(一)追われる者
◆ 一 追われる者
追っ手の足音は、思ったより近かった。
森の夜明けは薄い。
霧が低く流れ、濡れた枝が白く光っている。鳥が鳴くにはまだ早く、獣が動くには少し遅い。そんな中途半端な時刻に、黒い服の男は斜面を滑るように下っていた。
黒髪。
ぼろぼろの黒いマント。
音の少ない靴。
腰には短剣。
盗賊団の統領だった男は、今は盗賊団に追われる側になっていた。
背後で枝が鳴る。
男は走らない。
走れば呼吸が乱れる。呼吸が乱れれば、気配が膨らむ。気配が膨らめば、追っ手に拾われる。
だから、歩く。
歩いているように見せながら、逃げる。
落ち葉を踏まない。濡れた石は避ける。枝の先を揺らさない。風が吹く瞬間にだけ、黒いマントの裾を動かす。
追う側だった頃と同じことを、今は追われる側としてやっていた。
男は倒木の陰へ身を滑り込ませる。
体を低くする。
息を止めるのではない。止めれば、次に吸う時に乱れる。細く、浅く、森の湿った空気に紛れるように吸う。
足音が近づいた。
一人。
いや、二人。
後ろにもう一人。
腕は悪くない。
だが、焦っている。
焦る者は、森に嫌われる。
男は倒木の影で、動かなかった。
追っ手の一人が、すぐ近くで足を止める。
「こっちか?」
「足跡が消えてる」
「統領の足跡がまともに残るわけねえだろ」
「もう統領じゃねえ」
「……そうだったな」
男は、ほんの少しだけ目を細めた。
統領ではない。
その通りだった。
盗賊団を抜けると言ったのは自分だ。
追えばいい、と言ったのも自分だ。
追われる覚悟はあった。
それでも、実際に背後から足音が迫ると、胸の奥が少しだけ熱くなる。
怖い。
怖いから、体の輪郭がはっきりする。
生きている、と分かる。
足音が遠ざかっていく。
男はまだ動かない。
追っ手の気配が完全に森へ溶けるまで、倒木の下で待つ。
待つことには慣れていた。
二時間でも。
半日でも。
死のすぐ隣で、動かずに待つことには。
その待つ時間が、男の記憶を、あの洞窟の奥へ引き戻していく。
地鳴りのような、低い音。
山そのものが眠っているような響き。
赤竜の寝息。
◆ 二 誰も戻らない場所
始まりは、金の話だった。
盗賊団の隠れ家は、森の外れにあった。
古い製材小屋を改造した場所で、外から見れば半分崩れた廃屋にしか見えない。だが、床下には物資が隠され、壁の裏には武器が仕込まれ、裏口は三つあった。
夜だった。
焚火は小さい。
炎を高くすれば、煙が見える。笑い声を大きくすれば、森が覚える。盗賊たちは、騒いでいるようで、音の出し方は心得ていた。
「赤竜の洞窟には、王都の金庫が三つ買えるほどの財宝があるらしいですぜ」
部下の一人が、声を落として言った。
「三つ? 十は買える」
別の男が鼻で笑う。
「買う前に焼かれるがな」
小さな笑いが起きた。
統領は、その笑いを聞いていた。
金庫がいくつ買えるかには興味がなかった。
宝石の山にも、王冠にも、古代魔道具にも、特に心は動かなかった。
ただ、一つの言葉だけが引っかかった。
「誰も入ったことがないのか」
統領が聞くと、部下たちの笑いが止まった。
「入った奴はいますよ」
部下の一人が肩をすくめる。
「戻った奴がいないだけで」
「なるほど」
「まさか、行くんですか?」
統領は、焚火の向こうを見た。
火は小さい。
それでも、赤く揺れている。
「少し、見てくる」
「見てくるって、赤竜の巣ですよ」
「だからだ」
部下たちは顔を見合わせた。
普通の盗賊なら、財宝を取りに行く。
大きな荷袋を用意する。荷運びを連れていく。見張りを置く。退路を確保する。できれば赤竜のいない時を狙う。
だが、統領が見ていたのは財宝ではなかった。
誰も戻らない場所。
誰も近づけない場所。
一歩間違えれば死ぬ場所。
そこへ、自分の足で入る。
その考えだけで、胸の奥が少し熱くなった。
◆ 三 同行禁止
隠れ家の奥で、地図が広げられた。
部下たちは当然のように人数の話をした。
「何人連れていきます?」
「誰も」
「誰も?」
「一人で行く」
「荷は?」
「持てる分だけでいい」
「財宝を取りに行くんでしょう?」
「違う」
「違う?」
統領は、地図の西の山脈を指でなぞった。
「赤竜の寝息を聞きに行く」
部下たちは黙った。
少しして、一人が言う。
「……統領、たまに言うことが詩人なんですよね」
「いや、今のは死人です」
「上手い」
「褒められても困るんですが」
統領は笑わなかった。
だが、否定もしなかった。
死人。
近い。
近ければ近いほどいい。
ただし、死にたいわけではない。
死の近くにいる時だけ、生きていることがよく分かる。
人数が増えれば気配が増える。
誰かが怖がれば呼吸が乱れる。
誰かが欲を出せば音が出る。
誰かが戦えば終わる。
だから、一人で行く。
荷も少なくていい。
財宝を運び出すためではない。
赤竜の寝息を聞き、その懐から戻ってくるためだった。
◆ 四 風の精霊具
統領は私物箱から、小さな精霊具を取り出した。
鳴らない鈴だった。
金属のように見えるが、振っても音はしない。表面には風を模した細い文様が刻まれている。触れれば、わずかに冷たい。
「それ、例の精霊具ですか」
「風を少し借りるだけのものだ」
「それがあれば、赤竜にも気づかれない?」
「それだけなら無理だ」
「無理なんですか」
部下の顔が露骨に曇る。
統領は鈴を指先で転がした。
「足音を立てる奴が持てば、足音が少し小さくなるだけだ」
「統領が持つと?」
「風が少しそよぐ」
「違いが分からないんですが」
「分からないなら、向いていない」
風の精霊具は、便利な道具ではない。
足音を消すわけではない。
姿を隠すわけでもない。
空気の乱れ、衣擦れ、呼吸の気配を、周囲の風に薄く散らす。
それだけだ。
雑に動けば、雑な気配が残る。
走れば、風が不自然になる。
金属音を立てれば、消えない。
戦えば、終わりだ。
効果も長くは続かない。一度使えば、次に同じように風を借りられるまで二時間ほど待つ必要がある。
だからよかった。
万能ではないから、そこに自分の技量がいる。
自分の技量がなければ死ぬ。
その程度の道具だから、持っていく価値があった。
◆ 五 赤竜の山
夜明け前、統領は一人で隠れ家を出た。
荷物は少ない。
硬貨は持たない。
金属音が出る留め具は外した。
水袋は布で巻いた。
短剣は一本だけ。
黒い服に、ぼろぼろの黒いマント。
派手なものは何もない。
赤竜の山へ近づくほど、空気が乾いた。
鳥の逃げ方を見る。
草の倒れ方を見る。
風向きを読む。
土を踏む時は、踏んだ跡が影に隠れる場所を選ぶ。
急がない。
急ぐ者は音を立てる。
音を立てる者は死ぬ。
赤竜の山では、速さよりも、存在しないことの方が大事だった。
統領は、無謀ではなかった。
無謀な者は死ぬ。
怖がりすぎる者も死ぬ。
欲を出す者も死ぬ。
赤竜の領域へ近づくということは、自分の呼吸一つまで敵にするということだった。
統領は、その感覚が嫌いではなかった。
※第14.5話「盗賊は竜の寝息を聞いた」は全五回です。
続きます。
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