『お忍び王女の現場特攻三たび!? 濃霧に浮かぶ、スピタルフィールズの怪奇』
兄、アルバート・ヴィクター王子の無実を晴らそうと奔走するアリス王女。だが、その努力とは裏腹に、世論は彼の容疑を信じて疑わない論調へと過熱していく。
ヤードに行っても、アバーラインからは胃を押さえながら困った顔で応対される始末。
「どうもおかしい。青いのが関わっているから、ヤードの中で陰謀論が噂されるのは分かる。だが、市井(新聞)への反応が異様に速い。新聞はヤードの無能を叩いているが、まるで『ヤードの裏に高貴な隠蔽工作がある』と市民に気付かせようと、不自然なほどに世論を誘導している……」
ランベス区の煉瓦造りのアジト。
アーちゃんことアリス・リデルは、広げた新聞を睨みつけながら、紫と緑のオッドアイを冷たく細めて不審な情報源へと意識を向けていた。
――ザッ、ザザッ。
アジトの静寂を切り裂き、ヤードから直に引き込んだ暗号電信機が不気味なノイズを吐き出し始める。
着ぐるみのウサギがレシーバーに耳を当て、モフモフの手でペンを走らせ、モールス信号を速記していく。
そして、ひと通り書き終えたメモをアリス・リデルへと手渡した。
「……始まったね。ホワイトチャペルのハンベリー・ストリート29番地――第二のパズル、アニー・チャップマンの夜だ」
◇
「号外! 号外! ハンベリー・ストリートでまたしても時計仕掛けの猟奇殺人! 犯人の手がかりすら掴めないヤードは無能か!? あるいは、公にできない『高貴な真犯人』を極秘裏に隠蔽しているのではないか――!?」
午前六時を回ったばかりのホワイトチャペルの街角。
昇ったばかりの朝陽が夜霧を薄桃色に染めるなか、泥にまみれた新聞売りの少年たちが、刷り上がったばかりの号外を高く掲げて悲鳴のように叫び回っていた。
その喧騒のなか、アリス王女が現場へ向かって急行しているまさにその瞬間。
誰の目にも――それこそ、お転婆なアリス王女の澄んだ青い瞳にすら、その姿は映っていなかった。
ベイカーストリート・イレギュラーズさながらのボロ着に身を包んだ少女が、アリス王女より数分早く、すでにその街角の雑踏に溶け込んでいた。
新聞売りの少年が号外をばら撒くその瞬間、少女は風のようにすれ違いざま、少年の脇から号外の紙切れを一枚、音もなくスリ盗る。
そして、そのまま気配を完全に消去したままアリス王女の背後へと回り込み、王女のインバネスコートのポケットへ、その掠め取ったばかりの号外を音もなく滑り込ませた。
「――ほえ? なにか今、ポケットに……?」
アリス王女が足を止め、ポケットからくしゃくしゃの号外を取り出す。そこに踊るヤードの隠蔽を糾弾する文字。
「……本当だわ。アーちゃんの言う通り、いくらなんでもニュースになるのが速すぎるわね」
アリス王女は号外を青い瞳で睨みつけながら、ふんす、と鼻を鳴らす。
紙面には、ヤードの無能を糾弾する文字と共に、【事件の解説者としてコメントを寄せている、あの今をときめく売れっ子作家コナン・ドイルの、立派な口髭を蓄えた著者近影の挿絵イラスト】がデカデカと掲載されていた。
自分が気付かないうちに少女が最高の証拠をトスしてくれたことにも気づかないまま、お転婆王女は現場へと突き進む。
一方、その王女の影から、東国から来た天才医師・稲葉白だけがルビーの瞳をわずかに動かし、ボロ着の少女が路地裏の闇へと音もなく消えていく姿を明確に捉えていた。
(――おやおや。相変わらずあのお嬢さんの手際は、東国の忍びも裸足で逃げ出す美しさですね)
天才美少女の無言の称賛が、朝の光の向こうに消えていく少女へと向けられる。
◇
そんな朝の喧騒を突き抜け、たどり着いたスピタルフィールズのハンベリー・ストリート29番地。
薄暗い長屋の細い木造の廊下を通り抜けると――そこは、朝の光すら届かない、四方を黒ずんだ煉瓦壁に切り取られた狭い裏庭だった。
すでに現場の周囲は黒山の人だかりとなっており、地元の警官たちが必死に規制線を張って野次馬を押し返している。
その最前線。
徹夜明けで顔を真っ青に引き攣らせたアバーライン警部補は、今度こそ、世論のバッシングと王室陰謀論の恐怖で本気で自分の『胃』を雑巾のようにギリギリと押さえつけていた
「ア、アバーライン『警部』! おはようございまーす! 朝一番の特コウ(特攻)に駆けつけてあげましたわよ!」
朝の濃霧を割ってこれでもかと金髪を輝かせ、満面の眩しい笑顔で突撃してきたアリス王女の姿を見た瞬間、アバーラインは天を仰いで絶句した。
「げぇっ……!? まだ警部じゃなく警部補……。いやそれ以前に、なぜ朝一番からまたあの正体不明のお嬢様(怪異)が……うぐっ!」
「おやおや、アバーライン警部補殿。頭痛の次は本格的な胃痛ですか。いけませんね。大英帝国の有能な刑事の胃壁が、夜明けの号外で穴だらけになってしまうところでした」
アリス王女の後ろから、白衣のポケットに手を突っ込んでちんまりと入ってきた稲葉白先生が、パカッと銀の懐中時計を開く。ルビーのような赤い瞳をおかしそうに細め、不敵な微笑を浮かべた。
「時に、我が東国には、有能な胃薬がありますが、調合いたしましょうかな?」
「け、結構だ……! 異国の怪しい生薬など飲んだら、胃が溶ける前にヤードの威信が溶けてしまう……っ!」
アバーラインは青ざめた顔で全力で拒絶し、さらに深く胃を押さえ込んだ。
「そうですか、残念。この薬があれば、かの大国オロシアさえも征するといわれるほどの薬なんですけどねぇ」
白は実におかしそうにルビーの瞳を輝かせると、仕立ての良い白衣の裾を小さく指先で摘まみ、そっと淑女の礼を取った。
そして、裾をすっと綺麗に下ろすと、今度はパカッと銀の懐中時計を開いて一目だけ時刻を確認し、何事もなかったかのように流麗な足取りで、彼女は裏庭の奥――凄惨な現場へと歩みを進めていく。
そんな二人の後姿を、アバーラインは睡眠不足で疲れた目で見送る。
そしてそっと溜息を吐き、懐に大切に仕舞い込んでいるアリス王女から手渡された隠蔽指令の勅令を指でなぞる。それが、お転婆王女の偽勅だとは気付かないまま。
◇
石畳の隙間からは雑草が生い茂り、煤煙が混ざり合った粘り気のある朝霧が低く立ち込めている狭い裏庭。その赤黒い煉瓦の壁に寄りかかるようにして、第二の被害者、アニー・チャップマンの遺体が横たわっていた。
(――チチチチチチチ、チクタク、チクタク……!)
第一の事件のときよりも、明らかに駆動音のピッチが速い。
無残に開かれたその下腹部の奥に埋め込まれているのは、鈍い真鍮の光を放つ、複雑怪奇に噛み合った『二連式の時計仕掛け回路』だった。
白衣の裾をドレスのように小さく摘まみ、完璧な白衣カーテシーを決めた後、稲葉白はそのジメジメとした石畳へとためらいなく膝をついた。
「――ふむ。やはりおかしいですね。ただ大動脈の脈動を吸うだけだった最初の回路とは、構造の次元が違います。この回路は、被害者が絶命する瞬間の『恐怖の心音』をゼンマイの回転エネルギーに変換して記憶する、最悪な学習機能を搭載し始めていますよ」
ヤードの警察医たちが白先生の天才的な看破に恐怖している、まさにその時。
「――このような猟奇的な殺人現場に、麗しい令嬢がたがいるとは、ここは危ない。安全な場所に行きなさい」
突如、朝の濃霧の奥から、低くよく響く男の声が掛けられた。
驚いて全員が振り返ったそこには、朝の澄んだ光を背に受けて、ぬっと現れた一人の大柄な紳士が立っていたのである。
第18話をお読みいただきありがとうございました!
ついに第二の事件「アニー・チャップマンの朝」が開幕いたしました。
今回のこだわり裏話なのですが、実は切り裂きジャック事件の「王室陰謀論」って、史実では戦後(20世紀後半)になってから大々的に唱えられたものなんですね。
当時のリアルタイムの新聞は、王室への疑惑ではなく「ヤードの無能さ」を徹底的に糾弾する論調ばかりでした。なので本作でもその史実のリアリティを120%活かし、新聞のヤード叩きのせいでアバーライン警部補の胃壁が朝から消滅しかけるという、極上のボタンの掛け違いコメディへと昇華させてみました(笑)
現場で白先生が見抜いた『二連式時計仕掛け回路』の恐怖。そんな緊迫感のなか、朝の濃霧の奥から現れた大柄な紳士の正体とは……!?
次回第19話、ついにあの「超大物レジェンド文豪」が、アリスのインバネスコート(コスプレ)と白先生のドSな医学論理の前に盛大にタジタジになる大激突回です!
どうぞお楽しみに! ブクマや評価、感想などもいただけると、人間の姿の少女が夜霧に紛れて次なるハッキングデータをスリ盗ってきてくれるかもしれません!




