(一)まだ騎士は呼ばない
◆ 一 まだ騎士は呼ばない
西の山脈は、近くで見るほど静かだった。
静かすぎる、とリオル・ロステルは思った。
旧火守り谷。
古い文献にそう記されていた場所は、山脈の奥に細く口を開けている。周囲には雪が残っているのに、谷の底だけは薄い。岩肌は乾き、ところどころ黒く焼けたように見えた。
鳥たちが嫌がった場所。
犬が進まなかった場所。
村人が赤い光を見たという場所。
文献、聞き込み、鳥、追跡獣。
ばらばらだった情報が重なった一点が、今、目の前にある。
メルセナ・オルブライトは、洞窟入口から少し離れた場所で立ち止まった。
「ここから先は、赤竜の領域と考えてください」
声はいつも通り静かだった。
だが、周囲の記録担当や連絡係は、その一言で姿勢を改めた。
「大声を出さない。不要な魔法を使わない。金属音を立てない。財宝に触れない。こちらが攻撃され、回避できない場合のみ対応します。基本は通過です」
カイル・レイヴァンが頷いた。
「交戦条件は、防御または通路確保に限定」
「はい。赤竜討伐ではありません。ガーディアン討伐でもありません」
メルセナは、洞窟の暗がりを見た。
「今回の目的は、赤竜の前まで到達することです」
リオルは、その言葉を聞きながら周囲を見回した。
王国軍の大部隊はいない。
騎士の姿も、まだない。
いるのは、メルセナ、カイル、ミレイユ、リオル。そして必要最小限の記録担当と連絡係だけだった。
「あの、騎士の人たちは?」
リオルが尋ねると、カイルが答えた。
「拠点で待機している」
「ここまで一緒に来ないんですか?」
「来ていない。移動で体力を使わせないためだ」
メルセナが続ける。
「洞窟内で必要なのは、万全の状態の騎士です。山道を越えさせて疲労させる意味はありません」
「じゃあ、どうやって来るんですか?」
「召喚で呼び出します」
「人間も?」
「契約があれば可能です。今回は短期契約です」
リオルは、思わず瞬きをした。
動物や熊や鳥を呼ぶのとは違う。
人間を呼び出す。
それは、契約の重さが違う気がした。
ミレイユ・グレインが通信水晶の光を確認する。
「拠点側との接続は維持できています。帰還支援の短期契約も確認済みです」
「帰還支援?」
リオルが聞く。
「帰りは、別の高位召喚士に戻してもらいます」
メルセナが答えた。
「徒歩撤退を前提にしません。交渉後、あるいは緊急撤退時には、拠点側から召喚で回収してもらいます」
「別の高位召喚士?」
カイルが少しだけ口元を緩めた。
「メルセナ様のお師匠様だ」
「先生の先生……」
リオルはメルセナを見る。
「先生よりすごい人なんですか?」
「魔力量と召喚マネジメントだけで言えば、現在は私の方が上です」
「言い切った」
「ですが、私の師です。敬意を忘れる理由にはなりません」
「……はい」
通信水晶の向こうから、短く笑うような気配がした。
声は届かない。
だが、メルセナがほんのわずかに姿勢を正したことで、相手がただの協力者ではないのだと分かった。
「じゃあ、今は騎士さんたちを呼ばないんですか?」
リオルが尋ねる。
「まだ呼びません」
メルセナは答えた。
「どうしてですか?」
「どこで、何に当てるべきかが分かっていないからです」
カイルが洞窟入口を見た。
「文献上、ガーディアンがいる可能性は高い。だが、数も位置も、動きも、通路との関係もまだ不明だ」
「先に地図を作ります」
メルセナが言った。
「騎士を呼ぶのは、その後です」
リオルは洞窟の暗がりを見た。
まず、地図。
戦うためではなく、通るための地図。
その地図を作るのは、騎士でも軍でもなく、自分が呼ぶ小さな命たちだった。
※第11話「ハツカネズミ二百体の地図」は全六回です。
続きます。
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