(二)赤竜の寝息
◆ 六 洞窟入口
洞窟の入口は、想像していたより静かだった。
熱を帯びた岩。
風化した警告文。
古い術式の痕跡。
奥に続く暗い穴。
そして、見えない場所にいる何かの気配。
ガーディアン。
統領は足を止めた。
戦わない。
戦えば、洞窟が覚える。
洞窟が覚えれば、赤竜が気づく。
統領は鳴らない鈴を指で押さえた。
風が一瞬だけ、体の周りを撫でる。
音が消えたわけではない。
音が、洞窟の奥から流れてくる風の癖に紛れた。
統領は歩く。
一歩。
待つ。
一歩。
待つ。
足は石を踏んだ。
しかし石は、踏まれたことを忘れたように沈黙した。
布が揺れた。
しかしその揺れは、洞窟の風に混ざった。
統領は進んだ。
進む、というより、そこに最初からあった影の位置を変えていった。
◆ 七 最初の二時間
最初の潜伏場所は、小さな横穴だった。
人間一人がやっと座れる程度の隙間。
ガーディアンの巡回から外れている。
風の精霊具の効き目が切れる前に、統領はそこへ体を滑り込ませた。
そこから二時間、動かなかった。
咳もしない。
水も飲まない。
眠らない。
二時間は長い。
ただ座っているだけなら長い。
見つかれば死ぬ場所で座っているなら、なお長い。
だが、統領にとって、その二時間は悪くなかった。
死が近くにいる。
すぐ隣で息をしている。
それだけで、胸の奥の空洞が少し埋まる。
何もしない時間ではない。
何もできない時間だった。
動けば死ぬ。
音を立てれば死ぬ。
呼吸を乱せば死ぬ。
その条件の中で、まだ生きている。
統領は、それを静かに味わっていた。
◆ 八 白い守り手
再び鈴を押さえ、進む。
洞窟の中層に、白く滑らかなものがいた。
土や石の塊ではない。
表面は陶器のように滑らかで、関節は不自然なほど静かに動く。
小型のガーディアンだった。
小さいから弱いわけではない。
むしろ、小さいものほど速い。
統領は、そういうものを何度も見てきた。
戦わない。
近づきすぎない。
風の流れを読む。
床の反響を聞く。
ガーディアンの首がわずかに動いた。
統領は止まる。
止まるというより、洞窟の影になる。
汗がこめかみを伝う。
汗が落ちれば音になる。
統領は頬の筋肉だけで、汗の流れを変えた。
一歩進むために、百の理由を探す。
一歩進まないために、千の理由を数える。
盗みとは、手を伸ばすことではない。
手を伸ばしてもよい一瞬を、死なずに待つことだった。
◆ 九 赤竜の寝息
二度目の潜伏場所は、崩れた石柱の陰だった。
狭い。
足を伸ばせない。
体勢も変えられない。
鈴はもう使えない。
次に風を借りるまで、また待たなければならない。
その時、洞窟の奥から低い音が響いた。
最初は、地鳴りかと思った。
違う。
規則がある。
深く、長く、洞窟の空気を押している。
赤竜の寝息だった。
統領は笑いそうになった。
怖い。
怖いのに、嬉しい。
自分は今、赤竜の寝息が聞こえる場所にいる。
まだ生きている。
死に近づくほど、世界は細かくなる。
石の冷たさ。
布の重さ。
喉の奥の乾き。
爪の下に入った砂。
自分の心臓の音。
それらが、一つずつはっきりしていく。
生きている。
恐ろしいほど、生きている。
※第14.5話「盗賊は竜の寝息を聞いた」は全五回です。
続きます。
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