の気配に、アルフレッドは、思わず笑顔になった。


 早速、アルフレッドは厨房に戻り、ヨルクからもらった赤身肉を、熱したフライパンで表面だけさっと焼き固める。

 それを冷やしたあと、力を抜いて、繊維を断ち切らないように、ゆっくり刃を寝かせて削いでいく。

 薄い赤の層が、まな板の上に静かに重なっていく。

 皿に並べ、香りのいいオイルをひと回し。そのあと、半分に切ったレモンを絞りながらかけていく。最後に塩を少量振りかけ、胡椒の実を散らしていく。


 ちょうど料理が完成したとき、カランコロン、と軽いベルの音がした。


 アルフレッドが顔を上げると、入口に一人の男が立っていた。

 真っ黒な装いのその男は、静かに壁際の席へ座る。


「いらっしゃいませ」


 声をかけられても返事をせず、男は店内を見渡した。やがて、出来上がった皿に視線が止まる。


「それと同じものを」


 それだけを言うと、腕組みして、男は深く椅子へ座り、足を組む。


 アルフレッドは新しく作った牛肉の皿を静かに置いた。

 薄く削がれた赤身肉に、オイルとレモンの光が滲んでいる。


 男はフォークを取り、ゆっくりと、静かに食べていく。

 珍しく客が一人なのもあって、店内には息が詰まるような沈黙が流れていた。


 皿が空になり、男は立ち上がる。アルフレッドが代金を受け取ろうとすると、すでにテーブルの上にコインが置かれていた。


「あ、ありがとうございま……」


「……バザルトだ。また来る」


 それだけ言って、男は扉を押した。カランコロン、とベルの音が響く。

 アルフレッドは、その背中が通りの向こうへ消えていくのを見届けた。



 店の明かりが落ち、夏の熱気だけが石畳に残る夜のことだった。

 裏口の扉を、短く叩く音がした。


 アルフレッドが扉を開けると、そこにはひどく疲弊した様子のゼノンが立っていた。顔色は土色に沈んで血の気がなく、前かがみになって苦しげに胃のあたりを強く押さえている。

 しかし、その瞳だけは力強く、まっすぐにこちらを見据えていた。


「……魔王様に、お取次ぎをお願いします。魔王城が襲撃されています」


 ゼノンの言葉を聞いたディアボロは、何も言わずに立ち上がった。

 燕尾服の裾を整え、銀髪を結び直す。その所作に、迷いはなかった。


「マスター」


「……一人で回せるな」


 ディアボロの問いに、アルフレッドは頷いた。


「いってらっしゃい、気を付けて」


 ディアボロは振り返らなかった。

 ただ、裏口の闇の中へ消える直前、僅かに足を止めた。


「……アルフレッド。我がいない間、この店を死守せよ」


 それだけを言い残し、夏の夜に溶けるように姿が消えた。

 ゼノンが深く頭を下げ、その後に続く。


 裏口の扉が閉まる。

 静寂が戻った厨房で、アルフレッドはしばらく扉を見つめていた。

 窓の外、石畳を照らす月明かりだけが、いつもと変わらずそこにあった。

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