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『急転直下のエマージェンシー!――ワンダーランドに迫る危機!』

「たっだいまー!――楽しかったわね!」


 バーン!とランベス区の煤けた煉瓦のアジトの扉を勢いよく開けて、中に入るアリス王女。

 万博会場で必死に貼り付けていた余所行きの仮面をあっさりと脱ぎ捨ててしまうと、彼女はお気に入りのソファーへと飛び込み、じゃじゃ馬本来の満面の笑みを爆発させた。


「日本のお星さまのお菓子、甘くておいしかったですぅ。日本へ行けば、あんなお菓子をもっと食べられるんですかねぇ」


 ニコニコと追従するのはマーチ・ヘアだ。

 黒のシルクハットの中に収めていた長いウサギ耳を解放し、お菓子の味を思い出しながら幸せそうに耳をピコピコと揺らしている。


『新型メカも、好評。やったぜ』


 無表情なウサギの被り物のまま、律儀にスケッチブックにそう書いて掲げるのはピーターだ。


――そして。


「……どうして君たちはそんなに元気なんだ? おかしいだろ。僕は今日から数日間は寝込むことにする。休暇願を申請する」


 お気に入りの安楽椅子に崩れ落ち、黒いボンネットを放り出したアリス・リデルが、灰緑と紫のオッドアイをひどく遠い目にして、消え入りそうな厭世的なため息を深くついた。

 人混みという名の拷問に数時間も揉まれた彼女の疲労は、すでに限界を突破していたのである。


「もう、何言ってるのよリデル! せっかくのワンダーランドを大満喫してきたのよ! 明日からも――」


 アリス王女がギャーギャーと安楽椅子の周りで抗議しようとした、まさにその時だった。


 バタン!!


 アジトの重い扉が、先ほどのアリス王女の時とは明らかに異なる、尋常ではない恐怖に満ちた勢いで跳ね上がった。


「王女殿下、そしてリデル殿……! 大変なことが起きました……!」


 アジトの冷えた床に滑り込んできたのは、昼間の華やかな振袖姿のまま、肩を激しく上下させて息を切らす稲葉白だった。

 アルビノの白い髪は乱れ、ルビーのような赤い瞳は恐怖と驚愕に震えており、いつもの秒針を確認する冷静さは微塵もない。


「あ、白先生、今日は案内ありがとうございます! あのトゲトゲのお菓子、まだ食べたりないので、今度また――」


「お菓子の話をしている場合ではありません!」


 白はアリス王女の無邪気なおねだりを、引き裂くような悲鳴で遮った。


「先ほど、聖トーマス病院の軍医ルートから極秘の緊急電報が入りました……! 昨夜、ウィリアム・フォスター社の秘密工場から、軍が極秘裏に開発中だった試作中のムカデ型兵器――コードネーム《マザー》が何者かに強奪されました!」


「どういうことよ!」


 アリス王女のロイヤルブルーの瞳が、お菓子の余韻から一瞬で驚愕へと見開かれる。

 安楽椅子に深く埋もれていたアリス・リデルが、灰緑と紫のオッドアイを僅かに動かし、呆れたように声をかけた。


「……青いの。《マザー》というのは、一体どういう物なんだい?」


「公務で一度見学したのよ! 足がいっぱいあって、グネグネ動いて、ギュラギュラ言ってて、とにかくもの凄く気持ち悪いのよ!」


 アリス王女はロイヤルブルーのドレスの袖を激しく振り回し、頭の悪そうな擬音を全開にして、かつて極秘工場で目撃した鉄の怪物の不気味さを力説した。


「……君に訊いた僕が馬鹿だった」


 リデルは額を押さえ、消え入りそうな声で深くため息をついた。これ以上の情報収集をアリス王女に期待するのは時間の無駄だと、天才探偵の脳が一瞬で諦めを告げたのである。


「……ですがアリス様。ガル自身が、犯行を仄めかすメッセージを現場に残したため、彼が主犯とみて間違いないでしょう。ただ、彼の単独犯行に留まりません」


 白はごくりと固唾を呑み、さらに冷や汗を流しながら、手にした緊急電報の生々しい内容を告げた。


「強奪された現場の壁には、ガルの不気味なマークと並んで、プロイセン出身の某経済学者の演説に感化された、過激なコックニー(ロンドンの下層労働者)たちのスローガンが、血のような赤文字で殴り書きされていたのです。どうやらガルは、体制転覆を夢見る彼らを扇動し、手先として引き入れた模様です」


「ロンドンの労働者たちと、あのマッドサイエンティストが手を組んだっていうの……!? 資本家を打倒するとか何とか言って!」


 アリス王女が戦慄に身を震わせる。リデルもまた、その不穏すぎる社会背景にオッドアイを鋭く細めた。白は震える声のまま、現場に残されたガルの犯行声明を読み上げる。


「――我が名はウィリアム・ガル。これよりフォスターの醜悪な《マザー》の胎内に、我が至高の自動照準機関砲――《バンダースナッチ》の種子を植え付けん。世界を変革する同志らと共に、ウサギどもを貪り喰らうその新たな鉄の怪物の名を、《ジャバウォック》とする、と」


「ジャバウォック……。あの気持ち悪い《マザー》をベースに、さらに《バンダースナッチ》なんて最悪のからくりを植え付けたっていうの……!?」


 アリス王女が恐怖に唇を噛んだ、その時だった。

 それまで大人しくしていたピーターがガタタッ! と弾かれたように立ち上がり、真鍮のペンを握りしめてスケッチブックに猛烈な勢いで挑みかかった。


 ――ガガガガガガガガッ!!!


 アジトの中に凄まじい筆記音が鳴り響く。天才機械工の脳内が一瞬でフル回転し、彼女は無表情なウサギの被り物のまま、ガルの狙いを紙の上へ叩きつけていく。掲げられたページには、緻密にしておどろおどろしい「怪物の予想図」が描かれていた。


 節の連なる巨大な多節キャタピラ。どんな障害物も踏み潰して進む、軍極秘の超悪路走破マシン《マザー》。その醜悪な背中に、まるで寄生虫のように強引に溶接された、異様な形状のからくり。それこそが、ガルが付け足した自動照準機関砲《バンダースナッチ》の予測形状だった。


『《マザー》は最悪の機動力。ロンドンの入り組んだ市街地も、万博のガラスの壁も、一瞬で踏み潰して侵入できる。そこに、自動でウサギ(ぼくたち)をロックオンする《バンダースナッチ》が乗る。出会い頭に、蜂の巣にされる』


 ピーターの無機質な文字が、その怪物の絶望的な脅威をこれ以上ないほど雄弁に物語っていた。


「犯行声明文の下に、これが残されていたのです。意図は見えませんが」


 白が震える手で振袖のポケットから一枚の紙を取り出し、机の上にバサリと投げ出した。

 それは、昼間に自分たちが手にして万博を大満喫していたものと全く同じ――大英帝国紋章の入った、最高賓客用の『万博会場の特別招待券』だった。


 安楽椅子に深く腰掛けていたアリス・リデルが、冷え切った紅茶のカップを置き、その招待券を指先でつまみ上げた。灰緑と紫のオッドアイを冷酷に細め、大英帝国の高貴な紋章をじっと見つめる。


「……へえ。最高賓客用の特別招待券か。手触りからして本物だね。さすが御用達の医師ガル卿、コネの使い方が派手だ。……わざわざボクたちと同じ招待券を残していったんだ。メッセージの通り、自分の最高の発明品を万博会場でお披露目してやるから、特等席で見物に来い、とボクたちを挑発しているのさ」


 その言葉を聞いた瞬間、アリス王女のロイヤルブルーの瞳に、激しい憤怒の炎がパチパチと燃え盛った。


 ガルの底知れない傲慢さと、自分の大好きなワンダーランドを血塗られたショウの舞台に仕立て上げ、仲間たちを陥れようとする悪意の数々に、彼女は怒りでワナワナと拳を握りしめた。


「ええ……。あのクソマッドサイエンティスト、絶対にタダじゃおかないわ……!」


 部屋の空気が重く沈み込む中、ずっと怯えたように耳を震わせていたマーチ・ヘアが、思い出したようにガタガタと声を震わせた。


「あの……アーちゃん、白先生……。アタシ、さっき万博からこのアジトへ帰ってくる時、裏路地に妙な連中が集まってるのを見たんですぅ……」


「え……?」


「煤まみれの服を着たロンドンの労働者(コックニー)の男たちが、ニヤニヤしながら、アタシたちのことを見ていたんですぅ……。まるで、ここにウサギの巣穴があるのを知っているみたいに……!」


 マーチのその一言に、全員の背筋に凍りつくような悪寒が走った。

 リデルが冷酷なオッドアイを向け、ぽつりと呟く。


「……青いの。君のワンダーランドは、すでにガルの苗床にされているよ。ボクたちを誘い出すための、ね」

 ここまでお読みくださり、ありがとうございます。


 万博の華やかなお祭りムードから一転、急転直下のエマージェンシーです!

 作中で白先生の口から語られた「プロイセンの某経済学者」ですが、実はこの万博の時代(1860年代)、あの有名なカール・マルクスが実際にロンドンへ亡命し、まさに『資本論』の執筆に没頭していました。

 当時のロンドンは、世界の富が集まる資本主義の最先端であると同時に、裏路地には格差に怒る労働者階級のエネルギーが渦巻いていた、思想的にも凄まじくスチームパンク(?)な激動の街だったわけです。

 ガル卿、そんなロンドンの生々しい闇のエネルギーまで利用し始めましたね……。

 そしてラスト、マーチが目撃したアジトを囲む不気味な男たちの視線。


 ウサギたちの隠れ家は一体どうなってしまうのか!?


 次回、ついに宿敵の放った鉄の怪物が牙を剥きます。

 ヴォーパルバニーの命運をかけた大決戦、どうぞお楽しみに!


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