第104話 『砕かれた野望、守られた厨房』
王都より少し北に位置するその場所では、一足早く太陽が顔を覗かせる。
グレゴリウスが朝の畑へ出た時、空はまだ白んでいた。
クワを担ぎ、泥だらけの長靴で畝の間を歩く。
夏の朝の土は、踏むたびにしっとりとした生気を返してくる。
野菜の出来を確認しながら歩いていると、向こうから人影が近づいてくるのが見えた。
簡素な麻の服を纏った、見慣れない顔の男だ。
立派な体格をしたその男は、グレゴリウスの前で足を止めると、丁寧な挨拶を口にした。
「グラナード侯爵様、おはようございます。最近こちらへ越してきました、大工のヨハンと言います。これからよろしくお願いいたします」
男は帽子を手に、深く頭を下げた。
「そうか、よく来てくれた。なにかあれば気兼ねなく声をかけてくれ」
グレゴリウスが笑うと、ヨハンの顔からようやく強張りが消えた。
そのまま立ち去ろうとしたヨハンは、迷うように足を止めた。
「そういえば……私は王都の職人街から引っ越してきたのですが、何度か侯爵様をお見かけしたことがあります。まさか、こちらでまたお会いできるとは思いませんでした」
「おお、そうなのか?実はあそこにある『キッチン・ブラン』というレストランに、足繁く通っておってな」
それを聞いたヨハンは、ふと視線を落とし、言いづらそうに口を開いた。
「……あの。実は私が王都を離れた理由について、少し気になることがありまして。少し前から、職人街の様子がおかしかったんです。近隣の店が、まるで申し合わせたように次々と店を畳み、引っ越していきました。私は親戚の伝手でこちらに来ましたが……」
「ふむ……。承知した。わざわざ話してくれて感謝する」
グレゴリウスはそう言ってヨハンを見送ると、担いでいたクワを静かに畑の端へ立てかけた。
泥のついた手を軽く払い、彼は真っ直ぐな足取りで屋敷へと戻り始める。
「支度を頼む」
「は、はい! ただいまお支度いたします!」
泥にまみれた作業着を脱ぎ捨て、身に纏ったのは、深海のように落ち着いた紺色の貴族服だった。上質な生地は光の加減で深い艶を放ち、銀の刺繍が施された襟元には、隠しきれない威厳が宿っている。
隠居生活で幾分か丸くなっていた背筋が、かつての貴族としての鋭さを取り戻したように、真っ直ぐに伸びた。
「これより王都へ向かう。一番速い馬を用意しろ」
「はい! ただちに!」
使用人が弾かれたように走り去ると、残された静寂の中でグレゴリウスは、ふっと目を細めた。
「……あやつらには、知らせぬほうがいいじゃろうな」
賑やかな笑い声が響いているはずの、遥か遠くの空を一度だけ仰ぎ見て、彼は静かに独りごちた。
王都に着いたグレゴリウスがまず向かったのは、かつての部下が詰める騎士団の詰め所だった。
その扉を勢いよく開けると、当直の若い騎士が目を剥いた。
「あ、あの……も、申し訳ありません! 一般の方の立ち入りは……」
「グレゴリウス・フォン・グラナードだ。団長を呼べ」
その名が投げかけられた瞬間、詰め所の空気が一変した。
「よう。今はギルベルトが団長か。……話を聞かせてもらおう」
奥から現れたギルベルトから聞き出した報告は、想像以上に根が深かった。
再開発の名目で、職人街の住人たちを次々と移転へと仕向けた工作。
しかし、最後まで残った『キッチン・ブラン』だけは、手が出せなかったようだ。ゆえに、強制退去という法的手段に切り替え、そこに居合わせた二名の魔族を拘束・連行したのだという。
グレゴリウスは、報告を受け、思案するように静かに目を閉じた。
「……そうか」
立ち上がり、襟を直す。次にグレゴリウスが向かう場所は、決まっていた。
王宮の廊下は、夏の午後の光を白く反射していた。
外の熱気とは切り離されたような、ひっそりとした静けさがそこにはあった。
グレゴリウスが最上階の執務室の扉を躊躇なく開けると、書類の山に埋もれていた若い王が顔を上げた。
そこにいたのは、線の細い、どこか疲れた顔をした青年だった。
「……叔父上? どうしてここに」
「久しぶりだな。少し話がある」
グレゴリウスは椅子を引いて腰を下ろし、懐から数枚の書類を取り出してテーブルに置いた。騎士団長から預かった、宰相の動きを記録した報告書だ。
「これを見ろ。お前が知っているかどうか、確認したくてな」
王は書類に目を落とし、見る見るうちに顔色を失った。
「……これを、宰相が? 私は何も……」
「分かってる。お前が知らんのは最初から分かってた。だから来た」
グレゴリウスは静かに続けた。
「職人街への不可解な退去通告も、『キッチン・ブラン』という店への立ち退き命令も、お前が本当に許可を出したとは思えなかった。……違うか?」
王はしばらく書類を見つめたまま黙っていたが、やがて力なく首を振った。
「……違います。私は、そのような命令を出した覚えはありません」
「だろうな」
グレゴリウスは頷き、立ち上がった。
「なら、書状を一枚頼む。宰相の権限を一時凍結し、キッチン・ブランの立ち退き命令を無効とする、国王陛下直々の書状を」
王は迷わなかった。羽根ペンを手に取り、真っ直ぐにグレゴリウスを見上げた。
「……叔父上。その店は、あなたにとって何なのですか?」
「うまいぞ。機会があれば、お前も行ってみろ」
グレゴリウスは甥に向かって、口角を上げた。
「忙しいのはわかるが、ちゃんと眠れよ。……これを持って、あやつらの元へ戻らねばならんのでな」
王宮から近い場所にある地下の特別収監施設に、何かが吹き飛んだような凄まじい音が響き渡る。
グレゴリウスが急いで階段を駆け下りると、そこにはひしゃげた鉄格子と、立ち込める土煙の中に立つ純白の燕尾服とコックコートの姿があった。
「お取り込み中のところ、すまんのう。何事かと思って来てみれば、……派手にやったものだ」
グレゴリウスは、騒ぎの中でもどこかのんびりとした声を掛け、吹き込んできた爆風で乱れた金髪を、後ろへ撫でつけた。
「グレゴリウスさん!」
白いコックコートの男、アルフレッドが驚いたように声を上げる。
そのアルフレッドと対峙するように立ち塞がっていたのは、一人の細身の男だった。
仕立ての良い濃茶の貴族服を一分の乱れもなく着こなし、薄くなった白髪交じりの髪を整えた眼鏡の男。
「……貴様はいったい、何者だ?」
グレゴリウスを睨む瞳は、底光りするように鋭く輝いていた。
「そうか、無理もない。わしは貴様――いや、宰相殿の歯牙にもかからぬ、ポンコツ英雄だったしなあ」
宰相の顔色がわずかに曇り、落ち着かなさそうに両手を胸の前で擦り合わせる。
その左手の薬指に嵌められた指輪が、チカリと外の光を跳ね返した。
この場には似つかわしくない、あまりに豪奢な指輪。
金貨を胸に抱いた女神の意匠が、細かく刻まれていた。
それだけが、この男の本当の欲望を、雄弁に語っていた。
「その英雄が何用だ、所詮、国が抱える不発弾だろう」
グレゴリウスは、騒ぎ立てる宰相を冷めた目で見つめ、ゆっくりと懐に手を入れた。
「用があるのはわしではない。この国の王だ」
取り出されたのは、王家の紋章が刻まれた一通の書状だった。
「……ほう、その王の書状がなんだというのだ。そもそも貴様はいったい……」
余裕たっぷりだった宰相の顔が、一瞬だけわずかに引きつった。
「グレゴリウス・フォン・グラナード。……現王陛下の、叔父じゃ」
数秒の沈黙。
そのわずかな時間で、彼は再び鉄壁の仮面を被り直し、指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、乱れた前髪を無造作に払う。
「……それがどうしたというのだ」
必死に、落ち着き払った宰相とは違い、ディアボロが「……ほう」と面白そうに口角を上げた。
その白磁のような指先から伸びていた鋭い爪が、音もなく収まっていく。
アルフレッドも驚愕の表情を浮かべる中、ただ一人、ルシウスだけが静かに眼鏡を光らせ、微動だにせずその光景を見つめていた。
「……ルシウスはなんで驚かないんですか……」
ゼノンが小さな声で突っ込むと、ルシウスは鉄の算盤を静かに下ろした。
「……私は、だいぶ前に王国の人物調査を済ませていたので、グレゴリウス様に関しては、最初から存じ上げておりました」
「え!? なんで言わなかったんですか!? せめてボクにだけでも……」
「必要になるまで、情報は秘匿するものです」
静かにルシウスは答えた。ゼノンが「ぼ、ボクにぐらいはさぁ……」と小声でふくれっ面になる中、グレゴリウスは、逃げ場のない重圧を込めて宰相へ告げた。
「宰相よ。わしの甥が、そのような理不尽な立ち退き命令に、許可を出したとは思えんのう」
「そ、それは……っ!」
「……直接聞いてみようか?今すぐ、王の前でな」
グレゴリウスは懐から、国王直筆の書状をゆっくりと取り出した。王家の紋章が入った封蝋が、地下牢の薄明かりの中でも鈍く輝いている。
「……!!」
「……ついでに、この帳簿も国王陛下にご覧いただきましょうか」
ルシウスが容赦なく畳み掛ける。
「ダミー商会を経由した魔界の過激派への武器横流し。こちらは魔界に多大なるダメージを与えました」
ゼノンがまっすぐ宰相を見て話す。
「あ、あの抗争で魔界から過激派が流入したなら、人間界との戦争が、再び起こったかもしれません!」
ルシウスがゼノンの言葉に頷き、さらに畳み掛ける。
「教会の裏金を資金洗浄に利用。これは教皇が消息不明になったことで、すでに潰れています。それに……ヴァレリウスの件で英雄データは消失。違法転送プラントの設置箇所も、すべて潰れています」
宰相の目論見は根底から崩れ去っていたことを、ルシウスが指摘した。
「…………」
「不透明な金の流れ――その真の出どころは、どこなのでしょうか」
ルシウスの冷徹な視線が、宰相の指に嵌まった不釣り合いな指輪へと注がれる。
宰相はルシウスの視線を見ても、眉一つ変えず余裕の笑みを浮かべる。
「……私は、正しいことをしてきた。不安定な力を持つ者を排し、秩序を守る。それが、この国のためになると信じていて、何が悪い」
宰相が指輪に触れると、そこから音を立ててコインが溢れ出す。
「金なら、いくらでも溢れ出る。私が自由に振る舞っても、何ら支障をきたさぬほどの金がな。この世界は、これだけで全ての臣民が従属するのだ」
「ふん、所詮はくだらぬ、薄汚い金か」
壁に寄りかかって、腕組みしていたディアボロから、冷ややかな魔力が溢れ出す。
「そんなもので我の聖域を奪おうとしたのだ。その償い、高くつくぞ」
地下牢の空気が凍りついたように震え、ディアボロの瞳が、獲物を見つけた捕食者のように鋭く輝いた。
「ハハハッ、あんな掃き溜めのような場所で、レストランなんて……」
「黙れ」
アルフレッドの胸の奥で、何かが音を立てて弾けた。
「……あそこは、あんたが金で買えるような場所じゃない」
「……金が全てだ。あの掃き溜めの連中も、金につられて動いた。それが、人間の本質というものだ」
宰相は勝ち誇ったように、うっとりと宝石を眺めるかのような悦楽の眼差しを指輪に注いだ。そんな男を、アルフレッドは冷めた目で見据えた。
「……あんたは、何一つ分かってない。その指輪がどれほど金を産もうと、そんなものは食べられもしないんだ。あんたが追い出した人たちが流した汗や、育てた食材一粒の価値にさえ、そんなオモチャは届かない」
アルフレッドの言葉に、グレゴリウスが静かに歩み寄る。
「戦場では一塊の黄金より、泥まじりの水一杯の方がよほど命を繋いでくれる。……宰相よ、今の貴様が縋るその金も、喉を潤す一滴には程遠いぞ」
グレゴリウスが宰相を睨むと、指輪に宿っていた神の加護が、耐えきれず悲鳴を上げる。
ピキリ。
「な……なぜ……! 私の指輪が……!」
這いつくばる宰相の前に、漆黒の魔力が静かに広がる。ディアボロは、ヒビ割れた指輪を一瞥し、極めて傲慢に見下ろした。
「……我が城の庭先を汚した対価だ。身の程を知れ」
ディアボロが指先で、指輪を軽く弾くと、パキン、と甲高い音を立てて粉々に砕け散り、空へと消えていく。
やがて、グレゴリウスの書状を確認した王国兵たちが、呆然としたままの宰相を両脇から取り押さえ、連行していく。
「……極刑は免れんな」
グレゴリウスは、連行されていく宰相を見送り、言い捨てる。
ガチャン、という音と共に、ゼノンとルシウスの手枷が外された。
「……良かったですぅ……」
ゼノンが床に座り込んで安堵の涙を流す。だが、ルシウスはすぐに手首をさすりながら、算盤を構え直した。
「泣いている暇はありませんよ、ゼノン。例の魔界の件に関する書類が山積みです。急いで魔界へ戻りますよ」
「ひぐっ……!」
そのやり取りに、アルフレッドは、強張っていた肩の力をふっと抜き、深く息を吐いた。
「……強制退去命令も撤回されるはずじゃ。『キッチン・ブラン』は、これからも今まで通り営業できるぞ」
グレゴリウスが振り返り、ニカッと笑った。
「ありがとうございます。グレゴリウスさん、本当に……」
アルフレッドが深く頭を下げようとした瞬間、グレゴリウスはそれを手で制した。
「礼など不要じゃ。……それより、明日もいい野菜を持っていくから、何かうまいもんでも作ってくれ」
「ふん、我の魔力も効いているだろうからな」
三人三様で笑い、アルフレッドがグレゴリウスにまっすぐに答える。
「……はい。待ってます」
地下牢を出ると、夏の日差しが石畳に跳ね返り、午後の王都はうだるように暑かった。
「……アルフレッド」
物音ひとつしない路地裏の深い影の中に、一人の男がじっと佇んでいた。腰に差した剣は、ひどく使い込まれていた。
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