『クリミアの天使のスパルタ指導!(号泣)――気を取り直して万博よっ!(ひゃっほおおおい!)』
ランベス区にある、特務機関ヴォーパルバニーの秘密基地。
いつもは電算機の駆動音が支配するその空間。
だが、今日は少女の怨嗟の呻き声が轟いていた。
「もう、嫌よぉ、いやいやいやいや、嫌あああああああっっ! 毎日毎日毎日毎日、ナイチンゲール先生からの『ご指導』。今の私は、狂った帽子屋のお茶会にお呼ばれしている気分なのぉ。うううううう、ドイル先生の新作読みたいよぉ」
ツイードの鹿撃ち帽に書かれた、ドイルによるサインを眺めながら、涙ながらに語るアリス王女。
「ふーんだ。そんなの、アーちゃんの自業自得じゃないですかぁ。アタシなんて、ずっとずっとずうううううぅっと、アーちゃんの人身御供としてその気分を味わってきたんですぅ。そのクセ、アタシが帰ってきたときに『どこ行ってたの』だなんて。ざまぁみろですぅ」
呆れ果てたように長い耳をパタパタと揺らし、冷えた紅茶を淹れ直すマーチ・ヘア。
その時、アリスの肩をポンポンと叩く無骨な感触があった。
ウサギの着ぐるみを着た機械工、ピーターだ。失語症の彼女は大きなスケッチブックを開くと、さらさらとペンを走らせ、アリスの涙目の前に突きつけた。
そこにあったのは、たった二文字。
『G.J.(がんばったね)』
「ピーちゃん……! そうなの! 私頑張ったの! もっと褒めて! 讃えて!」
ガシッとウサギの短い前足を掴んで咽び泣くアリス。しかし、ピーターはすかさずスケッチブックのページをめくり、容赦のない追記を突きつける。
『Wish you luck.(がんばってね)』
「うん、私、がんばる!がんばるぞい!」
両手拳を胸の前で握りしめ、アリス王女はふんす!と胸を張った。
「青いのは、皮肉が通じなくておめでたいね」
「なにおう! ――でも、明日からの私は違うもんねーーーっ! 私は『王女』枠で正式に万博に招かれている身ですもの! つまり、明日からはナイチンゲール先生の包帯巻きをお休みして、公務として堂々と万博に行ってきちゃうんだから! うらやましい? ねえ、マーチ、うらやましいでしょ!」
お気に入りのツイードの鹿撃ち帽を頭に乗せ、インバネスコートをバサリと羽織りながら、アリス王女はこれでもかとドヤ顔を突きつける。
「う、うらやましくなんて、ないんですぅ!」
マーチ・ヘアはぷいっと顔を背け、悔しそうに長い耳をぎゅっと握りしめる。
「ボクもだね」
薄暗い部屋の奥、お気に入りの安楽椅子に深く腰掛けた少女――アリス・リデルが、紅茶のカップをソーサーにコト、と置いて、灰緑と紫のオッドアイを退屈そうに細めた。黒のゴシックドレスの裾を整えながら、厭世的なため息をつく。
「なにが哀しくて人ごみに揉まれなければならないんだい。こここそが安住の地じゃないか。君が公務とやらで大人しく数ヶ月間ロンドンを空けてくれるなら、ボクにとってはこれ以上ない平和な日常だよ」
「あらそう? 私が王女の権力を使って、招待状の2枚や3枚なら用意しようと思ったんだけどなぁ。ふ~ん、要らないんだぁ」
アリス王女はわざとらしくため息をつきながら、人差し指でツンツンと自分の顎を突いた。
「アーちゃん様ぁ! いえ、アリス王女殿下ぁ!」
あっさりと手のひらを返し、長い耳を全力で激しく揺らしながらすり寄ってくるマーチ・ヘア。
さらにピーターもちゃっかり、スケッチブックに勢いよく太文字を躍らせて掲げてみせた。
『My Dear Princess!(親愛なる王女殿下!)』
「ふふん、現金なやつらね! よろしい、ふたりの分の招待券は私が責任を持って手配してあげるわ!」
これでもかとドヤ顔を輝かせるアリス王女。そのおめでたいほどの得意げな様子を見つめながら、リデルは呆れたように冷ややかな声を投げかける。
「青いのは、皮肉が通じなくておめでたいわね」
リデルはそう吐き捨てると、冷えかけた紅茶を一口すすった。
「やったんですぅ! さすがはアリス王女殿下、持つべきものは太っ腹な主なんですぅ! よーし、万博の日本ブースにいるカグヤ(輝夜)のところへ行って、珍しいお菓子をたくさん奢ってもらうんですぅ!」
マーチ・ヘアは早くもお祭りのお菓子に思いを馳せ、長い耳をパタパタと激しく揺らして声を弾ませる。
アジトが「明日からの万博」に向けてこれ以上ない賑やかなピークを迎えた――まさにその時だった。
アジトの重い煉瓦の扉がすっと開き、小柄な影が滑り込んできた。
白衣にブラウス、下は女学生を思わせる臙脂の袴。アルビノの白い髪とルビーのような赤い瞳を持つ少女――聖トーマス病院に駐在する遣欧使節団の稲葉白だ。
「王女殿下、そしてリデル殿。ご歓談中のところ、お邪魔いたします」
白はそう言って、臙脂の袴の裾を小さくつまみ、英国風に綺麗なカーテシー(膝を折るお辞儀)を捧げた。
それからブラウスのポケットからお気に入りの懐中時計をすっと取り出し、パカッと蓋を開けて細い秒針を厳格な目で見つめる。
「ふむ、予定の時刻より三分遅れてしまった。聖トーマス病院での執務を終え、急ぎこちらへ向かったのですがね」
「あ、白! ちょうどいいところに!」
アリス王女がソファーから身を乗り出すと、白はパチンと懐中時計を閉じ、微笑みを浮かべてアジトを見渡した。
「……おや、万博のお話をされているようですね。実は私たちも、遣欧使節団の立場でアルコック卿から万博会場への入場を許可されていましてね」
「ええっ、本当!? 白たちも万博に行けるの!?」
アリス王女の青い瞳が輝く。
当時のイギリスでは、初代駐日英国公使であるラザフォード・オールコック(アルコック卿)が、日本で個人的に集めた数々の貴重な工藝品や日用品を万博に展示すると発表。大きな話題を呼んでいた。
白たちの入場が許されたのも、その『日本セレクション』の展示に協力するためであった。
「ええ。なんでも、卿が私的に蒐集した日本の工藝品や日用品も多数展示されるようでして。その設営のお手伝いもあり、明日から輝夜様と共に現地へ向かうのです」
「凄いわ、これで本当に全員集合じゃない! ひゃっほおおおい!」
アリス王女がソファーの上でさらに飛び跳ねると、ウサギの着ぐるみ姿のピーターも、すかさずスケッチブックに勢いよく太文字を躍らせて掲げてみせた。
『Amazing!(すばらしい!)』
「ふん。どうして人ごみなんぞに行きたがるのか。理解に苦しむね」
そんなお祭り騒ぎの真ん中に冷や水を浴びせるように、薄暗い部屋の奥から冷徹な声が響いた。
お気に入りの安楽椅子に深く腰掛けたアリス・リデルが、冷めかけた紅茶を口にしながら、灰緑と紫のオッドアイを退屈そうに細めている。黒のゴシックドレスの裾を整えながら、彼女は厭世的なため息を深くついた。
白はそんなヴォーパルバニーのいつもの賑やかな日常を愛おしそうに見つめながら、パチンと懐中時計を閉じて穏やかに微笑んだ。
「はい、明日からは賑やかになりそうですね。それでは王女殿下、リデル殿、私も明日の支度がありますので、今夜はこれで。また明日、現地でお会いしましょう」
白は再び丁寧にカーテシーを捧げると、夜のランベス区の闇へと静かにアジトを後にした。
「よーし! 明日からはいよいよ万博よ! 先生の包帯巻きから解放された、私のワンダーランドの始まりよーーーっ!」
じゃじゃ馬王女の歓声が煤けた煉瓦の部屋に響き渡る。
その横でリデルだけが、絶対に自分は動かないという強い意志を瞳に宿らせ、冷えたカップをソーサーへと戻すのだった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
さて、前ページの不穏な始まりから一転、ランベス区のアジトでのアリス王女たちのやり取りです。
物語はいよいよ、ロンドン万博へとフォーカスします。
ロンドン万博は1851年にヴィクトリア女王の王配であるアルバート公により第1回が行われました。
当初は10年周期で開催が計画されたのですが、結局は1862年の開催を最後に、ロンドンでの博覧会は終了し、その後はフランスのパリ万博のほうが主流となっていきました。
本作では、時系列はもう気にしない方向で、「19世紀ロンドン」という大きな枠組みの中にすべてを詰め込むことにしました。
ええ、しましたとも!(ヤケクソ)
そんなわけで、第1回の眼玉だったはずのクリスタルパレスに、第2回に展示されたオールコック卿の展示物などが混ざったりしますが、お気になさらず、ホホホ。
どうぞお楽しみに! 評価やブクマ、感想などもいただけると嬉しいです。ピーターが『G.J.』と褒めてくれるかもしれません。




