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元勇者だけど、たまに猫になる魔王とレストランをやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第5部:脱ぎ捨てた過去と、騒がしい日常の帰還

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第104話 『砕かれた野望、守られた厨房』

 王都より少し北に位置するその場所では、一足早く太陽が顔を覗かせる。

 グレゴリウスが朝の畑へ出た時、空はまだ白んでいた。


 クワを担ぎ、泥だらけの長靴で畝の間を歩く。

 夏の朝の土は、踏むたびにしっとりとした生気を返してくる。

 野菜の出来を確認しながら歩いていると、向こうから人影が近づいてくるのが見えた。


 簡素な麻の服を纏った、見慣れない顔の男だ。

 立派な体格をしたその男は、グレゴリウスの前で足を止めると、丁寧な挨拶を口にした。


「グラナード侯爵様、おはようございます。最近こちらへ越してきました、大工のヨハンと言います。これからよろしくお願いいたします」


 男は帽子を手に、深く頭を下げた。


「そうか、よく来てくれた。なにかあれば気兼ねなく声をかけてくれ」


 グレゴリウスが笑うと、ヨハンの顔からようやく強張りが消えた。

 そのまま立ち去ろうとしたヨハンは、迷うように足を止めた。


「そういえば……私は王都の職人街から引っ越してきたのですが、何度か侯爵様をお見かけしたことがあります。まさか、こちらでまたお会いできるとは思いませんでした」


「おお、そうなのか?実はあそこにある『キッチン・ブラン』というレストランに、足繁く通っておってな」


 それを聞いたヨハンは、ふと視線を落とし、言いづらそうに口を開いた。


「……あの。実は私が王都を離れた理由について、少し気になることがありまして。少し前から、職人街の様子がおかしかったんです。近隣の店が、まるで申し合わせたように次々と店を畳み、引っ越していきました。私は親戚の伝手でこちらに来ましたが……」


「ふむ……。承知した。わざわざ話してくれて感謝する」


 グレゴリウスはそう言ってヨハンを見送ると、担いでいたクワを静かに畑の端へ立てかけた。

 泥のついた手を軽く払い、彼は真っ直ぐな足取りで屋敷へと戻り始める。


「支度を頼む」

「は、はい! ただいまお支度いたします!」


 泥にまみれた作業着を脱ぎ捨て、身に纏ったのは、深海のように落ち着いた紺色の貴族服だった。上質な生地は光の加減で深い艶を放ち、銀の刺繍が施された襟元には、隠しきれない威厳が宿っている。


 隠居生活で幾分か丸くなっていた背筋が、かつての貴族としての鋭さを取り戻したように、真っ直ぐに伸びた。


「これより王都へ向かう。一番速い馬を用意しろ」

「はい! ただちに!」


 使用人が弾かれたように走り去ると、残された静寂の中でグレゴリウスは、ふっと目を細めた。


「……あやつらには、知らせぬほうがいいじゃろうな」


 賑やかな笑い声が響いているはずの、遥か遠くの空を一度だけ仰ぎ見て、彼は静かに独りごちた。



 王都に着いたグレゴリウスがまず向かったのは、かつての部下が詰める騎士団の詰め所だった。

 その扉を勢いよく開けると、当直の若い騎士が目を剥いた。


「あ、あの……も、申し訳ありません! 一般の方の立ち入りは……」

「グレゴリウス・フォン・グラナードだ。団長を呼べ」


 その名が投げかけられた瞬間、詰め所の空気が一変した。


「よう。今はギルベルトが団長か。……話を聞かせてもらおう」


 奥から現れたギルベルトから聞き出した報告は、想像以上に根が深かった。

 再開発の名目で、職人街の住人たちを次々と移転へと仕向けた工作。

 しかし、最後まで残った『キッチン・ブラン』だけは、手が出せなかったようだ。ゆえに、強制退去という法的手段に切り替え、そこに居合わせた二名の魔族を拘束・連行したのだという。


 グレゴリウスは、報告を受け、思案するように静かに目を閉じた。


「……そうか」


 立ち上がり、襟を直す。次にグレゴリウスが向かう場所は、決まっていた。



 王宮の廊下は、夏の午後の光を白く反射していた。

 外の熱気とは切り離されたような、ひっそりとした静けさがそこにはあった。


 グレゴリウスが最上階の執務室の扉を躊躇なく開けると、書類の山に埋もれていた若い王が顔を上げた。

 そこにいたのは、線の細い、どこか疲れた顔をした青年だった。


「……叔父上? どうしてここに」

「久しぶりだな。少し話がある」


 グレゴリウスは椅子を引いて腰を下ろし、懐から数枚の書類を取り出してテーブルに置いた。騎士団長から預かった、宰相の動きを記録した報告書だ。


「これを見ろ。お前が知っているかどうか、確認したくてな」


 王は書類に目を落とし、見る見るうちに顔色を失った。


「……これを、宰相が? 私は何も……」

「分かってる。お前が知らんのは最初から分かってた。だから来た」


 グレゴリウスは静かに続けた。


「職人街への不可解な退去通告も、『キッチン・ブラン』という店への立ち退き命令も、お前が本当に許可を出したとは思えなかった。……違うか?」


 王はしばらく書類を見つめたまま黙っていたが、やがて力なく首を振った。


「……違います。私は、そのような命令を出した覚えはありません」

「だろうな」


 グレゴリウスは頷き、立ち上がった。


「なら、書状を一枚頼む。宰相の権限を一時凍結し、キッチン・ブランの立ち退き命令を無効とする、国王陛下直々の書状を」


 王は迷わなかった。羽根ペンを手に取り、真っ直ぐにグレゴリウスを見上げた。


「……叔父上。その店は、あなたにとって何なのですか?」

「うまいぞ。機会があれば、お前も行ってみろ」


 グレゴリウスは甥に向かって、口角を上げた。


「忙しいのはわかるが、ちゃんと眠れよ。……これを持って、あやつらの元へ戻らねばならんのでな」



 王宮から近い場所にある地下の特別収監施設に、何かが吹き飛んだような凄まじい音が響き渡る。

 グレゴリウスが急いで階段を駆け下りると、そこにはひしゃげた鉄格子と、立ち込める土煙の中に立つ純白の燕尾服とコックコートの姿があった。


「お取り込み中のところ、すまんのう。何事かと思って来てみれば、……派手にやったものだ」


 グレゴリウスは、騒ぎの中でもどこかのんびりとした声を掛け、吹き込んできた爆風で乱れた金髪を、後ろへ撫でつけた。


「グレゴリウスさん!」


 白いコックコートの男、アルフレッドが驚いたように声を上げる。

 そのアルフレッドと対峙するように立ち塞がっていたのは、一人の細身の男だった。

 仕立ての良い濃茶の貴族服を一分の乱れもなく着こなし、薄くなった白髪交じりの髪を整えた眼鏡の男。


「……貴様はいったい、何者だ?」


 グレゴリウスを睨む瞳は、底光りするように鋭く輝いていた。


「そうか、無理もない。わしは貴様――いや、宰相殿の歯牙にもかからぬ、ポンコツ英雄だったしなあ」


 宰相の顔色がわずかに曇り、落ち着かなさそうに両手を胸の前で擦り合わせる。

 その左手の薬指に嵌められた指輪が、チカリと外の光を跳ね返した。

 この場には似つかわしくない、あまりに豪奢な指輪。

 金貨を胸に抱いた女神の意匠が、細かく刻まれていた。


 それだけが、この男の本当の欲望を、雄弁に語っていた。


「その英雄が何用だ、所詮、国が抱える不発弾だろう」


 グレゴリウスは、騒ぎ立てる宰相を冷めた目で見つめ、ゆっくりと懐に手を入れた。


「用があるのはわしではない。この国の王だ」


 取り出されたのは、王家の紋章が刻まれた一通の書状だった。


「……ほう、その王の書状がなんだというのだ。そもそも貴様はいったい……」


 余裕たっぷりだった宰相の顔が、一瞬だけわずかに引きつった。


「グレゴリウス・フォン・グラナード。……現王陛下の、叔父じゃ」


 数秒の沈黙。


 そのわずかな時間で、彼は再び鉄壁の仮面を被り直し、指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、乱れた前髪を無造作に払う。


「……それがどうしたというのだ」


 必死に、落ち着き払った宰相とは違い、ディアボロが「……ほう」と面白そうに口角を上げた。

 その白磁のような指先から伸びていた鋭い爪が、音もなく収まっていく。

 アルフレッドも驚愕の表情を浮かべる中、ただ一人、ルシウスだけが静かに眼鏡を光らせ、微動だにせずその光景を見つめていた。


「……ルシウスはなんで驚かないんですか……」


 ゼノンが小さな声で突っ込むと、ルシウスは鉄の算盤を静かに下ろした。


「……私は、だいぶ前に王国の人物調査を済ませていたので、グレゴリウス様に関しては、最初から存じ上げておりました」

「え!? なんで言わなかったんですか!? せめてボクにだけでも……」

「必要になるまで、情報は秘匿するものです」


 静かにルシウスは答えた。ゼノンが「ぼ、ボクにぐらいはさぁ……」と小声でふくれっ面になる中、グレゴリウスは、逃げ場のない重圧を込めて宰相へ告げた。


「宰相よ。わしの甥が、そのような理不尽な立ち退き命令に、許可を出したとは思えんのう」


「そ、それは……っ!」


「……直接聞いてみようか?今すぐ、王の前でな」


 グレゴリウスは懐から、国王直筆の書状をゆっくりと取り出した。王家の紋章が入った封蝋が、地下牢の薄明かりの中でも鈍く輝いている。


「……!!」


「……ついでに、この帳簿も国王陛下にご覧いただきましょうか」


 ルシウスが容赦なく畳み掛ける。


「ダミー商会を経由した魔界の過激派への武器横流し。こちらは魔界に多大なるダメージを与えました」


 ゼノンがまっすぐ宰相を見て話す。


「あ、あの抗争で魔界から過激派が流入したなら、人間界との戦争が、再び起こったかもしれません!」


 ルシウスがゼノンの言葉に頷き、さらに畳み掛ける。


「教会の裏金を資金洗浄に利用。これは教皇が消息不明になったことで、すでに潰れています。それに……ヴァレリウスの件で英雄データは消失。違法転送プラントの設置箇所も、すべて潰れています」


 宰相の目論見は根底から崩れ去っていたことを、ルシウスが指摘した。


「…………」


「不透明な金の流れ――その真の出どころは、どこなのでしょうか」


 ルシウスの冷徹な視線が、宰相の指に嵌まった不釣り合いな指輪へと注がれる。

 宰相はルシウスの視線を見ても、眉一つ変えず余裕の笑みを浮かべる。


「……私は、正しいことをしてきた。不安定な力を持つ者を排し、秩序を守る。それが、この国のためになると信じていて、何が悪い」


 宰相が指輪に触れると、そこから音を立ててコインが溢れ出す。


「金なら、いくらでも溢れ出る。私が自由に振る舞っても、何ら支障をきたさぬほどの金がな。この世界は、これだけで全ての臣民が従属するのだ」


「ふん、所詮はくだらぬ、薄汚い金か」


 壁に寄りかかって、腕組みしていたディアボロから、冷ややかな魔力が溢れ出す。


「そんなもので我の聖域を奪おうとしたのだ。その償い、高くつくぞ」


 地下牢の空気が凍りついたように震え、ディアボロの瞳が、獲物を見つけた捕食者のように鋭く輝いた。


「ハハハッ、あんな掃き溜めのような場所で、レストランなんて……」

「黙れ」


 アルフレッドの胸の奥で、何かが音を立てて弾けた。


「……あそこは、あんたが金で買えるような場所じゃない」

「……金が全てだ。あの掃き溜めの連中も、金につられて動いた。それが、人間の本質というものだ」


 宰相は勝ち誇ったように、うっとりと宝石を眺めるかのような悦楽の眼差しを指輪に注いだ。そんな男を、アルフレッドは冷めた目で見据えた。


「……あんたは、何一つ分かってない。その指輪がどれほど金を産もうと、そんなものは食べられもしないんだ。あんたが追い出した人たちが流した汗や、育てた食材一粒の価値にさえ、そんなオモチャは届かない」


 アルフレッドの言葉に、グレゴリウスが静かに歩み寄る。


「戦場では一塊の黄金より、泥まじりの水一杯の方がよほど命を繋いでくれる。……宰相よ、今の貴様が縋るその金も、喉を潤す一滴には程遠いぞ」


 グレゴリウスが宰相を睨むと、指輪に宿っていた神の加護が、耐えきれず悲鳴を上げる。


 ピキリ。


「な……なぜ……! 私の指輪が……!」


 這いつくばる宰相の前に、漆黒の魔力が静かに広がる。ディアボロは、ヒビ割れた指輪を一瞥し、極めて傲慢に見下ろした。


「……我が城の庭先を汚した対価だ。身の程を知れ」


 ディアボロが指先で、指輪を軽く弾くと、パキン、と甲高い音を立てて粉々に砕け散り、空へと消えていく。


 やがて、グレゴリウスの書状を確認した王国兵たちが、呆然としたままの宰相を両脇から取り押さえ、連行していく。


「……極刑は免れんな」


 グレゴリウスは、連行されていく宰相を見送り、言い捨てる。


 ガチャン、という音と共に、ゼノンとルシウスの手枷が外された。


「……良かったですぅ……」


 ゼノンが床に座り込んで安堵の涙を流す。だが、ルシウスはすぐに手首をさすりながら、算盤を構え直した。


「泣いている暇はありませんよ、ゼノン。例の魔界の件に関する書類が山積みです。急いで魔界へ戻りますよ」


「ひぐっ……!」


 そのやり取りに、アルフレッドは、強張っていた肩の力をふっと抜き、深く息を吐いた。


「……強制退去命令も撤回されるはずじゃ。『キッチン・ブラン』は、これからも今まで通り営業できるぞ」


 グレゴリウスが振り返り、ニカッと笑った。


「ありがとうございます。グレゴリウスさん、本当に……」


 アルフレッドが深く頭を下げようとした瞬間、グレゴリウスはそれを手で制した。


「礼など不要じゃ。……それより、明日もいい野菜を持っていくから、何かうまいもんでも作ってくれ」

「ふん、我の魔力も効いているだろうからな」


 三人三様で笑い、アルフレッドがグレゴリウスにまっすぐに答える。


「……はい。待ってます」


 地下牢を出ると、夏の日差しが石畳に跳ね返り、午後の王都はうだるように暑かった。



「……アルフレッド」


 物音ひとつしない路地裏の深い影の中に、一人の男がじっと佇んでいた。腰に差した剣は、ひどく使い込まれていた。

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