(一)事故翌日の実習棟
◆ 一 事故翌日の実習棟
翌日の実習棟は、いつもより少しだけ湿っていた。
比喩ではない。
床の一部に、まだ薄い白銀の残光が残っている。召喚陣の線は消されたはずなのに、昨日の事故で魔力が通りすぎた場所だけ、光の粉をこぼしたように鈍く光っていた。
机はずれている。
椅子は端に寄せられている。
補助札はすべて回収され、新しい管理箱に入れられていた。しかも箱には鍵がかかり、ダリル・モートン教官の腰に、その鍵がぶら下がっている。
リオル・ロステルは、雑巾を持って床にしゃがみこんでいた。
「やっぱり、僕も片付けた方がいいですよね」
声は少し小さい。
昨日、自分は水精霊を呼ぼうとして、最高位召喚士を呼んだ。
冷静に考えなくてもおかしい。
冷静に考えると、もっとおかしい。
そのため、リオルは朝からずっと、掃除をする以外に何をすればいいのか分からなかった。
ダリルは額に手を当てた。
「気持ちはありがたいが、これは学校側の管理責任でもある」
「でも、触ったのは僕です」
「触れる位置にあったのが問題だ」
「先生までユナみたいなことを……」
「フェルミアの指摘は正しい。正しいから胃が痛い」
ダリルがそう言った時、実習室の入口から静かな声がした。
「胃痛は、責任ある立場の初期症状です」
全員が振り向いた。
メルセナ・オルブライトが、いつものように無表情で立っていた。
白に近い灰色のコート。金色の髪。翼のような銀の髪飾り。昨日、召喚陣の中から現れた時と同じように、立っているだけで実習室の空気が少し変わる。
ダリルは反射的に背筋を伸ばした。
「オルブライト閣下、慰めになっていません」
「慰めてはいません」
「なお悪いです」
「責任を認識できているなら、悪くありません」
「胃は悪くなっています」
「それは別件です」
リオルは雑巾を握ったまま、メルセナを見上げた。
「おはようございます、先生」
メルセナは一拍置いた。
「おはようございます、リオル」
返事は落ち着いていた。
とても落ち着いていた。
ただし、返事までの間がほんの少し短かった。昨日から、先生と呼ばれるたびにメルセナの反応が微妙に早くなることに、リオルはまだ気づいていない。
気づいていたのは、ユナ・フェルミアだけだった。
ユナはリオルの少し後ろで、雑巾の入った桶を持っている。彼女はメルセナを見て、それからリオルを見て、何とも言えない顔をした。
「もう、自然に先生って呼ぶのね」
「え?」
「別に。昨日までは、実習のことで聞く相手なんていなかったのに、今日はすぐ先生なんだなって思っただけ」
「ご、ごめん。そういうつもりじゃ」
「謝るところじゃないでしょ」
ユナは桶を床へ置いた。
少しだけ、置き方が強かった。
セリオ・ヴァインが鼻で笑う。
「フェルミア、妬いているのか?」
「違う」
「では、何だ」
「貴族と庶民は噛み合わないって話をしているの」
「今の流れで?」
「今の流れで」
セリオは少し考えたが、反論を諦めたようだった。
メルセナはユナを見た。
「ユナさん」
「はい」
「私は学校の教官ではありません。リオルの生活や交友関係に関与する立場でもありません」
「……分かっています」
「ですが、召喚術基礎に関しては、契約上、私が見ます」
「そこも分かっています」
「分かっていて、納得できないことはあります」
ユナは少し黙った。
「オルブライト閣下は、そういうことも言うんですね」
「言います。必要なら」
リオルはおろおろとユナを見た。
「ユナ、怒ってる?」
「怒ってない。ちょっと、面倒な気分なだけ」
「面倒な気分」
「貴族は面倒なの」
「それ、便利な言葉になってない?」
ユナは答えなかった。
代わりに、桶の中から雑巾を一枚取って、リオルの手元へ押しつけた。
「ほら。手を止めない」
「はい」
リオルは床を拭き始めた。
昨日の事故は終わっていない。
だが、少なくとも今日は、掃除から始まるらしかった。
◆ 二 召喚術基礎コンサルタント
ダリルは、改めてメルセナへ向き直った。
「オルブライト閣下。本日の実習ですが、閣下はどのような立場で参加されるのでしょうか」
「学校教官ではありません」
「承知しています」
「リオル・ロステルとの限定契約に基づく、召喚術基礎コンサルタントです。学校の指揮系統には入りません」
リオルは首をかしげた。
「先生じゃないんですか?」
「役割上は近いです」
「近いんですね」
「はい。助言と確認は行います。ただし、授業運営はモートン教官の権限です」
ダリルは複雑な顔をした。
「……胃が痛いですが、助かります」
「胃痛は継続してください。責任感の維持に役立ちます」
「閣下は胃痛に厳しい」
「胃痛ではなく、責任に厳しいのです」
リオルは小さく呟いた。
「先生、胃痛にも厳しいと思います」
「否定はしません」
ダリルは一度咳払いをした。
「本日は、昨日の事故の影響で、予定していた基礎召喚実習を一部変更する。まず、実習室の片付けを行う」
生徒たちから、小さな声が漏れた。
嫌そうな声もある。
当然だった。召喚士学校の実習で、最初にやることが掃除なのだ。
セリオが腕を組んだ。
「それはロステルがやるべきでは?」
「セリオ」
ユナが低く言った。
「またそういう言い方をする」
「事実だ。事故を起こした本人が片付けるのは当然だろう」
「事故原因はリオル一人じゃなかったって、昨日聞いてたでしょ」
「それでも、触ったのはロステルだ」
リオルは雑巾を握り直した。
「僕、やるよ。僕が散らかしたのもあるし」
「全てではありません」
メルセナが即座に言った。
リオルは少しだけ笑った。
「でも、手伝いたいです」
「よいでしょう。では、召喚術で行いましょう」
「召喚術で掃除ですか?」
「基礎訓練には適しています。目的が明確で、危険度が低い」
セリオが少し眉を寄せた。
「掃除が基礎訓練ですか」
「掃除を軽く見ない方がよいですよ」
メルセナはセリオを見る。
表情はない。
ただ、視線だけで少し空気が正される。
「制御できない召喚士は、掃除すら安全に終えられません」
セリオは口を閉じた。
ダリルは胃のあたりを押さえた。
「閣下、それは本日の実習課題として適切なのでしょうか」
「適切です。昨日、私はリオルへ言いました。召喚は呼ぶことだけではなく、呼んだ後に破綻させないことだと」
「はい」
「今日は、それを床で学びます」
「床で」
「はい。床は正直です。濡らせば濡れます。風を当てれば紙が飛びます。失敗の結果が分かりやすい」
リオルは床を見た。
確かに、床は正直そうだった。
少なくとも、召喚契約よりは見て分かる。
※第2話「教室に小さな台風」は全三回です。
続きます。
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