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元勇者だけど、たまに猫になる魔王とレストランをやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第5部:脱ぎ捨てた過去と、騒がしい日常の帰還

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第100話 『羨望の刃と、無言の香り』

 朝の市場。石畳を叩く靴音と、商人たちの威勢のいい声が飛び交う中、アルフレッドは肉屋の店先で豚のブロック肉を見定めていた。指先で弾力を確かめ、脂の差し具合を鋭く見極める。

 その横顔は、元勇者のそれではなく、すっかり一人の料理人として板についていた。


「よし、これをもらうよ。塊のまま切ってくれ」


 店主に銀貨を渡そうとした、その時だった。


「おい、あそこの人……」


「間違いない、勇者アルフレッドだ!」


 背後から響いた上擦った声に、アルフレッドは肩をビクリと揺らした。

 振り返ると、駆け出しと思われる若い冒険者のパーティが、興奮で顔を紅潮させてこちらを取り囲んでいた。


「俺たち、あんたに憧れてこの道に入ったんです!」


 先頭に立つ若い剣士が、憧れの英雄を前に瞳を輝かせ、身を乗り出してきた。背中に背負った使い込まれた鉄剣が、彼の真っ直ぐな熱意を物語っている。


「握手してください! 会えるのが夢だったんです!」


 アルフレッドは、肉の脂でわずかに光る自分の掌を、どこか所在なげにエプロンで拭った。

 今の自分に向けられたものではない熱狂を前に、彼は困ったように眉を下げ、気圧されるようにして差し出された手を握り返した。


「……そっか。がんばれよ」


 それだけで、若い剣士の顔には花が咲いたような喜びが溢れた。

 彼は感極まったように繋いだ手を上下に振り、隣にいた仲間と顔を見合わせてから、意を決したように声を張り上げた。


「アルフレッドさん! もしよかったら、俺たちのパーティに入ってくれませんか!? あんたがいれば、俺たち……もっと上を目指せるんです!」


 隣にいた魔法使いらしきローブ姿の少女も、尊敬の眼差しでアルフレッドを食い入るように見つめ、頬を上気させて何度も頷いている。


 差し出された彼らの手は、慣れない剣の素振りで潰れたマメや、魔法の暴発で負ったであろう小さな火傷の痕にまみれていた。

 その瞳は、ただ真っ直ぐに純粋な尊敬だけをアルフレッドに向けていた。


「……悪いな。俺はもう引退した、ただの料理人なんだ」


 アルフレッドは、その傷だらけの手を無下にすることもできず、困ったように眉を下げて曖昧に笑うしかなかった。

 若い剣士の掌から伝わる硬い剣ダコの感触が、かつての自分が歩んだ泥臭い日々を思い出させる。

 それは、今の平穏な日常との境界線を、よりいっそう色濃く際立たせていた。


 やがて、若者たちの後ろで静かに控えていた一人の剣士が、落ち着いた足取りでアルフレッドに歩み寄ってきた。その気配を察した若者たちは、自然と敬意を払うようにして、静かにアルフレッドの側から身を引いた。


 派手な装飾など一切ない、使い込まれた地味な鎧。重心の微塵もブレない立ち姿。腰に差した剣は、相当の年季が入っていた。そこには、幾度も死線を潜り抜けてきた者だけが纏う、研ぎ澄まされた刃のような重い静寂があった。


 男は、アルフレッドが捲り上げた腕――幾多の絶望を切り裂いてきた証である無数の古傷を、刻み込むようにじっと見つめ、やがてぽつりと独り言のようにこぼした。


「……なんで、あんな場所に。あんな、うらぶれた店の厨房などで……」


 男の言葉は、熱を帯びた市場の空気を一瞬で凍りつかせるほどに低く、静かだった。彼はアルフレッドの瞳を逃さぬよう真っ向から射抜き、逃げ場を塞ぐような鋭さで言葉を継ぐ。


「あんたの剣を、こんなところで腐らせていいのか。……本当に、ここで終わらせていいのかよ」


 真っ直ぐな目だった。


 その言葉は鈍く重い刃となって、アルフレッドの胸の奥を音もなく貫く。不意に、受け取ったばかりの肉の袋が鉛のように重くなった。


「……悪いな。俺には、帰る場所があるから」


 それだけを言い残し、アルフレッドは奥歯を噛み締め、口を引き結んで、静かに市場の喧騒を後にした。


『キッチン・ブラン』の扉を開けると、そこには外の熱狂を忘れさせるような、穏やかで落ち着いた空気が満ちていた。

 慣れ親しんだ静寂が、刺さったままの鋭い言葉を優しく包み込む。けれど、それがかえってアルフレッドの胸の奥にある「揺らぎ」を浮き彫りにした。


 アルフレッドは仕入れた肉を調理台に置くと、そのまま力なくカウンターに突っ伏した。厨房に立つ気力すら湧かない。カウンターに顔を伏せたまま、深く、重い息を吐き出した。


 窓際の特等席では、ディアボロが本を読んでいた。微かに紙の擦れる音が、静まり返った店内に規則正しく響く。ディアボロは視界の端でアルフレッドの姿を捉えたが、本から視線を外すことはなかった。


 やがて、パタンと本を閉じる乾いた音がした。

 ディアボロは無言のまま立ち上がると、迷いのない足取りで、アルフレッドが突っ伏しているカウンターの奥――厨房へと足を踏み入れた。


 カチリ、とコンロの火が点る音がした。顔を上げられないアルフレッドの耳に、静かな水音と、小さく沸き立つ湯の音が届く。

 続いて、ポットを温める湯の音。茶葉を量る匙が陶器の縁に当たる、硬く繊細な響き。それは、アルフレッドがいつもカウンターの向こうで繰り返している所作そのものだった。


 そのうち、アルフレッドの耳元で、コト……と静かに陶器が置かれる音がした。


 ゆっくりと顔を上げれば、目の前には透き通るような白磁に、深い夜空のような青と金糸の唐草模様が施された器があった。

 カップからは、華やかでどこか安らぐ『ブラン』の香りが、柔らかな湯気となって立ち昇っている。


 ディアボロは腕を組み、静かにアルフレッドを見下ろしていた。


 アルフレッドは、ゆっくりとカップに両手を添えた。陶器越しに伝わる温もりが、外で浴びた冷たい視線や胸の内の重たい感覚を、芯から溶かしていく。


「……マスター」


「……冷めるぞ。飲め」


 ディアボロはそれだけを短く言い捨てると、ふいと顔を背け、燕尾服の裾を揺らして窓際の特等席へと戻っていった。

 その一言に、アルフレッドはようやく小さく息を吐いた。

 鼻をくすぐる温かな香りが、重く沈んでいた胸の奥を、静かに解きほぐしていく。


 アルフレッドは群青の瞳を細め、琥珀色の紅茶を静かに口へ運んだ。

 その味は、彼が今まで飲んだどんな紅茶よりも、深く、温かい味がした。

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