『英国王女のオ・モ・テ・ナ・シ♡臓物パイとはヒトデナシ(うぶぅおえぇ)』
9月30日の深夜に起きた、あの『ダブル・イベント(第3・第4の連続急襲)』の衝撃から、ロンドンのカレンダーは不気味な静寂のなかで10月へとシフトしていた。
ロンドン市民もスコットランドヤードも、環境をハッキングされた特務機関も。「次はいつ、誰が襲撃されるか分からない」という、喉がカラカラになるほどの張り詰めた緊張感のなかで日々を過ごしている。
ランベス区の極秘アジトの作戦机には、白が現場から持ち帰った「子宮」と「左の腎臓」の欠損データが重々しく並べられ、アリス・リデルと稲葉白、2つの頭脳が連日プロファイリングを続けていた。
だが、その重苦しい知性の歯車を、金髪のプリンセスが無邪気なハリケーンよろしく一瞬で粉砕する。
「みんなー! 連日の張り詰めた推理でお疲れ気味の脳細胞のために、私がとっておきのイギリス伝統のスタミナおやつを焼いてきたわよっ!」
ふんす! とない胸を張り、アリス王女が作戦机のパズルの真ん中へとドン! と置いたのは、独特の濃厚な肉汁の匂いを放つ、焼き立ての『キドニー(腎臓)パイ』。
「ほら、ピーちゃん(ピーター)も連日お疲れ様! たーんと召し上がれ! ……はれ? ピーちゃん? ピーちゃん!?」
アリス王女がツイードの鹿撃ち帽を抑えながら、すぐ横の椅子にいた巨大なウサギの着ぐるみの顔をペシペシと叩く。
だが、つい一秒前までこっくりこっくりと船を漕いでいたはずの大きなウサギは、突如として襲来した最凶の手料理(不条理)を前にして、着ぐるみの内側で魂を完全シャットダウン(現実逃避の思考停止)させてしまっていた。ピクリとも動かない。
こうなっては、ただの巨大なぬいぐるみだ。
「……アリスくん。自分で言うのもなんですが、この特務機関が誇る凄腕の機械工も、あなたの手料理を前にして完全に『防衛モード(自己フリーズ)』へ移行してしまいましたよ。いけませんね」
手もとの膨大な資料から目を離した白は、眉間に指を添えてもみほぐす。
彼女の印象的な赤い瞳は、死んだ魚のようだった。
「それに、よりによってキドニーパイですか。私、このパイ嫌いになりそうですね。私の医学的な倫理回路が、今まさにテーブルの上の『左の腎臓』のデータと目の前のパイの形状で深刻なエラーを起こしているのですよ。あなたには人の心というパーツが最初から実装されていないのですか?」
「 白が……白が嫌がるというのなら……。わ、妾が……妾がその最凶の残飯の生贄となるのじゃ。妾が覚悟、刮目して見るのじゃうぶぅおえぇ」
「輝夜様。食べる前からあなたの胃袋のほうが先に深刻なエラーを起こして壊れているではないですか。およそ乙女が出してはいけない声まで出して。アリスくん、至急この患者をソファーへ搬送しなさい」
「んもう! 皆して私の料理を拒絶するんだからー!! いいもん、一人で食べるから!」
「……英国人の食文化のセンス、私にはついていけませんね。国に帰ったら、これだけは強く言及することにします」
「あんなのと一緒にしないで欲しいわね」
「……貴女は紅茶とスコーンがあれば満足でしょうけれど。自分が言うのもなんですが、偏食は健康に害を及ぼしますよ」
「そんな健康問題よりも、こちらの資料のヤマ(殺人事件)のほうが問題だよ。ほら、白先生。手が止まってる」
「さすがにもう見たくないのですがねぇ」
カタカタカタカタカタカタッ!!!
その瞬間、作戦机の隅に鎮座していた真鍮製の大型電信機が、文字通り悲鳴を上げるような勢いで不気味な駆動音を響かせ、細長い紙テープを爆速で吐き出し始めた。
カチャン、とかすかな陶器の音を響かせ、アーちゃんは冷めた紅茶をソーサーに戻すと、吐き出されたばかりの暗号紙テープを小さな手できつく握り締めた。オッドアイをギラリと細めて不敵に笑う。
「ヤードの連中がまたやらかしている。10月に入っても相変わらず、切り裂きジャックに振り回されているみたいだね」
アリス・リデルは、一ヶ月前のあの夜にピーターが必死に模写してきた『ゴールストン・ストリートの落書きのスケッチ』を資料のヤマの真ん中へ広げた。
「ヤードの無能どもはあのチョーク文字をただの嫌がらせだと思って消去したけれど、違う。あれはガル卿が治安網を乗っ取るために壁に焼き付けた真鍮の『駆動回路図』だと思われます。だけど……いけませんね。この最新の暗号ノイズと1ヶ月前の回路図、パーツの噛み合わせの終着点が、私のプログラミング(脳細胞)を以てしてもあと一歩、ノイズの霧に隠れて見えてこない」
東国の天才医師である白でさえ、複雑に絡み合う真鍮パズルを前に眉間に指を添えて沈黙する。二人の天才の知性が完全に膠着した、まさにその時だった。
アリス王女のキドニーパイの前にぬいぐるみのように完全停止していた、あの巨大なウサギの着ぐるみが、ガサリと不気味に駆動を再開した。
ちょんちょん。
ピーターが白の裾を引っ張る。
「ん? なんですかな? ピーター殿。――ああ、このメモを見たいのですね。どうぞ。機械工の視点から、何か判ると期待しますよ」
白が席を譲ると、ピーターは着ぐるみのもふもふした一本の【赤インク鉛筆】を手に取り、スケッチの空隙へと、おもむろにそのペンをサラサラサラっと滑らせた。
サラサラ、サラサラ、サラッ!!!
文字のハネの歪み……ヤードの電信を逆流させる、真鍮シリンダーの『排気弁』の位置。行間の空隙……ガル卿のギヤの『噛み合わせ(ピッチ)』の不規則な数理。
ピーターが赤鉛筆を引き抜いた瞬間、二人が見落としていた一ヶ月前の落書きの死角が一本の鮮血のような赤線でカチリと繋がり――ただの歪な文字列に過ぎなかったそのスケッチが、大英帝国の治安網を裏から支配する、冷徹極まりない【真鍮のハッキング回路図】として完璧な形を成した。
その赤く染まった最悪の回路図の全貌をランタンの光で覗き込み、白はかつてないほどそのルビーの双眸を冷酷に鋭く尖らせた。
「……これはいけませんね。最悪の回路図の案と、そこから推理されるオートマタの最終形態の恐るべき性能だけは、これで完全に判りました」
白はシパシパする赤い目をきつく引き締め、冷酷な宣告をアジトの作戦机へと静かに落とした。
「ですが……それがいつ、どこで、誰を対象に使われるかは、未だ1インチも判りません」
机の反対側に座る安楽椅子探偵もまた、赤ペンが引かれた紙切れをきつく握り締め、悔しげに不敵な声を低めた。
『ああ。現時点ではここが限界だね。……奴の次の駆動(襲撃)がいつ起きるか分からない緊張感のなかで、僕たちはこのロンドンの闇を這い回ることになる。……次の惨劇の火蓋が切られる前に、至急この怪物のプロファイルを解剖するよ』
第25話をお読みいただき、ありがとうございました!
切り裂きジャック事件、第3、第4の事件(9月29日~30日)のあと、第5の事件が発生するのは11月9日と、1か月以上の空白がありました。
その間に、ゴールストン・ストリートの落書きについてアリス・リデルと白とが頭を悩ませる描写を入れることにしました。
が、その前につい、悪戯心が……。
第1章の最後、スターゲイジーパイを出しましたが、あの時、実はもう一つの案がありまして、それがキドニーパイ。
結局、見た目のインパクトから、あの時はスターゲイジーパイが選ばれたのですが、その時に選択しなかったキドニーパイをここで投入!
「人の心とかないんか?」と自問自答しながら出しました。
ええ、人の心がないとすれば、それはきっと僕です。
ともあれ、次回はついに第5の殺人事件についてのお話となります。
どうぞお楽しみに!
評価やブクマ、感想などもいただけると、アリス王女が貴女のためにキドニーパイを焼いてくれるかもしれません。
――飛ぶぜ。




