(三)小さな輪
◆ 十 竜の間
竜の間は、洞窟の奥にあった。
赤い光。
熱で揺らめく空気。
財宝の反射。
そして、中央に赤竜がいた。
眠っているように見えた。
巨大な翼を畳み、長い首を財宝のそばに横たえている。
瞼は閉じていた。
だが、竜が本当に眠っているかどうかなど、誰にも分からない。
統領は立たなかった。
影の中に沈んだ。
ここまで来た。
誰も戻らなかった場所。
誰も踏み込めなかった場所。
赤竜の呼吸が、自分の胸を押す場所。
金貨よりも、宝石よりも、その事実の方が価値があった。
財宝は山ほどあった。
だが、統領はその山を見ていなかった。
彼が見ていたのは、赤竜の閉じた瞼だった。
その瞼が開けば、自分は死ぬ。
それが、たまらなく鮮やかだった。
◆ 十一 小さな輪
それでも、証が必要だった。
何も取らずに戻れば、ただ見ただけになる。
あの場所へ行ったことを、自分の手の中に残したかった。
統領は、まず金貨を一枚取った。
盗賊としての癖だった。
山ほどある金貨のうちの一枚。
それならば、誰にも気づかれない。
そう思った。
だが、指先に乗った金貨は、奇妙なほど軽かった。
軽い。
あまりにも軽い。
これを持ち帰っても、赤竜の寝息を聞いた証にはならない。
統領は金貨を握ったまま、財宝の奥へ視線を移した。
大きな財宝には手を出さなかった。
宝石箱も避けた。
王冠も、剣も、目立つ魔道具も避けた。
最も小さく見えるものを選んだ。
翼の意匠が刻まれた、小さな古い輪。
表面には赤黒い筋が走っている。
手に近づけると、ほんのり熱い。
宝石箱ではない。
金貨でもない。
王冠でもない。
これなら、赤竜も気にしないだろう。
それが、統領の最初で最大の誤算だった。
◆ 十二 帰り道
帰りは、行きよりも難しかった。
盗る時より、持って帰る時の方が人は死ぬ。
統領はそれを知っていた。
盗んだ輪は小さい。
だが、重かった。
物としての重さではない。
死の近くから持ち帰るものは、重い。
もう一つ、手の中に重さがあった。
金貨だ。
財宝庫で取った、一枚だけの金貨。
盗賊なら、持ち帰るべきもの。
部下に見せれば分かりやすい戦果になる。
売れば酒代にはなる。
だが、統領は途中で足を止めた。
違う。
これは違う。
金貨は、どこにでもある。
価値はある。
だが、赤竜の寝息とは関係がない。
統領が欲しかったのは金ではなかった。
あの瞼の前に立ち、生きて戻ったという事実だった。
金貨は、ただの欲だった。
欲は音を立てる。
統領は、壁際に細い割れ目を見つけた。
逃げ込むには狭すぎる。
隠れるにも浅すぎる。
ただ、小さなものを落とすには十分だった。
統領は膝をつき、金貨を指先から離した。
捨てた、つもりだった。
金貨は壁の割れ目に触れ、音もなく奥へ滑った。
統領は、それを確かめなかった。
確かめる時間が惜しい。
確かめる理由もない。
金貨はもう、彼のものではなかった。
統領は輪だけを握り直す。
これは財宝ではない。
証だ。
赤竜の懐に入り、生きて戻った証。
統領は、来た時と同じように戻った。
鈴を使う。
進む。
隠れる。
二時間待つ。
また進む。
ガーディアンの気配を避ける。
洞窟の風に紛れる。
赤竜の寝息が遠ざかる。
遠ざかるほど、体が震えそうになる。
それでも震えない。
震えれば音になる。
◆ 十三 生還
洞窟の外へ出た時、空はまだ薄暗かった。
統領は外の空気を吸った。
膝が少し笑う。
手も震えている。
それでも、統領は口元だけで笑った。
生きていた。
赤竜の寝息を聞いた。
赤竜の財宝に触れた。
赤竜の懐から戻った。
まだ、心臓が動いている。
隠れ家へ戻ると、部下たちは本気で驚いた。
「統領……本当に戻ったんですか」
「戻ったな」
「何を持ってきたんです?」
統領は、小さな輪を見せた。
「証拠だ」
「財宝じゃなくて?」
「似たようなものだ」
「いや、違うと思います」
部下はそう言ったが、統領は聞いていなかった。
彼にとって、それは金ではなかった。
売るための品でもなかった。
赤竜の寝息を聞いた証だった。
◆ 十四 ない
その頃、赤竜の洞窟は静かだった。
ガーディアンは反応していない。
戦闘も起きていない。
魔力の乱れもほとんどない。
赤竜は、すぐには起きなかった。
ただ、寝息の間隔がわずかに変わった。
意識が、薄く浮上する。
最初に感じたのは、侵入者の気配ではなかった。
空気の乱れでもない。
財宝の配置の違和感だった。
赤竜の瞼が開く。
竜の眼は、財宝庫を見た。
金貨の山。
宝石箱。
古代魔道具。
壺の影。
剣の傾き。
数えない。
赤竜は数えない。
数える必要がない。
どの金貨がどこにあり、どの宝石の角に傷があり、どの古代魔道具がどの財宝の影に半分隠れているか。
すべて覚えている。
だから、まず金貨が一枚欠けていることに気づいた。
一枚。
山ほどある金貨のうちの、たった一枚。
だが、赤竜にとっては「たった」ではなかった。
守るものに含まれるなら、すべて同じだった。
赤竜の眼が、洞窟の通路へ向く。
入口から四つ目の分岐。
左壁の割れ目。
そこに、金貨はあった。
盗まれてはいない。
だが、財宝庫から持ち出されている。
何者かが財宝庫へ入り、金貨を取り、途中で落とした。
つまり、何者かがここまで来た。
赤竜の眼が、さらに奥へ戻る。
そして、欠けた場所だけが見えた。
本来そこにあるはずの、小さな輪。
ない。
「……ない」
その一言で、洞窟の熱が変わった。
怒りは、財宝への欲から来たものではない。
守ると決めたものを欠けさせた怒り。
役割を損なわれた怒り。
契約を果たせていないという認識。
守護者としての威と信用が傷ついたという感覚。
※第14.5話「盗賊は竜の寝息を聞いた」は全五回です。
続きます。
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