『1シリング?1ギニー?それともアーちゃん?いいえ、ピーちゃんはヤードの1ダースより有能です!』
「いますぐ命令を取り下げてください! もしかしたらこれが有力な手掛かりになるかもしれないですぞ!」
深夜のゴールストン・ストリート108番から119番地、『ウェントワース・モデル・ドウェルズ』――通称、モデル住宅の前 。
10月を目前に控えた冷たい夜霧がどんよりと垂れ込める長屋の細い路地裏に、激務と絶望で顔を青白くさせたアバーライン警部補の、魂の底からの怒号が激しく響き渡った 。
だが、そのプロの刑事としての必死の進言は、ヤードの無能な上層部の壁によって無慈悲に跳ね返される。
「アバーラインの旦那、そうは言ってもチャールズ・ウォーレン警視総監の直接の命令だ。夜が明けてスラムのユダヤ人どもがこのチョーク文字を見て暴動でも起こしたら、それこそヤードは全員クビが飛んじまう。写真を待つ時間なんて1インチもありゃしないのさ」
ヤードの職人の親方が不敵に鼻を鳴らし、水をなみなみと湛えたバケツへと、大きなブラシをバシャリと浸した。
「おい、お前ら! 構わん、夜が明ける前にさっさと水をぶっかけて壁の落書きを洗い流せ! スクラップ(消去)だ!」
あばー……」
アリス王女は、半分夢の中。
モノマネ鳥を買ってやるから、そのまま静かに寝てて欲しい。そんなお転婆プリンセスの愛らしい限界(睡魔)を他所に、隣に並び立つ東国の天才医師のルビーの双眸が、鋭く冷酷にパチリと点火した。
「ふむ。これはいけませんね! 急いで書き写さねば! 輝夜様、ランタンをこちらに!」
白は寝不足のクマをシパシパと瞬かせながらも、職人のブラシが迫る長屋の暗い煉瓦壁へと向かって、爆速でペンを滑らせるための指先を剥き出しにした。
そんな現場の混乱の中、ドイルは落ち着いた様子で周囲を見回す。その仕草はまさに、彼の創作に登場する探偵のようでもある。
普段であれば、気にも留めなかったはずの浮浪児。
だが、先刻のアリス王女の「urchin(浮浪児)」という単語が引っかかっていたのだろう、いやに目についた。
ドイルが掲げるランタンのオレンジ色の灯火が、ヤードの警邏や職人たちの足元――冷たい石畳の暗がりに、ボロ布を纏って小さくうずくまっている『一人の浮浪児』の影を静かに捉えた。
職人の大きなブラシがバシャリと煉瓦壁に叩きつけられ、チョークの文字がドロリと水に滲んで消去されようとする、まさにその極限のタイムリミットの刹那。その浮浪児(泥を塗って変装したピーター)は、ヤードの死角で息を潜めながら、くしゃくしゃの紙切れに炭の芯をハッキングのごとき最高速で走らせ、壁の【ハネや行間】を1インチの狂いもなくサラサラと『完全模写』していたのである。
バシャアァァーーーッ!!!
ヤードの職人たちが容赦なくバケツの水を浴びせ、大きなブラシで煉瓦壁をガシガシと擦り洗い始める。ジャックが書き残したという不気味なチョークの文字列は、アバーライン警部補の悲痛な抵抗も虚しく、ドロドロとした白い濁水となって跡形もなく路地の石畳へとスクラップ(消去)されていった 。
ヤードの連中がパニック防止の『証拠隠滅』にホッとして撤収の準備を始めるなか、ボロ布を纏った浮浪児は、完全に写し取った完全模写の紙切れを小さな手の中に握り締め、夜霧の路地裏へとぬるりと後退しようとした。
だが、その浮浪児の背後に、オレンジ色のランタンの灯火がそっと近づく。
「君、そこの君。そのスケッチをどうか私に譲って貰えないだろうか? タダとは言わん。そうだな、1シリング――いや、1ギニーでどうだろう?」
コナン・ドイルは冷たい石畳の上にかがみ込み、大物文豪の皮を剥ぎ取った『一人の捜査者』としての最大級の敬意を目に宿しながら、ボロ布の少女へとそっと美しい金貨を差し出した。
最初はただの日当(1シリング)のつもりだった。だが、彼女の小さな手の中にあるその手書きの線のあまりの精緻さ、そして職人のブラシが迫る極限のタイムリミットから『最高の成果物』を完璧に盗み取ってみせたプロの凄腕を前にして、ドイルのなかの紳士倫理が電撃的に告げたのだ――この決定的な大功績には、成功報酬として【1ギニー】の重みを支払うべきである、と。
ボロ布のフードの奥で、泥にまみれた浮浪児は1マイルの無駄口も叩かなかった。ただ、すぐ後ろの物陰から「……おやおや、優秀なウサギには過分なボーナスですね。受け取りなさい」と、寝不足のクマ顔をシパシパと瞬かせた白が静かに首肯するのを確かめる。
ピーターは無言でコクリと頷くと、完全模写の紙切れをドイルへと手渡し、代わりに差し出された眩い1ギニー金貨を小さな指先でカチリと掴んだ。そして、次の瞬間には、夜霧のホワイトチャペルの闇の奥へと音もなく消え去っていた。
「ヤードを1ダース集めるよりも有能じゃないか。……ヤードの目の届かないスラムの闇を這い回る、名もなき臨時の少年工作員。ふむ、淑女のあの可愛い聞き間違い(アーちゃん=urchin)から始まったパズルだが……。これは、最高に素晴らしい物語の歯車になりそうだ」
ドイルは手に入れたクシャクシャの紙切れをランタンの光で愛おしそうに見つめながら、立派な口髭の奥で、のちの歴史をハッキングする至高の着想をボソリと呟いた。だが、そのスケッチの『文字のハネ、行間の空隙』にランタンを近づけた白は、かつてないほどそのルビーの双眸を冷酷に鋭く尖らせた。
「……ドイル先生。おめでたい着想のところ恐縮ですが、これはいけませんね。この文字の崩し方、破線の位置……。ただの嫌がらせの文字などではありませんよ。犯人がこの第3・第4の実験結果をその場で即興でメモした――真鍮の『駆動回路図』そのものです」
第27話をお読みいただきありがとうございました!
深夜のゴールストン・ストリート108〜119番地、ウェントワース・モデル住宅の前で繰り広げられた、ヤードの職人のブラシ(証拠隠滅)と特務機関の爆速タイムリミット工作!
26話の後書きでも書きましたが、当初は一度アジトに戻って捜査資料を読み漁っているところに、ゴールストン・ストリートの落書きが見つかる、という流れにしようと思っていたのですが。
時系列を再確認すると、第3、第4の事件があった直後に落書きが発見され、そしてすぐに消されようとしている、というあまりにあんまりな流れ。
ですので、本来予定していた26話を変更して差し込み、さらにこの27話に繋げていきました。
26話では、安楽椅子探偵のアリス・リデルからの電信をコナン・ドイルに伝える際、「アーちゃん」と素で伝えてしまいます。
ドイルはアリス・リデルとは面識がないため、「アーちゃん」が意味するところが分からず、「urchin」と聞き間違える、というジョークを挟んだつもりでした。
ところがこの「urchin」。意味は「浮浪児やいたずら者」。
そこで、着ぐるみを脱いだピーターの姿が連想されました。
さらにはそれをきっかけにベイカーストリート・イレギュラーズの着想を得る、という、史実をハックする流れに。
偶然の産物でしたが自分でも驚きました。
ここでピーターに与えた報酬額は、そのまんまベイカーストリート・イレギュラーズに対する日当(1シリング)と、成功報酬額(1ギニー)となっています。
さて、ここから再び、ランベス区にあるアジトへと帰ってきます。
どうぞお楽しみに! ブクマや評価、感想などもいただけると、ピーターが枕元で落書きをしていくかもしれません。




