(一)始まる前に終わる
赤竜が吠えたわけではない。
炎を吐いたわけでもない。
ただ、見た。
それだけで、谷にいた魔物の群れは崩れた。
山の高みに伏せた赤竜が、ほんの少し首を動かしただけだった。けれど、それで十分だった。
谷を渡っていた角のある魔物が足を止める。群れの先頭が向きを変える。後ろの個体が押し合い、悲鳴のような鳴き声が風に散った。
逃げる。
散る。
隠れる。
牙を剥く者はいない。
爪を立てる者もいない。
挑む者など、どこにもいない。
赤竜は、それを勝利とは思わなかった。
勝利には、始まりが必要だった。
これは、始まる前に終わっただけだった。
「またか」
赤竜は、低く呟いた。
声は山肌を震わせ、崖の雪を少しだけ落とした。
谷の魔物たちは、さらに遠くへ逃げた。
赤竜は追わなかった。
追う理由がなかった。
腹が減っているわけではない。縄張りを荒らされたわけでもない。敵意を向けられたわけでもない。
ただ、そこに魔物がいた。
赤竜が見た。
それだけで終わった。
「また、何も起きなかった」
山は静かだった。
雲は赤竜の翼より低いところを流れていた。空は広く、風は冷たい。山腹には、古い焼け跡がいくつもある。
かつて赤竜が退屈まぎれに火を吐いた跡もあれば、ただ寝返りを打っただけで焦げた斜面もある。
赤竜にとっては、どれも同じだった。
燃える。
冷える。
草が生える。
森になる。
また燃える。
それだけだ。
赤竜は巨大な翼を畳み、岩の上に顎を置いた。
眠ろうとした。
だが、眠りにも飽きていた。
目を閉じれば、次に目を開けた時、また同じ山がある。同じ空がある。同じ恐れがある。
赤竜は何度も眠った。
季節が変わった。
森が伸び、焼け、また伸びた。
川の形が少し変わった。
人間の村ができ、滅び、また別の場所にできた。
けれど、赤竜にとっては、どれも似たようなものだった。
誰も近づかない。
誰も頼らない。
誰も、赤竜に何かを求めない。
求められることがあるとすれば、討伐か、恐怖か、回避だけだった。
暇、という言葉は軽い。
しかし赤竜の暇は、午後の退屈ではない。
雨の日に外へ出られない子供の苛立ちでもない。
百年眠っても、まだ続く暇だった。
千年起きていても、埋まらない暇だった。
何をしても勝つ。
何もしなくても恐れられる。
赤竜は、自分が強いことを知っていた。
そして、強いだけでは何にもならないことも、知り始めていた。
「我は、なぜここにいる」
その問いに答える者はいなかった。
「誰も来ぬ」
風だけが、山肌を撫でていく。
「誰も求めぬ」
赤竜は目を開けた。
遥か下に、小さなものが見えた。
人間だった。
※第0話「赤竜は暇だった」は全四回です。
続きます。
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