第31話「飛んできたもののこと」
「ぐるるるる、わんわんわん!」
ゲリがさらに追い立てるかのように威嚇して鳴きました。
「あん? おれっちのナイフが止められただと!?」テプタタが眉間に皺を寄せながら言いました。指の関節を鳴らします。「何者だ、ごら」
気に食わなかった、テプタタからさらに数本のナイフが連続して投げられます。黒い袖の内から覗く死人のように青い手は着ていた黒いマントを翻らせてナイフの勢いを殺しました。床にそれらが鈍い金属音を立てて散らばります。
「ああああ、あれは間違いない! 『南方の使者』だ!」カケンが定まらない視点の中で微かにその姿を捉えて言いました。すっかり腰を抜かしていました。「頭がいてえ! 何も考えられねえ……」
「噂通りの姿だ! 赤子を攫いに来たんだ!」スイケンがそう言ってがたがたと震え出します。「だがカケン、俺たちが慌てることもねえさ! 狙いは赤ん坊だけだろうが!」
「ロップルの話なんてあてになるか! あいつはたまたま助かっただけで、取って食われちまうかもしれねえぞ!」
「ひええええ」スイケンが怯えて顔の前で円を描いてから十字を切って祈り始めます。「神様、助けてください。『清く正しく真の絶対者たるエーレアよ』……」
最初はひとりかと思った、その影法師は後ろからもうひとり現れました。
青く細いその手がそれぞれフードをとると美しい女性の顔が二つ浮かびました。ですが不気味なことにどちらも同じ顔をしているばかりか、さながら人形のような継ぎ接ぎの口が耳まで裂けているのでした。まるで分裂してみせたみたいでした。
さらにその内のひとりが掴んだナイフを手の内だけの動きで投げ返しました。放たれた一閃がテプタタの頭部を貫きました。赤い液体がテプタタを覆って、彼の姿が見えなくなりました。
「おい、テプタタ!」シュナイザーが叫びます。ですが、彼ももうテプタタのことを心配している余裕はありませんでした。目が回ってしまって膝から崩れます。「『使者』が……もう来たのか……」
「──こ、こいつはたまげた。危うく残尿がこぼれちまうところだ」テプタタはどすんと尻もちをつきました。貫かれたのは帽子でいて、背後の酒瓶を割りましたが間一髪すれすれのところを助かっていたのです。「とんでもねえ客が来たもんだ。うちの酒場の雰囲気にふさわしくもねえ……ん?」
すると使者たちの黒ずんだ爪が張り付いた青い指が、泣いているイーラーケルの方に向かって差されました。それからその口がぬるりと開きます。酸のような唾が垂れて床に転がったナイフを溶かしました。
「「「見ツケタ!!」」」
三つの影がそう言うと一斉に手を広げて滑るように襲い掛かってきました。客たちはそんな異変に微動だにしないで酒盛りに勤しんでいます。
「わんわん!」
ゲリが鳴きながら果敢に立ち向かっていきますが、すぐに跳ね飛ばされて壁にぶつかりました。己の無力さにゲリは泣いて壁を濡らしました。
視界が渦を巻いて起きる眩暈と頭痛にシュナイザーは一向に動けなくなっていました。ドトも呼吸を荒くして横たわっています。目の前にも誰かが寝ているのが見えました。
「きゃあああ! 来ないで!」
辛うじて動けたシャンティはイーラーケルを強く抱いて酒場の隅に逃げて距離をとります。マークガーヤがなんとか制止しようと手を伸ばしますがすんなりと払われてしまいます。
シュナイザーはシャンティの悲鳴を聞いて唇を嚙みしめ、なんとか立ち上がります。
「目を瞑れば、少しは空気の乱れを頼りに戦うことができるかもしれない」シュナイザーは影の前に立ちはだかり、剣に手をかけます。「感覚を頼りに切る!」
けれどもシュナイザーは感覚が随分と狂わされていました。
使者のよく切れそうな鋭く尖った指がシュナイザーの喉元にまで迫ったそのときです。影が何か固いものを踏みつけたようで一瞬、躓きよろめきました。その瞬間を逃さず、下からぬっと現れた拳が先頭の使者の顎目掛けて飛び出し、砕いたのです。
「お前、どこに目付けて歩いてんだ!」酒癖の悪い荒々しい声が響きました。ラチュウでした。さらに立ち上がったラチュウは血の混じった唾を吐きます。「怪我人の僕を踏みつけるなんて、失礼しちゃうよ!」
ラチュウは殴った相手が女性の顔をしていることに気付いてはいません。なので躊躇せずにまた思い切り使者を殴りつけました。手応えはあったようで使者のふたりが連鎖して倒れます。
酒場が「今度はあいつ本当に喧嘩を始めやがった」と沸き立ちました。客はどうしてかはわかりませんが、この事態は認識できているみたいでした。
ラチュウもまたこのぐわんぐわんと揺れる不安定な空間をうっすら肌で感じてはいるようでしたが、酔拳のように酩酊の中で拳を繰り出していたのでした。
正体不明の魔法に苦しめられる、シュナイザーたちの視界が一瞬、強引に修正された気がしました。ラチュウの徒手空拳がこの窮地を打開するものになっていることの表れでした。
ですが、すぐさま、ラチュウの真横の壁に四本のナイフが的確に刺さります。ラチュウをピンでとめるみたいにその場所から動けなくしました。酔いも肝も冷ましてしまうほどの容赦のない投射でした。しかし、それは使者による攻撃かというとそれは違いました。
「お客様。他のお客様にご迷惑になりますので」またもやナイフは女中からの投擲でした。相も変わらず得物をばっちり珍妙な格好で構えています。「喧嘩はお外でお願いしますよ? お支払いは──
すると中腰でその様子を見ていたテプタタが何か閃いたように目を見開きました。そして、腰を摩りながら立ち上がって精一杯の大声で言います。
「ヨハンナ! そいつらのお代ならいい! 喧嘩仲裁料もだ! 喧嘩相手ごと放り出しちまえ!」
「え、よろしいのですか? マスター」
女中のヨハンナが残念そうに答えます。まだ別の意味で料理したりないようでした。
「ああ。まだなんとなくではあるが、違和感を感じる。そいつら、特に殴られた方はこの酒場にはふさわしくねえ」びしっとテプタタは言いました。自分が長年、営んできた店だからこそ感覚的に異変に気付けたみたいでした。『殴られた方が?』とヨハンナが不思議そうな顔をします。「ラチュウ。喧嘩は売られたら買うもんだ。盛大、やってこい」
「ああ! 言われなくてもやってやるさ! ひっく」ラチュウはしゃっくりしながら言いました。「こっちはぐっすり寝てたのに! 寝覚めが悪い!」
「……ではいきますよ」ヨハンナがナイフの刃先をラチュウたちに向けます。ナイフを魔法使いの杖のような触媒に見立てているようです。「追放魔法!」
酒場の風景が目の前から消えました。
シュナイザーにラチュウ、ドト。そして使者のふたりが扉の前の路地にまとめて放り出されました。
「頭痛が引いている!」
シュナイザーが嬉しそうに言いました。視界も正常でした。
ドトは完全に巻き込まれたわけですが、ゆっくりと起き上がりました。
「ようやく変な術が解けたな」ドトが土ぼこりを払いながら言いました。「結局、あの空間の歪みやら頭痛やらは何だったんだ?」
「おそらく酒場にいた全ての者にかけられていたのは、『典型的な風景像に思考が固定化される魔法』だ。そのために普通はイーラーケルとゲリも認識できない。だが、我々は仲間だから初めからこのひとりと一匹がいることが認識できた。そこに思考の固定と柔軟さとで摩擦が生じたんだろう」シュナイザーはこれまでの洞察から考えを語りました。さらに目でドトに合図して剣に手をかけ、引き抜きます。「そろそろ来るぞ」
使者はじたばたともがいてからようやく立ちました。
なんだか初めて立つ赤ん坊のようで、まだその体を使うのに慣れていないみたいでした。
「邪魔ヲするナ。我らノ行ク手を阻めバ容赦ハシナイ。鏖殺ダ」
ひとりの使者が言いました。ぎろりと濁った眼がこちらを見つめていました。
「友よ。イイカラ赤子をおとなしく渡スコトだ、悪イヨウにはシナイ。マサか、アノ赤子を守るトイウノカ?」
もうひとりの使者が言いました。こっちはやけに馴れ馴れしい口調でした。
「ああ。騎士だからな」
シュナイザーが短く言って剣を構えました。本当はろくに剣も握れない手をしていましたが、なんとか気合だけでその重さを支えているのでした。彼だけがこの使者たちについて正確に理解していました。
「僕も騎士だからな!」ラチュウは拳を握りしめました。目が泳ぎ、千鳥足でしたが達人のような間合いにも見えました。「ひっく……だけど赤子が何だって? 今はあの子のために戦うんじゃない! 僕の矜持のためだ!」
「あっしは馭者だ!」ドトは懐から鞭を出しました。それは彼が人生で最も慣れ親しんだ仕事においても戦闘においても武器となる道具でした。「訳がわからねえが、あの子をやろうってんなら、そうは問屋が卸さねえ。あっしが無事に送り届けるって誓ったからな!」
その返事を聞いて、ばっとシュナイザーたちに向かって使者が花のつぼみが開くように手を開きます。
ひとりは片手、もうひとりは両の手でした。
「ソウか。あの方の意ニ背クナラこの手で壊して進ムダケノことだ。身体改造魔法:剣」
ひとりの使者の片手が剣に変わっていきます。お前の相手は自分だとシュナイザーは挑発されているようでした。
「いいぜ。乗ってやる」
シュナイザーはさらに深く構えると左から弧を描くように飛び出しました。それこそ一撃で片がつくように。
もうひとりの方には両の手の掌に魔力が集中されていきます。
「友よ。短い間ダッタガありがとう、サヨウナラ。君たちハ勇敢でそして無謀デアッタ! あの方にヨロシク伝えておこう! 氷魔法! サラに!」ひとつ氷の礫を発射したとき、魔力を貯めていた片方の手に鞭が巻き付いて唱えられるはずの魔法を打ち消しました。ドトが射程から外れるよう逃れながらも放った一振りでした。「なっ──
「へへ、前置きが長いってんだよ!」
ドトがぐっと鞭を握ったまま言いました。引っ張られるもその場で持ちこたえます。
「おりゃあ!」ラチュウはまっすぐ飛んできた礫を拳で粉砕しました。ものすごい力技でした。そのまま真向勝負を仕掛けて殴りつけます。「食らえ!」
拘束された使者は格好の的でした。腹に盛大な一撃をもらって吹っ飛ばされましたが、なんとか倒れずに持ちこたえます。ドトは器用にも飛ばされる瞬間に巻き付いた鞭をしゅるると引きはがしていました。さらにラチュウは追いかけます。
「アイツめ、シテヤラレたな」
片手を剣に変えた使者がそれをちらりと見てこぼしました。相手は近接戦を仕掛けているのに間合いに入られたからだと冷静に分析していました。ですが、同様の危機がすぐ目の前にまで迫っていることは計算にいれていないようでした。計算にいれられるわけがありませんでした。最期の瞬間はあまりにも前触れもなく早すぎたのです。
風がふっと吹きました。
──ギャラル流剣技・円虹!
ずばんと体が真っ二つに切られ、ぐらりと使者の身体が傾きます。
「ば、馬鹿な。速スギル!」
シュナイザーによって重く叩きつけられた剣は、使者が身体を改造してまで作った剣を砕き、さらに真髄にまで達したのでした。
「おい、よそ見してる場合かよ」
シュナイザーは剣を突き立ててとどめを刺しながら言いました。彼の手はじんと痺れていました。血の滲んだ包帯がよれて取れかかっていました。意外と大したことのない敵だと血を振り払いながらシュナイザーは思いました。
シュナイザーがラチュウの方の戦いはどうなっているかと目を向けたとき、酒場の屋根の上からふっとひとつの人影が降りていって姿を消したのが視界に入りました。
──たしか、酒場には階段があった。二階があるなら、もしこれが陽動ならまずいことになる!
「ラチュウ、ドト! そいつは任せた!」シュナイザーが酒場の扉に手をかけながらふたりによく聞こえるように言いました。「私はイーラーケル殿及びアーファンルンク家の保護を優先する!」
「ああ、そうしてくれ!」とドトが、「これは僕の喧嘩だ、気にせず行け!」とラチュウが答えました。
「ヘエ、友よ。君たちはラチュウとドトと言うノカ」ニヤリと笑ってから使者は言いました。「マダマダ、コノ戦い楽しめソウだ……」
聞こえてきた使者のその言葉にぞっとしながらもシュナイザーはぐっと力を込めて扉を開けました。
「ホウ、勘付きヨッタか……」
三人目の使者が下まで降りてきていました。
「やっぱりか!」
それは最も大柄で最も冷たい肌の色をしていました。カケンが、応戦したらしく手に剣を握ったまま、その首が今にも引きちぎられんとばかりに使者に片手で掴まれて高く持ち上げられていました。マークガーヤが身を挺してシャンティとイーラーケルを守っているのが見えます。
「シュナイザー!」
マークガーヤがシュナイザーを見つけて言いました。その顔は恐怖で引きつっていました。
「今、行きます!」
駆けだそうとしたところ、今度はさすがにテプタタからのナイフは飛んできませんでしたが、代わりにもっと嫌なものが道を阻むように宙を舞って飛んできて、足にどすっとあたりました。
「これは──
シュナイザーはどれだけ嫌でもそれを確認することになりました。
緑のぼろ衣の頭部に広がるべっとりとした赤い染み──それはすでにこと切れたスイケンでした。




