第102話 『静かな街と、消えた日常』
夏の湿り気が抜け、ジリジリと肌を焼くような熱気が、王都の石畳にへばりついていた。『キッチン・ブラン』の厨房で、アルフレッドはコックコートの袖を捲り上げ、使い込まれたまな板に向かっていた。
トントン、トントン……。
規則正しく、小気味よい包丁の音。だが、アルフレッドはふと、その手を止めた。耳にこびりつくような蝉の鳴き声。それ以外の音が、何もない。
聞こえるはずの、槌が鉄を打つ音も、荷馬車の車輪が石畳を軋ませる音も、職人たちの威勢のいい笑い声も。
それらすべてが抜け落ちたように、不自然なほど、無音だった。
――数日前の夜。
営業を終えた店内に、ディアボロが命名した特製ブレンド『ブラン』の華やかな香りが満ちていた。
アルフレッドが丁寧に淹れた紅茶を前に、嬉しそうに目を細めていたのは、その茶葉を扱う紅茶店の店主だった。
彼は立派な手土産を抱え、どこか晴れがましい顔で口を開いた。
「実は、王宮そばの一等地に出店しないかと、国からお声がかかりまして。移転の支度金も、破格でしてね」
アルフレッドは「おめでとうございます!」と、自分のことのように喜んで彼を祝った。窓際でその茶を飲んでいたディアボロも、満足げに鼻を鳴らした。
「ふん。我が命名した茶を扱うのだ。皆に認めてもらうのは、当然の栄誉だ」
店主は、新しい店への希望に頬を上気させ、何度も深く頭を下げると、満面の笑みを浮かべて夜の街へと帰っていった。
さらに数日後、微かに木屑の匂いをさせた、隣の木工工房の主が店を訪れた。
彼はカウンターの端に座るなり、かつて自分が修理し、今はすっかり馴染んだその木目を静かに撫でた。
以前に、粉々に壊れてしまった無惨なカウンターを、今の姿へと直してくれたのは、他ならぬこの男だった。
「遠くの親戚が、急に広い土地を譲ってくれてね」
彼は、アルフレッドが出した冷たい麦茶を一口飲み、どこか申し訳なさそうに頭を掻いた。
「最近、王都の家賃がずいぶん上がってたから……正直、渡りに船でね。あんたがこのカウンターを大切に使ってくれてるのも、よく分かってるんだが」
アルフレッドは「寂しくなりますね」と笑い、餞別代わりに、香ばしく焼き上げた数種類のガレットを袋に詰めて手渡した。
そしてまた数日後。
瑞々しい夏野菜を抱えた八百屋の女将が、裏口から顔を出した。
以前ディアボロへ、熟したオレンジを「顔色が悪いんだから」と笑って差し出した彼女は、今日ばかりはどこか元気がなかった。
納品を終えてもすぐには立ち去らず、名残惜しそうに厨房の壁を撫でた。
「……ほんとはここを離れたくないんだけどね。でも、国から今の店の何倍もの値段で買い上げたいって言われてさ。最近、王都の家賃がずいぶん上がってて大変だったけど……やっぱり背に腹は代えられないからねえ」
彼女は自分に言い聞かせるようにそう呟き、アルフレッドが手渡した、自家製のオレンジピールをたっぷり混ぜ込んだパウンドケーキの包みを、宝物のように胸に抱えた。
「……最近、引っ越しが多いですね」
アルフレッドは、遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、小さく呟いた。
だが、それから数日のうちに、小さな異変が静かに街を覆い始めていた。
隣で工房を構えていた主や、いつも極上の赤身肉を届けてくれる肉屋、小麦を扱う雑穀店の主人。
彼らが入れ替わるように、どこか申し訳なさそうな顔をして店を訪れたのだ。
彼らの言葉の端々には、まるで申し合わせたかのように、同じ理由が混ざっていた。
アルフレッドは「最近、引っ越しが重なりますね」と呟きながら、餞別の菓子を振る舞った。たまたま時期が重なっただけなのだろう。
長年この場所で商売をしていれば、そういう巡り合わせの年もある。
その程度にしか、彼は思っていなかったのだ。
その言葉を黙って聞いていた窓際のディアボロは、紅茶のカップを口に運ぶ手を止め、無言のまま、窓の外の景色を一瞬だけ冷ややかに見つめていた。
そして、現在。
ランチタイムのピークを迎えるはずの時刻になっても、店の真鍮のベルは一度も鳴らなかった。
アルフレッドはコンロの火を止め、濡れた手をエプロンで拭うと、表の扉を開けた。ディアボロも、その後ろに続く。
外に広がっていたのは、夏の熱気だけが張り付いた、もぬけの殻の街だった。
長年掲げられていた木彫りの看板は外され、店先を彩っていた荷物は消え、重い木の扉は固く閉ざされている。
並び立つ煉瓦造りの建物からは、生活の匂いが残らず抜け落ちていた。
誰もいない通りを辿った視線の先。揺れる陽炎の向こうに、黒い重装備の王国兵が数名、無言で立ち尽くしていた。
アルフレッドの脳裏に、数日間の光景が、パズルのピースのようにカチリと重なり合う。
――栄転を喜んで旅立った紅茶店の店主の顔。
――「離れたくない」とこぼしながら、寂しそうに笑った八百屋の女将。
――かつてエリアーナがこぼした「最近、王都の家賃が上がってね」という声。
全部、繋がった。
誰一人、騙されたわけではない。無理強いされたわけでもない。
みんな、自分たちで「出る」と決めて、笑顔で去っていったのだ。そのあまりに出来すぎた偶然の連鎖に、アルフレッドは指先が冷たくなるのを感じた。
ディアボロはアルフレッドの隣に立ち、何も言わなかった。ただ、その白磁のような指先から、怒りに呼応した鋭い爪が静かに伸びていた。
コツ……コツ……。
無音の街に、規則正しい靴音だけが響いてくる。熱気の中を歩いてきたのは、灰色の服を着た役人だった。
役人はアルフレッドたちの前に立つと、無言のまま、手にしていた一枚の書類を突き出した。
受け取ったアルフレッドの視界に、無機質な黒インクで印字された文字列が飛び込んでくる。
『職人街の再開発に伴う強制退去命令書』
アルフレッドの群青の瞳が、その文字をなぞる。
「……立ち退き、だって?」
その呟きは、夏の乾いた空気に虚しく吸い込まれていった。
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