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元勇者だけど、たまに猫になる魔王とレストランをやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第5部:脱ぎ捨てた過去と、騒がしい日常の帰還

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第101話 『玉座の引力と、無自覚な爪』

 夏の陽光が、王都の石畳を白く照り返していた。

 ランチタイムの喧騒が引いた午後の『キッチン・ブラン』には、時計の針が刻む音だけが響いている。


 アルフレッドは厨房に立ち、ボウルの中で卵黄と生クリームを静かにかき混ぜていた。

 窓際の特等席では、純白の燕尾服を纏ったディアボロが、紅茶の湯気の向こうで目を伏せている。


 その平穏を破るように、裏口の扉がバンッ! と開いた。


「……っ」


 アルフレッドの手元で、泡立て器が止まる。

 窓際のディアボロは、隠そうともせず「またか」と言いたげな顔をした。


「……来たか」


 ディアボロは静かに紅茶を啜る。裏口には、ルシウスが逃がさぬようゼノンの首根っこを固く握りしめて立っていた。


「ル、ルシウスぅ……! ボク、もう無理ですぅ……!」


 ゼノンは床に這いつくばり、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、テーブルの脚へ必死にしがみついた。


 ルシウスの肩は、微かに上下していた。

 端正に整えられた薄茶の髪は、噴き出した汗のせいで額に張り付き、銀縁の眼鏡の奥では、血走った瞳が鋭く見開かれている。左手に握りしめられた鉄の算盤には、うっすらと泥の飛沫が跳ねていた。


「原因不明の破壊活動、被害総額の算出、防衛結界の再構築、瓦礫撤去の人員配置……仕事は、恐ろしいほど山積みです。休んでいる暇など一秒もありません」


 ルシウスはいつもの冷徹なトーンを保とうとしていたが、その語尾には明らかな余裕のなさが滲んでいた。

 ゼノンの首根っこを引きずる手に、さらなる力がこもる。

 シャツの生地が限界を告げるように、ビリ……と不吉な音を立てた。


「ひぃぃっ! 十分、いや五分だけでいいから! アルフレッドさんの料理を胃に入れないと、ボクの体が完全に藻屑になりますぅぅぅ!」


 ゼノンはテーブルの脚を抱え込んだまま、指先が白くなるほどの力でしがみついている。

 ルシウスは懐から銀時計を取り出し、その盤面を一度だけ鋭く睨みつけた。


「……しょうがありませんね」


 ルシウスが、忌々しげにゼノンの首根っこから手を離す。


「三分だけです。私は先に戻り、防衛結界の再計算を進めておきます。……一秒でも遅れたら、あなたを書類の山の下敷きにしますよ」


 ルシウスはそれだけを早口で言い捨てると、踵を返し、来た時よりもさらに激しい足音で裏口の向こうへと消えていった。


 裏口の扉が乱暴に閉まる音が、店内に響き渡る。


「す、すみません……。騒がしくしちゃって……でも、もうボク限界なんです」


「毎回、大変ですね。ゼノンさん」


 アルフレッドは無言のまま、火にかけていた蒸し器の蓋を開けた。

 甘い匂いを含んだ白い水蒸気が厨房に広がる。

 彼は厚手の布巾を使って、中から小さな陶器の器を取り出した。

 器の中には、鮮やかな山吹色をした、かぼちゃの温かいプリンが揺れていた。


「アルフレッド。この騒音の口直しに、我にもそれをよこせ。……特大のやつだ」


 アルフレッドはゼノンがしがみついていたテーブルへ、スプーンを添えて器をコトッと置いた。

 続けて、窓際からの尊大な要求に応えるように、ディアボロの待つ席にも、一回り大きな器を置く。


「あ、ありがとうございます……いただきますぅ……」


 ゼノンはテーブルの脚から手を離して、フラフラと立ち上がり、震える手でスプーンを握りしめる。

 その傍らで、ディアボロもまた、黄金色の肌をしたプリンに銀のスプーンを滑らせていた。濃厚な甘みが舌の上で溶けるたび、ディアボロの眉間の険しさがわずかに解けていく。

 ディアボロの前に置かれた特大のプリンは、ゼノンが必死に息を吹きかけている間に、きれいに空になっていた。


 ゼノンはプリンをそっとすくい、息を吹きかけて冷ました。

 一口目は、恐る恐る。

 二口目で、青白かった頬にわずかな血色が戻る。

 三口目からは、もう止まらなかった。

 スプーンが陶器の底をこすり、ゼノンは長く、深い息を吐き出した。


 彼はスプーンを置き、ふらつく足に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。服のシワを伸ばし、乱れた灰色の髪を指で梳く。


 ゼノンは厨房のアルフレッドに向かって、深く頭を下げた。


「とても、美味しかったです……。生き返りました」


 そして、彼は向きを直した。一連の騒ぎに一度も口を開かず、ただ視線を窓の外の景色へと向けているディアボロの背中へ。


「魔王様」


 ゼノンの声から、先ほどまでの涙声は消えていた。


 ディアボロは振り返らない。

 ただ、ティーカップの縁をなぞっていた指先が、ぴたりと止まった。

 ゼノンは、ディアボロの広い背中を見つめ、静かに口を開いた。


「玉座の間、いつでもお戻りいただけるように、ピカピカに磨いてありますから」


 ディアボロは、やはり振り返らない。


「……やっぱり、魔界には魔王様がいてくださらないと、ボクは不安なんです」


 ゼノンは真っ直ぐにディアボロの背中を見つめたまま、口角を上げ、小さく笑った。


「ご、ごめんなさい……。戻りますね。ルシウスに怒られる前に」


 ゼノンは再び深く一礼し、裏口の扉から出ていく。

 そして店内に、完全な静寂が戻った。


 アルフレッドは、ゼノンの空になった器をシンクへと下げ、水道の蛇口をひねった。水がシンクを打つ音だけが、店内に響く。

 窓際のディアボロは、依然として外の景色に顔を向けたまま、微動だにしなかった。


 やがて、ディアボロがゆっくりと、テーブルの上の青と白のティーカップへと右手を伸ばした。

 ディアボロの指先が、その持ち手に静かに触れる。


 ――カチッ。


 微かな、しかし極めて硬質な音が、静寂の店内に鳴った。

 その音に、アルフレッドは蛇口の水を止めた。彼の視線が、窓際のテーブルへと向けられる。

 ティーカップの持ち手に添えられた、ディアボロの右手。その五本の指の先端から、鋭く漆黒の爪が、うっすらとにじみ出ていた。


 ディアボロは窓の外を向いたまま、動かない。

 カップを持ち上げることもなく、ただ持ち手に指を添えている。

 黒い爪が出ていることに、本人だけが気づいていなかった。


 アルフレッドは、濡れた手をエプロンで拭いかけたまま、その動きを止めた。

 彼はディアボロの横顔と、その指先ににじみ出た黒い爪を交互に見つめ、静かに問いかけた。


「……マスター?」


 その問いかけに、ディアボロが応えることはなかった。

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