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『お忍び王女の現場特攻再び! 偽の勅書と真鍮の鼓動』

 午前三時を回ったばかりの深夜。

 日の沈まぬ大英帝国の最も深い闇を抱える街、ホワイトチャペルのバックズ・ローは、異様な喧騒に包まれていた。


「おい、松明をもっと近づけろ! 霧が濃くて足元も見えやしない!」


「警察医(ドクター)はまだか! 早くしろ!」


 ベスナル・グリーン配属の地元警官たちが、煤煙の混ざった黄色い夜霧を払うようにして慌ただしく走り回っている。


 その規制線の内側。ヤード本部から派遣されてきたばかりのフレデリック・アバーライン警部補は、石畳に横たわるメアリー・アン・ニコルズの遺体を前に、ズキズキと痛むこめかみを親指でギリギリと押さえていた。


「……なんだこれは。人間を時計にでもするつもりか」


 刑事としての鋭い目が捉えていたのは、単なる猟奇殺人の枠に収まるものではなかった。

 被害者の胸部は、解剖学的にあまりにも正確に切り開かれている。


 だが、真にアバーラインの胃を雑巾のように絞り上げたのは、その開かれた胸の奥に、鈍い光を放つ真鍮製の重厚な『歯車ガジェット』が埋め込まれている異常事態だった。


(チキチキ、チキチキ……)


「ひぃっ、悪魔の呪いだ!」


 ヤードの警察医が頭を抱えて恐慌状態に陥るなか、冷たい金属が噛み合う不気味な駆動音が、夜霧の静寂に響いている。


アバーラインの刑事の勘は告げていた。この狂気は、先の地下鉄工事爆破事件の裏にあった、近代科学の闇(メカニックの狂気)の系譜であると。


「おい、この機械(ギミック)のことはまだ本部に伝えるな。新聞(スター紙)の耳に入ったらロンドン中がパニックに――」


 アバーラインが部下に指示を飛ばそうとした、その時だった。


「あっ、お久しぶりですアバーライン警部!! 噂では、遣り手の刑事さんだって聞いてますよ、このこのこのぉ!」


 夜霧を割って不自然に豪華な外套を翻し、悪びれもしない眩しい笑顔でその少女が乱入してきた。


「……な、なぜ私の名前を!? いや、私はまだ警部補なのだが……って、君はいつぞやの……!? なぜこんな夜明け前のホワイトチャペルにいるのです!」


 自分の名前はおろか階級まで把握されている(微妙に間違えているが)恐怖と、先の爆破事件の悪夢の再来。

 昇進早々にして襲いかかる強烈な頭痛に、アバーラインはズキズキと痛むこめかみを親指でギリギリと押さえた。

 名前も正体も分からない「怪異」のようなお嬢様を前に、ヤードの刑事のプライドが悲鳴を上げる。


「ヤードの皆様がこの不思議な事件に頭を悩ませていると聞いて、私、じっとしていられなくて! だから――はい、これ! 女王陛下の特別勅命よ。我が《ヴォーパル・バニー》が誇る最高の天才医師を、臨時の最高検屍顧問としてお連れして差し上げました!」


「じょ、女王陛下からの特別勅命ゥ!? なんでそんなものを、君のような小むす――ゲフン、お嬢様がお持ちですかな? 偽物だとしたら、とんだ不敬となりますよ?」


 アリスから受け取った紙切れを、アバーラインは眼を近づけて見た後、今度はググッと離して、しげしげと眺めた。

 バッとアリスが差し出してきたのは、ピカピカの羊皮紙に仰々しい飾り文字が踊る書類だった。もちろん、昨日彼女が自室の机で、鼻歌交じりに万年筆ででっち上げただけの完全なる偽造品である。


「……ふむ。文字のインクがやけに新しく、おまけに宛名がスコットランドヤードではなく私個人になっているのが酷く不可解ですが……」


「失礼ねー。ちゃんと自分で書い――じゃなくて! 本物よ、本物! ほら、そこにちゃんと《ヴォーパル・バニー》って書いてあるでしょう?」


 アリスはふんす、と鼻を鳴らして誇らしげに胸を張る。


「細かいことはいいのよ! さあ、私の連れてきた臨時の最高検屍顧問を紹介するわ。東国からいらっしゃった、稲葉白先生よ!」


 アリスが外套をバッと翻して背後を指差すと、そこには見慣れない東洋の白衣をまとった、白髪赤瞳のちんまりとした美少女が佇んでいた。


「――ふむ。ヤードの検屍は随分と視力(フィジカル)に頼る傾向があるようですね。いけませんね。貴重な歯車の噛み合わせデータが、夜霧で錆びてしまうところでした」


 カチャリ、と白は白衣のポケットから上質な銀の懐中時計を取り出し、パカッと蓋を開いた。


 ルビーのような赤い瞳でアバーラインを冷徹に見据え、不敵な微笑を浮かべる。

 白は仕立ての良い白衣の裾を小さく指先で摘まむと、ちんまりとした体をさらに沈め、流麗な動作で完璧なカーテシーを披露した。


「我が東国使節団が最大の敬意を払うべき盟主――偉大なる大英帝国の警部補殿。臨時の最高検屍顧問、稲葉白です。おやおや、そんなにこめかみを押さえて……そのお気の毒な頭痛(ブレイン・トラブル)も一緒に解剖して差し上げましょうか? それとも、胃痛のほうがよろしいですか? ――あるいは、寝不足解消?」


「ひ、東国の美少女医師……!? 駄目だ、頭痛の次は本格的に目眩がしてきた……!」


 アバーラインが今度こそ完全にこめかみを押さえて悶絶する。

 ヤードの警官たちも、アリス王女の偽勅と東国の美少女医師の登場に完全に引っ掻き回され、現場の統制はガタガタになっていた。


 その大混乱の最中。

 誰の目にも――それこそ、お転婆なアリス王女の青い瞳にすら、現場に滑り込んできた「一人の泥まみれの、浮浪児のような格好をした少女」の姿は映っていなかった。


 ベイカーストリート・イレギュラーズさながらのボロ着に身を包んだ少女は、声を出さず、夜霧の濃淡に溶けるようにして石畳を這い、遺体の足元へと音もなく近寄る。

 社会的にも物理的にも気配を完全に消去する、ストリートの支配者としての神業(ステルス)。


(チ、チ、チ、チ……)


 その少女は、まるで高度な訓練を受けた専門の機械工のように慣れた手付きで、煤と油に汚れた、しかし驚くほど繊細でしなやかな指先を動かした。

 ヤードの誰も気づかない一瞬の隙に、遺体の衣服に付着した「特殊な機械油の染み」と「削り屑」を素早く掠め取り、ボロ着のポケットへと滑り込ませた。


 だが、その泥臭くも完璧な隠密捜査を、ただ一人、じっと見つめている赤い瞳があった。


 遺体の前にしゃがみ込んだ臨時の最高検屍顧問――稲葉白である。

 白はルビーのような瞳をわずかに動かし、誰も気づいていないその泥まみれの美少女の姿を明確に捉えていた。

 そして、その少女から漂う仄かな機械油の匂いと、アジトにいたあの『巨大なウサギ』の気配を爆速で脳内でマッチングさせる。


(――おやおや。あのでっかいウサギの中身は、随分とすばしっこい東国の忍(しのび)のような、愛らしいお嬢さんですか)


 白は誰にも気づかれないほどの小さな微笑を唇の端に浮かべ、ピーターの正体をヤードに告発することなく、そのままスッと遺体の胸へと視線を戻した。

 天才美少女は、天才美少女を知る。極上の秘密が夜霧の中で共有された瞬間だった。


「――ふむ。ヤードの警察医がオカルトだとパニックになるのも無理はありません。ですが、やはりおかしいですね」


 白はためらいなく、遺体の胸部で「チクタク」と駆動を続ける真鍮の歯車へと白い指先を伸ばした――。


 天才医師の細くしなやかな指先が、生身の組織と冷たい金属が融け合う『異常な境界線』へと触れる。


(これは、もしや――!?)


 その瞬間、白のルビーのような赤い瞳が驚愕に大きく見開かれ、夜霧のなかで妖しく跳ね上がった。


 激しさを増す真鍮の鼓動。ヤードの警官たちが息を呑み、アバーラインがこめかみを押さえて凝視するなか、東国の美少女医師の脳裏には、すでにジャックが仕掛けた『最初のパズル』の驚愕の正体が弾け出していたのである。

 第16話をお読みいただきありがとうございました!ついに第二部「切り裂きジャック編」が本格的に開幕いたしました。


 ここだけの裏話なのですが……。アリスがでっち上げた偽の勅書が、まさかあんな事態を引き起こすとは、作者自身も見通しが出来ておらず。

 物語を書き進めていくうちにとんでもない流れに進んでいて、冷や汗を垂らしながら書いているところです(笑)

 キャラクターたちが勝手に動き出してプロットをハッキングしていくライブ感、本当にハラハラします。

 現場で白先生が(これは、もしや――!?)と戦慄した真鍮の歯車の正体とは?そして、アリスのあの紙切れが、一体ヤードの側でどんな大化けをしてしまうのか……!?


 次回第17話、ランベスのアジトでの作戦会議(答え合わせ)も、どうぞお楽しみに!


 評価やブクマ、感想などもいただけると執筆の凄まじい動力源(ゼンマイ)になります!

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