(一)鳥では見えないもの
◆ 一 鳥では見えないもの
召喚士ギルドの依頼掲示板を前にして、リオル・ロステルは前よりも少しだけ落ち着いていた。
少なくとも、依頼札を見てすぐに「何を呼べばいいんだろう」と考えることはなくなった。
まず、何を求められているのか。
何が分かっていて、何が分かっていないのか。
どこまでやれば終わりなのか。
危険になった時、どう止めるのか。
メルセナ先生が教えたことを、頭の中で順番に並べる。
この前、鳥たちに助けてもらって迷子の子どもを見つけた。
赤い帽子。
黄色い肩掛け。
小川。
倒木。
鳥たちが見てきたものを、メルセナが地図に落として、ようやく迷子の場所になった。
リオルはまだ、あの時の報告を覚えている。
赤い。
黄色。
水。
木。
怖い。
人。
あのままでは、何も分からなかった。
情報を集めることと、情報を使える形にすることは別。
それを、リオルは少しだけ理解した。
「今日は、どれを見ればいいんでしょう」
リオルが尋ねると、隣に立つメルセナ・オルブライトは、掲示板を静かに見上げた。
「あなたが選んでください」
「僕がですか?」
「はい。依頼を読む訓練です」
リオルは掲示板を見る。
畑の水撒き補助。
古い倉庫の整理。
屋根に引っかかった布の回収。
小型荷車の押し出し補助。
どれも低難度依頼だ。
ただ、前なら「できそうかどうか」だけを見ていた。今は少し違う。
水撒きなら、水精霊。
倉庫整理なら、力のある召喚対象か、細かいものを運べる小動物。
屋根の布なら、鳥か風精霊。
荷車なら、力のある獣。
どれも、やり方を考えればできそうだった。
けれど、簡単そうに見える依頼ほど、見落としがあるかもしれない。
リオルが依頼札の前で悩んでいると、受付の方からミレイユ・グレインが歩いてきた。
「オルブライト閣下。ロステルさん。ちょうどよい依頼があります」
リオルは少し緊張した。
「また、ちょうどよい依頼ですか」
「はい。低難度ですが、前とは性質が違います」
ミレイユは一枚の依頼札を掲示板の端に留めた。
リオルはその文字を読む。
迷子の羊探し。
依頼者は、森の外れに住む羊飼い。
朝、放牧地へ出した羊の一頭が戻っていない。
羊は白毛。首に青い紐をつけている。
近くの茂み、岩場、浅い森に迷い込んだ可能性がある。
鳥による上空確認では見つからなかった。
狼や野犬の痕跡は今のところない。
ただし、日没までに見つけたい。
「羊……」
リオルは依頼札を見つめた。
前と同じ迷子探し。
けれど、人ではなく羊。
しかも、鳥による上空確認では見つからなかったと書かれている。
「上から見つからなかったんですね」
「はい」
ミレイユが頷く。
「地元の見張りが鳥を使って一度確認したそうです。白い羊なので、草地にいれば見つかるはずだったのですが」
メルセナが言う。
「つまり、上から見えない場所にいる可能性があります」
「茂みの中、倒木の陰、岩場のくぼみ……」
リオルは前の学びを思い出しながら言った。
「よいです」
メルセナが頷いた。
「では、この依頼で必要なものは?」
「上から見ることじゃなくて……足跡か、匂い?」
「はい」
メルセナは依頼札を見る。
「鳥は上から見えるものに強い。ですが、上から見えないものには弱い。今回は、その弱点を受ける依頼です」
リオルは小さく息を吸った。
前の迷子探しでうまくいったからといって、鳥で何でも探せるわけではない。
鳥は、上から見えるものに強い。
けれど、上から見えないものには弱い。
茂みの奥、倒木の陰、岩場のくぼみ。
空から見下ろせない場所にいる相手は、鳥だけでは探しきれない。
「精霊はどうでしょう」
リオルは自分で言ってから、少し考え込んだ。
「水精霊は……羊が川に落ちていれば、何かできるかもしれません。でも、探すには向いてない」
「はい」
「風精霊は匂いを運べるかもしれないけど、匂いを追って報告はできない」
「はい」
「土精霊は足場や地面を扱えるけど、足跡を読んで羊だと判断して戻ってくるわけじゃない」
「はい」
「火精霊は、羊探しには向いてないです」
「よい判断です」
メルセナの声はいつも通り淡々としている。
けれど、リオルは少し嬉しくなった。
精霊がだめなのではない。
今回の目的に合っていない。
そこを分けて考えられた。
「では、何を呼びますか」
メルセナが尋ねた。
リオルは依頼札を見つめた。
匂いを追える相手。
森や茂みの中を進める相手。
羊を見つけられる相手。
鳥ではない。
精霊でもない。
リオルの頭に、一匹の姿が浮かんだ。
灰色の毛。
鋭い目。
けれど、リオルを見る時だけ、少しだけ警戒を緩める若い狼。
「狼なら……」
ミレイユの手が止まった。
「狼?」
メルセナも、ほんの少しだけ視線を鋭くした。
「確認します。あなたは狼を呼べるのですか」
「たぶん……呼べます」
「たぶん」
「前に、森の端で怪我をしていた若い狼を見つけたことがあって」
リオルは少しだけ目を伏せた。
「罠にかかっていたんです。でも、近づくと怖がるから、水と食べ物だけ置いて、少し離れて見ていました。何日かしたら動けるようになって、そのまま森へ帰りました」
「触れたのですか」
「いいえ。触っていません。たぶん、触ろうとしたら噛まれてたと思います」
「賢明です」
「助けたって言っていいのかも分かりません。ただ、水を置いて、餌を置いて、近づきすぎなかっただけです」
メルセナはしばらく黙った。
ミレイユも記録板へ何かを書きかけて、やめた。
「リオル」
「はい」
「それは、かなり召喚士向きの対応です」
「え?」
「弱っている相手に近づきすぎない。助けを押しつけない。相手の警戒を尊重する。呼ばれてもよいと思ってもらう関係は、そういうところから生まれます」
「そうなんですか?」
「はい」
メルセナは続ける。
「ただし、狼は犬ではありません」
「はい」
「命令を聞く前提で考えてはいけません。人間の生活圏に合わせて動くわけでもありません。羊を守るために飼われた牧羊犬とは違います」
「分かっています」
「分かっているなら、呼びましょう」
リオルは頷いた。
胸の奥が、少し緊張で硬くなる。
鳥を呼ぶ時とは違う。
相手は狼だ。
来てくれるかもしれない。
でも、来てくれないかもしれない。
来てくれたとしても、思い通りに動いてくれるとは限らない。
それでも、この依頼には必要な相手だと思った。
◆ 二 狼は犬ではない
ギルドの裏庭は、召喚訓練用に広く空けられていた。
地面は踏み固められている。周囲には安全柵があり、低位精霊や小型動物の召喚なら問題なく行えるようになっている。
ただし、狼となると話は違う。
メルセナは安全柵の内側を確認し、さらに外側へ薄い銀の線を走らせた。
「安全範囲ですか?」
「はい。狼が暴れた時のためではありません」
「違うんですか?」
「人が不用意に近づかないためです」
リオルは少し驚いた。
「狼を閉じ込めるんじゃなくて?」
「狼を閉じ込めれば、警戒します。逃げ道がないと感じさせるのは悪手です」
「じゃあ、人を止めるため」
「はい。狼より、人の方が勝手に動くことがあります」
ミレイユが少し気まずそうに笑った。
「見物人が集まる前に、職員には近づかないよう伝えておきます」
「お願いします」
メルセナはリオルを見る。
「呼ぶ前に、条件を整理します」
「はい」
「目的」
「迷子の羊を探すこと」
「対象」
「白い羊。首に青い紐。放牧地から戻っていない」
「やってよいこと」
「匂いを追う。羊を見つける。危険があれば避ける」
「やってはいけないこと」
リオルは一瞬詰まった。
羊を傷つけない。
人を脅かさない。
勝手に遠くへ行きすぎない。
けれど、狼にそれを全部そのまま伝えて通じるのだろうか。
「羊を傷つけない……って言いたいです。でも、狼に羊を追わせる時点で、ちょっと難しい気がします」
「よい疑問です」
メルセナは頷いた。
「狼に『保護』を期待してはいけません」
「保護はできない」
「はい。今回、狼に任せるのは発見までです」
「見つけるだけ」
「そうです。連れ帰ること、守ること、羊飼いに報告することは、別の任務です」
「別の任務……」
「ここを曖昧にすると、失敗します」
リオルは真剣に頷いた。
見つけること。
報告すること。
保護すること。
どれも同じように見えるが、召喚対象からすれば違う。
鳥もそうだった。
鳥は見た。
でも、地図にはできなかった。
狼も同じなのだろう。
羊を見つけられる。
でも、人間が期待する形で報告してくれるとは限らない。
「終了条件は?」
「羊を見つけたら、戻ってくること」
リオルはそう言ってから、少し迷った。
「危ないなら戻ってきて。無理なら帰っていい」
「よいです」
「それだけで大丈夫でしょうか」
「十分とは言いません」
メルセナは淡々と答えた。
「ただ、今のあなたが狼に無理なく伝えられる範囲としては悪くありません」
「もっと細かく言わなくていいんですか?」
「細かく言いすぎて、狼にとって不自然な指示になるのも問題です。あなたはまだ、狼の報告方法を知りません」
「報告方法……」
「はい。今回は、狼がどう理解し、どう戻るのかを見ます」
「戻ってくるんですよね」
「そのように頼みました」
リオルは頷いた。
戻ってくる。
羊を見つけたら戻ってくる。
そう思っていた。
メルセナも、それ以上は何も言わなかった。
この時点では、リオルもメルセナも、狼が戻ってこないとは考えていなかった。
メルセナは少し離れた。
「呼びましょう」
リオルは目を閉じる。
鳥を呼ぶ時のように軽くはない。
狼の気配は、森の奥の匂いに似ていた。
湿った土。
草の陰。
夜の空気。
遠くでこちらを見ている目。
「来られるなら、来てほしい」
リオルは小さく言った。
「羊を探したいんだ。匂いを追える君の力を借りたい」
足元に召喚陣が広がる。
鳥の時よりも線は太い。
けれど、光は荒くない。
ゆっくりと、慎重に、道がつながっていく。
空気が少しだけ冷えた。
次の瞬間、召喚陣の向こうに灰色の影が現れた。
若い狼だった。
痩せてはいない。
毛並みも悪くない。
ただ、右後ろ脚に、古い傷跡が残っている。
狼は現れるなり、低く身を沈めた。
唸らない。
吠えない。
ただ、こちらを見ている。
リオルは動かなかった。
近づかない。
手を伸ばさない。
目を合わせすぎない。
昔、森の端でそうしたように、少しだけ視線を外して立つ。
「来てくれてありがとう」
狼は鼻を鳴らした。
ミレイユが小さく息を飲む。
「本当に狼……」
メルセナは狼を見て、次にリオルを見た。
「鳥十羽に続き、狼ですか」
「すみません」
「謝ることではありません」
「でも、ちょっと変ですよね」
「かなり変です」
「そこは否定してほしかったです」
「事実は事実です」
狼はリオルの近くへ一歩だけ寄った。
それ以上は近づかない。
リオルも近づかない。
ちょうどよい距離が、そこにあった。
「羊を探したいんだ」
リオルは、羊飼いから預かった羊の毛を取り出した。
白い毛をまとめた小さな布袋。
狼はそれに鼻を近づける。
匂いを嗅ぐ。
耳が少し動いた。
「白い羊。首に青い紐がある。見つけたら戻ってきて。危ないなら戻ってきて。無理なら帰っていい」
リオルはそう伝えた。
それ以上、うまく言えなかった。
羊を見つけてほしい。
でも、傷つけてほしくない。
追い立ててほしくもない。
狼に、人間の都合だけを押しつけたくもない。
だから結局、言えたのはそこまでだった。
メルセナは少しだけ沈黙した。
「戻る指示は出しましたね」
「はい」
「ただし、報告方法は曖昧です」
「……はい」
「今回は、それで試しましょう」
「いいんですか?」
「今のあなたが、狼に無理なく伝えられる範囲です。最初から完璧な指示を出そうとして、かえって不自然になるよりはよいです」
リオルは小さく頷いた。
狼はもう一度鼻を鳴らした。
次の瞬間、低く地面を蹴り、柵の隙間を抜けるように外へ出た。
安全範囲は狼を閉じ込めない。
狼は一度だけ振り返り、それから森の方向へ走っていった。
リオルはその背中を見送った。
見つけたら、戻ってくる。
そう思っていた。
※第4話「狼は羊の毛だけを持ち帰る」は全三回です。
続きます。
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※ネタバレ範囲にご注意ください。
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