『食パン警官の出来レース!――ヘタレ耳バニーは夜を駆ける!』
「おいおい、聞いたかよ? 例のユーストンの爆破で捕まった、東国の留学生の件よぉ」
安ビールのホップの匂いと煙草の煙が立ち込めるパブ『野ウサギと猟犬亭』の片隅。
マーチのウサ耳リボンに仕込まれた隠し集音器は、ヤードの平警官たちの地を這うような下町言葉を、アジトへ向けてクリアに中継し続けていた。
「あの一件、『食パン(ローフ・オブ・ブレッド)』どもの息がかかった大旦那たちが、随分と強引に『あいつが犯人で確定だ』って息巻いてるらしいじゃねえか」
「しっ、声がでけえよ! ……まぁ、現場にあんなあからさまな東国の木札が落ちてたんだ、ヤードとしてはスピード解決ってことで万々歳だろ。証拠の木札も、地下の『第一保管庫』の奥の金庫に厳重にロックされちまったしな。コッパーの価値もねえ、明日の裁判で有罪にするだけの出来レースさ」
――ザザッ。
マーチが息を殺してトレイを抱きしめていると、川向こうのランベス区のアジトから、ヘッドホンごしにリデルの鋭い声が響いた。
『……よくやったよ、ミス・マーチ。今、彼らが言った「食パン」というのはコックニーのライミング・スラング(隠語)だね。Loaf of BreadとHeadを引っ掛けて、ヤードの「頭(上層部)」のことを指している。つまり、バルフォアの身内さ』
「へっ!? しょ、食パン……!? アーちゃん、ヤードのお巡りさんたちって、制服の帽子のなかに本物のイギリスパンでも隠し持ってるんですかぁ!? だからみんな、頭がビヤ樽みたいに膨らんでるんですねぇ!」
『……ミス・マーチ。君は僕の言語解析を、一体どんなおめでたい脳みそで受信したらそんな結論になるんだい。パンを隠し持っている平警官がどこにいるんだ。頼むから少しは知性というものを働かせなさいな』
「酷いですぅ! そんな下町言葉の授業なら、アタシなんかよりも、好奇心のモンスターのアーちゃん(王女殿下)に披露してくださいぃ! それよりヤードの地下って、あの恐ろしいお巡りさんたちの総本山じゃないですかぁ!」
『静かに、君の悲鳴でまた僕のレシーバーのスピーカーが割れるところだった。――やれやれ、これだから馬鹿は嫌だよ。……まあいい。ヤードの地下の第一保管庫、そして証拠の木札。上層部が強引に鍵をかけた、出来レースの裁判か。……よし、これでドクター・イナバへの素晴らしい手土産(情報)ができたね』
*
夜も更け、『野ウサギと猟犬亭』の閉店時間が迫ってきていた。
一般の客のほとんどが引き払い、ホップと紫煙の残り香だけが漂う静かな店内。
馴れない給仕に、苦手な男性たちによる波状攻撃。身も心も擦り減ったマーチが、給仕服のまま壁際に座り込む。
「ううう……もうお耳が完全に『へにょん。』ですよぉ……。アタシ、明日からしばらくお茶会の『お部屋の守り人』になりますからね、アーちゃん……」
『お疲れ様、ミス・マーチ。君の頑張りのおかげで、ヤード地下の証拠品保管庫という有力な手がかりが得られたよ。そのまま息を整えて、店主に挨拶して上がらせてもらいなさい』
ヘッドホンごしのリデルの労いに、マーチが「はぁい……」と力なく返事をしようとした、その時だった。
店の最奥にある、普段は鍵のかかった薄暗い個室(貴賓席)の重い扉が、ギィ……と不穏な音を立てて開いた。
入っていったのは、ヤードの仕立ての良い制服を着た上層部(汚職警官)の男。そして――仕立ての良い高級な外套をまとい、冷酷な笑みを浮かべた黒幕、バルフォア子爵本人であった。
客の消えた静まり返った店内だからこそ、ピーターの仕込んだ隠し集音器は、その個室の壁を透過してバルフォア本人の尊大な『密命』を恐ろしいほどクリアに拾い上げ、アジトの録音機へと送り届けていく。
――ザザッ……
カリカリッ……カリ、カリカリカリ――。
バルフォア:「……ヤードの上層部には手を回してある。聖トーマス病院に紛れ込んだ東国の女医(Dr.イナバ)が、余計なカルテの証拠を握ったらしい。今夜、手下に黒外套を羽織らせて病院へ夜襲をかけろ。証拠のカルテを奪い取り、あの小生意気な東国のガキごとまとめて消してしまえ」
汚職警官:「へへっ、お安い御用ですよ、バルフォア様。……ですが、あそこには夜通し部屋に隠れて不穏な書類を集めている、あのナイチンゲール代表もおります。あのお高く止まった女も、なんだかんだ言って国の英雄ですが……本当に消しちまって大丈夫なんですかい? 病院ごと燃やしたりして、国際問題や大騒ぎになりゃしませんかね?」
バルフォア:「ハッ、国際問題だの英雄だの、笑わせるな! あんな極東の小国、我が大英帝国にはいつもヘコヘコ頭を下げてばかりの連中だ。そんな抗議をする気概などありゃせんよ。それに、あの『小陸軍省』にしても、ヤードの特権を使って『原因不明の不審火による悲劇の焼死』とでも処理してしまえば、今夜で全ては闇の中さ。……あわよくば、あの忌々しい女狐ごと、まとめて今夜灰にしてしまえ」
――ブツンッ、ザザッ。
通信の向こう、ランベス区のアジト。
アリス・リデルは大型受信機の前にちんまりと腰掛け、悪党どもの声を刻み終えて回転を止めた蓄音機の『蝋管』を、ジト目で見つめていた。
片方は深い知性を湛えた神秘的な灰緑、もう片方は怪しく毒を秘めた高貴な紫――左右で異なる色の光を宿したそのオッドアイが、冷徹に細められる。
ヘッドホンを抑える彼女の細い指先から、怒りで知性が冷たく燃え上がるような、静かな沈黙が室内に広がる。
『……なるほど。タイムリミットは、まさに「今夜」だね。あいつら、東国の仲間たち(Dr.イナバ)だけでなく、大英帝国の英雄――あの『小陸軍省』とまで渾名されるナイチンゲール代表まで、ヤードの権力を使って不審火に偽装し、まとめて焼き殺すつもりだよ。……本当に、胸の悪くなるような出来レースだ』
リデルの声から、いつもの気怠さが完全に消え失せ、冷徹な刃のような響きを帯びる。
『ミス・マーチ、もう十分だ。今すぐそのパブを出て、聖トーマス病院へ急行しなさい。病院の青いの(アリス王女)は通信機を持っていない。君が直接走って、一刻も早くこの夜襲の計画を伝えるんだ!』
「ふえええええええええ、アタシ、パブで散々こき使われて疲れてるのにいいいいい!! なんで伝言係までやらされるんですかぁぁぁ!!」
マーチ・ヘアはヘタレ耳を激しく振り乱し、涙目で夜霧のロンドンを聖トーマス病院へ向けて全力で走り出すのだった。
馴れないイギリスの下町言葉を交えてみました。
次は深夜の病院が襲撃される!?ナイチンゲールも消されちゃう!?
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