『霧の街の猟奇殺人。――いいえ、これは世紀の怪奇(ワンダーランド)よ!』
ホワイトチャペル――。
《日の沈まぬ国》と形容されるこの大英帝国とは言え、日の当たる場所はごく限られる。そして、そうでない場所というのは、どこか薄暗い影が差す。
ホワイトチャペル区は、そんな影の中でも最も闇の深い一角であった。
夏も終わりに近い深夜。
粘り気のある黄色い夜霧が、迷路のようなホワイトチャペルの路地裏をじっとりと覆い尽くしていく。
前を歩く者の背中すら見失いそうなその濃霧のなか、一人の女が、迷路のように複雑に入り組むホワイトチャペル区の裏通り、バックス・ローへと差し掛かろうとしていた。
女の名はメアリー・アン・ニコルズ。――仲間内からはポリーと呼ばれている。
夫と別れて7年。
別れた当初は、元夫から毎週5シリングの送金が届いていた。
だがそれも、彼女が生きるために春を鬻いでいることがバレてからは、ぷっつりと途絶えてしまった。
以来、救貧院や不潔な下宿屋を転々とする日々。
半年前には幸運にも、ワンズワースで召使の仕事が見つかった。だが、現実は幸運などとは程遠かった。雇い主は偏執的なまでの絶対禁酒主義。重度のアルコール依存症であるポリーにとっては、その豪奢な屋敷こそが生き地獄そのものだったのだ。
結局、酒欲しさに雇い主の衣服を盗んで逃げ出し、またこの泥濘の街へと戻ってきた。
43歳になる彼女は、今夜のねぐら代であるわずか4ペニーの小銭すら稼げず、冷え始めた身体を抱えてバックズ・ローへと底のすり減った靴を沈めていた。
入手したばかりのボンネットを深く被り、精一杯の若作りをしつつ、酩酊する濁った眼は最後の客を求めていた。
「ハァ……、あのお高くとまった禁酒野郎の顔を思い出すだけで、喉が焼け付きそうだ。今夜はとんだ厄日だね。どいつもこいつもケチくさいったらありゃしない」
悪態をつきながら、今夜最後の客を求めて霧の奥へと目を凝らす。
僅かな稼ぎも、結局は酒精を求めることに使ってしまった。つい先刻、パブを出た後に出会った同居人――元、だが――のエミリー・ホランドには、「宿代3日分は稼いだ」などと見栄を張ったがとんでもない。
現実は、たった4ペニーの小銭すらないのだ。
見栄を張った後の虚しさと、夜霧の冷たさに小さく身震いする。
だが、スラムの喧騒はいつの間にか嘘のように遠のき、周囲には耳が痛くなるほどの不気味な静寂が染み出してきていた。
その時だった。
「チ、チ、チ、チ……」
「カチ、ガチ……」
霧の向こうから響いてきたのは、馬車の車輪の音でも、酔っ払いの足音でもなかった。
それは、紳士たちが胸ポケットに忍ばせる高級な懐中時計のゼンマイが、狂ったような速度で高速駆動しているかのような――冷たい真鍮の摩擦音。
「だ、誰……? からかうのはおよしよ」
ポリーが震える声を絞り出した瞬間、夜霧を割って、人間離れした鋭い機械の駆動音とともに漆黒のシルエットが音もなく急接近してきた――。
反射的に身を強張らせたポリーの視界で、怪人の右腕が『シャキィィン!』と、冷たい真鍮の光を放ちながら跳ね上がる。
それは筋肉の駆動ではなく、強靭なゼンマイの解放がもたらす、人間の限界を超えた無機質な速度。
――あ。
衝撃。
痛みを感じるよりも早く、新調したばかりのボンネットが夜霧のなかにひらりと舞った。
冷たい泥濘へと崩れ落ちていく感覚のなか、ポリーの酩酊した意識は、今度こそ言い訳の立たない深い闇の底へとぷつりと切れて落とされた――。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
第二章の幕開け。
そう、かの有名なあの怪事件です!
まさか自分が、この事件の物語を書くとは夢にも思っていませんでした。
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