(二)狼は羊の毛だけを持ち帰る
## 三 匂いを追うもの
羊飼いの牧草地は、森の手前に広がっていた。
草は短く刈られ、木の柵で囲われている。奥には浅い茂みがあり、その向こうに細い獣道が続いていた。
羊飼いは、痩せた中年の男性だった。
帽子を握りしめ、何度も森の方を見ている。
「白い雌羊です。首に青い紐をつけてます。朝は確かに群れにいたんです。でも、昼前に数えたら一頭いなくて」
「鳥では見つからなかったと聞きました」
メルセナが確認する。
「はい。見張りの者が鳥を使って見てくれたんですが、草地にも道にもいないと」
「茂みか、岩陰か、段差に落ちた可能性があります」
「狼や野犬ではないですよね」
羊飼いの声が震えた。
リオルは答えられなかった。
狼を呼んだ。
そのことを言ってよいのか迷ったからだ。
メルセナが代わりに言う。
「現時点では断定しません。今、匂いを追える召喚対象に確認させています」
「犬ですか?」
「狼です」
羊飼いの顔が固まった。
「狼」
「はい」
「羊を探すのに、狼ですか」
「はい」
羊飼いは、帽子を握る手に力を込めた。
「食べませんよね」
リオルは思わず口を開いた。
「食べないようにお願いしました」
「お願い……」
羊飼いの不安はまったく消えていなかった。
当然だ。
羊を探すために狼を呼びましたと言われて、安心する羊飼いはいない。
リオルは自分でも、かなり変なことをしている自覚があった。
メルセナは淡々と言う。
「狼に任せたのは発見までです。保護は人間側で行います」
「見つけたら戻ってくるように頼みました」
リオルが付け加える。
羊飼いはまだ不安そうだったが、メルセナがいるためか、それ以上は言わなかった。
待つ時間が始まった。
鳥の時と違い、空を見ても何も分からない。
狼は森の中へ入っている。
枝の揺れも見えない。
鳴き声もない。
ただ、行ったきりだ。
「先生」
「何でしょう」
「狼が羊を見つけたら、戻ってきますよね」
「そのように頼みました」
「ですよね」
リオルは森を見る。
狼はまだ戻らない。
羊飼いは落ち着かない様子で歩き回っている。
ミレイユは記録板に、召喚対象、指示、経過時間を書き込んでいた。
日が少し傾く。
森の影が伸びる。
それでも、狼は戻ってこなかった。
「……遅いですね」
リオルが呟く。
メルセナはすぐには答えなかった。
その沈黙で、リオルの胸の中に不安が広がった。
「先生?」
「想定より遅いです」
「想定より」
「はい」
メルセナは森を見たまま言う。
「狼が匂いを追うこと自体は、目的に合っていました。戻るようにも伝えました」
「じゃあ、何が」
「戻る、という言葉が曖昧でした」
リオルは息を止めた。
「曖昧……」
「はい。犬なら、飼い主や家へ戻るよう訓練されていることがあります。人間の生活圏に、戻る場所が結びついています」
「狼は違う」
「違います。狼にとって戻る場所は、自分の住処です。縄張りであり、安全な場所です」
リオルは森を見た。
「じゃあ、僕が戻ってきてって言った時、あの子は……」
「あなたのところへ戻るとは限りません」
「自分の場所へ戻った」
「その可能性があります」
「でも、僕は……」
「はい。あなたは、自分のところへ戻ってくると思っていました」
メルセナは一拍置いた。
「私もです」
リオルはメルセナを見た。
メルセナは無表情だった。
けれど、その言葉ははっきりしていた。
「先生も?」
「はい。私も、戻るという言葉を人間側の感覚で取りすぎました」
リオルは森へ視線を戻した。
狼は犬ではない。
何度も言われた。
分かっていたつもりだった。
でも、見つけたら戻るだろうと、どこかで思っていた。
狼にとっての戻る場所が、自分のところではないかもしれないとは考えていなかった。
日がさらに傾いた。
森から狼は戻らなかった。
羊飼いは肩を落とした。
「今日は、もう暗くなります」
ミレイユが小さく言った。
メルセナは頷いた。
「人間側の捜索はここまでです。暗くなってから森へ入れば、捜索対象を増やすだけになります」
「狼は……」
リオルの声は小さかった。
「召喚のつながりは、かなり薄くなっています。無理につなぎ続けるべきではありません」
「僕が切ったら、狼は帰れますか」
「帰れます。ただし、何をしていたのかは分かりません」
リオルは拳を握った。
それでも、これ以上つなぎ続ける方が危険だと分かった。
「戻って。今日は、もういい」
リオルはそう言って、召喚のつながりをほどいた。
狼の気配が遠のいた。
羊は見つからなかった。
少なくとも、人間には伝わらなかった。
リオルは、何も言えなかった。
## 四 羊の毛
翌朝。
リオルは、ギルドへ向かう前に裏庭へ行った。
昨日の召喚場所。
狼を呼んだ場所。
失敗したかもしれない場所。
朝の空気は冷たかった。
草の先に露が残っている。
リオルは、しばらく何も言わずに立っていた。
「リオル」
背後からメルセナの声がした。
「おはようございます、先生」
「おはようございます」
メルセナはリオルの隣へ立つ。
「眠れましたか」
「少しだけ」
「なら、十分です」
「十分なんですか」
「寝ていないよりは」
「基準が低い……」
リオルは少しだけ笑った。
けれど、すぐに表情を曇らせる。
「先生。僕、昨日、狼に無理させましたか」
「可能性はあります」
「羊を探すのに、狼を呼んだのも間違いだったんでしょうか」
「間違いとは断定しません。目的には合っていました」
「でも、戻ってきませんでした」
「はい。そこが想定外でした」
リオルは俯いた。
見つけることと、報告することは別。
分かったつもりだった。
戻ってきて、と頼んだ。
けれど、どこへ戻るのか。
自分のところへ戻るのか。
羊のいた場所へ戻るのか。
それとも、狼自身の住処へ戻るのか。
そこまで決めていなかった。
狼が戻ってこなかったのは、狼が命令を無視したからではないのかもしれない。
リオルの頼み方では、狼にとって戻る場所が決まっていなかったのかもしれない。
その時、裏庭の端で草が揺れた。
リオルが顔を上げる。
灰色の狼がいた。
昨日呼んだ若い狼。
召喚陣はない。
つまり、リオルが今呼んだわけではない。
狼は自分の足で、近くまで来ていた。
口に、白いものをくわえている。
「先生」
「動かないでください」
メルセナの声は静かだった。
狼はゆっくり近づいた。
リオルから少し離れた場所で止まる。
そして、口にくわえていた白いものを、地面に落とした。
白い毛だった。
羊の毛。
リオルの息が止まる。
「まさか……」
羊飼いの不安そうな顔が頭をよぎった。
食べたのでは。
その考えが浮かんで、リオルは青ざめた。
「先生、これ」
「落ち着いてください」
「でも、羊の毛だけ」
「確認します」
メルセナは狼と毛の位置を見た。
リオルに近づくよう促さない。
自分も不用意に近づかない。
狼は、白い毛を置くと、リオルを見た。
責めるようでも、誇るようでもない。
ただ、持ってきた。
そういう顔だった。
「僕、見つけたら戻ってきてって言っただけなのに……」
リオルは小さく呟いた。
「この子、分かるものを持ってきてくれたんでしょうか」
「その可能性が高いです」
メルセナが言った。
「毛の量が少なすぎます。血もありません。食べた証拠ではなく、対象に接触した、あるいは対象のいた場所を示す証拠と見るべきです」
「でも、場所は分かりません」
「はい」
「戻ってきてくれた。見つけたことも、たぶん教えようとしてくれた。でも、僕たちには場所が分からない」
「それが今回の問題です」
リオルは狼を見る。
狼は、ただこちらを見返していた。
狼にとっては、十分な報告だったのかもしれない。
羊を見つけた。
毛を持ってきた。
だから分かるだろう。
そう言っているようだった。
メルセナは黙って、その狼を見ていた。
今回の行動は、彼女にとってもかなり想定外だった。
狼がリオルの足元へ戻らないことは、説明できる。
狼にとっての戻る場所は、自分の住処であり、安全な場所だからだ。
だが、その狼が翌朝、羊の毛をくわえてリオルの前に現れたこと。
ただ自分の場所へ帰っただけではなく、リオルに何かを伝えようとしたこと。
それは、契約で縛った行動ではなかった。
命令に従った、というだけでもない。
お願いを聞いた。
そう表現する方が、近かった。
「……僕が、そこまで分かれるように頼めてなかったんですね」
「はい」
メルセナは淡々と頷いた。
「ただし、狼はかなり察してくれています」
「察してくれた」
「はい。戻るだけではなく、羊と関係するものを持ち帰った。これは、あなたの意図を汲んだ行動です」
リオルは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
失敗した。
でも、狼は応えてくれていた。
ただ、その応えを人間が使える形にするところまで、リオルが設計できていなかった。
「場所、分かる? 案内できる?」
リオルは狼に尋ねた。
狼は少しだけ首を動かした。
すぐには動かない。
リオルは焦りかけたが、メルセナが止める。
「指示を整理してください」
「はい」
リオルは息を整える。
「昨日の羊の場所へ案内してほしい。僕たちは歩く。君は先に行きすぎない。危ない場所があったら止まって。羊を追い立てない。見えるところまででいい」
狼はじっとリオルを見た。
それから、ゆっくりと背を向ける。
数歩進んで、振り返った。
ついてこい。
そう言っているようだった。
メルセナが頷く。
「行きましょう。今度は、案内任務です」
「はい」
リオルは走り出しそうになる足を抑えた。
狼は犬ではない。
でも、今は案内してくれている。
その距離を間違えてはいけない。
## 五 羊は食べられていない
狼は森の端を進んだ。
速すぎない。
けれど、人間に合わせて歩いているというより、時々振り返って、人間が遅れすぎていないか確認しているようだった。
リオル、メルセナ、ミレイユ、羊飼い。
それに、地元の捜索隊員が二人。
一行は狼の後を追う。
羊飼いは青ざめた顔で、リオルの少し後ろを歩いていた。
「あの、本当に食べられていないんですよね」
「現時点では、食べられた証拠はありません」
メルセナが言う。
「ないだけですよね」
「はい。だから確認しに行きます」
羊飼いはさらに青ざめた。
リオルは申し訳なくなった。
「あの、すみません。僕の頼み方が足りなかったせいで」
「い、いや。探してもらっている立場ですから」
羊飼いはそう言ったが、不安は消えていなかった。
当然だ。
大事な羊を探すために狼を使い、その狼が羊の毛だけ持って帰ってきた。
普通なら最悪の想像をする。
森の中へ入ると、昨日見た牧草地とは違う匂いがした。
湿った草。
獣道。
古い落ち葉。
羊の匂いはリオルには分からない。
けれど、狼には分かるのだろう。
狼は何度か足を止め、地面の匂いを嗅いだ。
そして、茂みの奥へ進む。
「こんなところ、人間だけでは見落としますね」
ミレイユが呟いた。
茂みの奥には、低い岩場があった。
岩と木の根の間に、浅いくぼみがある。
そこから、かすかな鳴き声がした。
「メェ……」
羊飼いが走り出しかけた。
メルセナがすぐに言う。
「走らないでください。羊が暴れます」
羊飼いは足を止めた。
リオルたちは慎重に近づく。
白い羊がいた。
首には青い紐。
足が木の根と岩の間に挟まっている。
毛が少し抜けているが、血はほとんどない。
生きている。
食べられていない。
羊飼いが大きく息を吐いた。
「よかった……!」
リオルも胸を撫で下ろした。
「よかった……本当によかった……」
狼は少し離れた場所に座っていた。
羊へ飛びかかる様子はない。
ただ、ここだ、と言うように見ている。
メルセナは状況を確認する。
「羊を刺激しないように。木の根を切るか、岩側を少し削ります。土精霊を使います」
「先生が呼ぶんですか」
「はい。保護は狼の任務ではありません」
「見つける任務と、保護する任務は別」
「その通りです」
メルセナは土精霊を呼び、岩の周囲の土を少しずつ緩めた。
羊飼いと捜索隊員が羊を支える。
リオルは羊の頭側に立ち、暴れないように声をかけた。
「大丈夫。もう少しだから」
羊が弱々しく鳴く。
木の根の隙間から足が抜けた。
羊飼いが羊を抱きしめる。
「よかった……本当に、よかった」
リオルは、今度こそ肩の力を抜いた。
依頼は完了した。
ただし、きれいにできたわけではない。
昨日のうちに場所を聞けていれば、羊は一晩ここで過ごさずに済んだ。
狼は見つけていた。
しかも、見つけたことを伝えようとしてくれていた。
でも、報告方法が十分ではなかった。
それが、今回の失敗だった。
※第4話「狼は羊の毛だけを持ち帰る」は全三回です。
続きます。
作者個人サイトでは、人物相関図・各話アイキャッチ・用語メモなどの補足資料を公開しています。
※ネタバレ範囲にご注意ください。
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