第30話「酒場ではよくある風景のこと」
「お前たち、まさか──
シュナイザーはカケンとスイケンのふたりを睨み付けてからそこまで言うと顔を横に振りました。
──いや、疑わしいのはこのふたりじゃない。もっと広く物事を捉えろ。
そのとき、ぞわっと寒気がして、シュナイザーは辺りを見回します。何もいませんでしたが、それからなんとなく彼は店内を舐め回すように見てみることにします。
騒がしい客、依頼書だらけの壁、隣に座るアーファンルンク家、鼻を小指でほじるテプタタ、足元で腹を見せて眠るゲリ、我武者羅動く女中、酔いつぶれたラチュウとドト、仮面に剥製──やっぱり『典型的な酒場』の風景がそこにはありました。ですが、じっと一点を見つめているとどことなく違和感の波が押し寄せてくるに気付きました。起きたまま金縛りにあったように動悸が激しくなって居たたまれなくなってくるのです。
シュナイザーはイーラーケルの方を見ます。彼もまた何か感じているようで目が合うと眉をぴくりと動かしてマークガーヤの腕の中で溺れているみたいにもがき始めました。
「あいあーい、あー」
イーラーケルは何かを訴えているみたいでした。
「…………おっと、イーラーケル。どうした?」
マークガーヤが零れ落ちてしまわないようにおろおろ対処していると、すぐにイーラーケルはぴたりと動きを止めました。その視線の先には扉がありました。まるで外に出たいとでも言っているみたいでした。そしてそちらへ手を伸ばすのです。
──やっぱりそうだ。この酒場自体にこそ秘密がある。イーラーケルも何かを感じたんだ。まさか、なんらかの魔法の影響か……?
「……どうかしたか?」
「いや、いいんだ……少し思うところがあってな」シュナイザーが視線を戻しながら言いました。イーラーケルの反応、カケンの証言からも『南方の使者』が近くにまで来ているのなら、酒場が既に魔法の影響下にある可能性は十分に考えられます。イーラーケルの身も危うくなってくるため、一刻も早く、酒場から引いてはこの町から出るべきです。「場所を変えないか?」
「話をしたいと言ったり、場所を変えたいと言ったり勝手なことを言うもんだな、兄ちゃん。まーだだよ。まだ酒が残ってる」スイケンが手に持ったジョッキを揺らしながら勿体ぶって言いました。「急ぎじゃないんだろ? ゆっくり飲みながらしっぽり話そうや」
「奢ってもらえるってんならまだ食い意地はりてえってとこだしな。飲兵衛にとっちゃ『夜が主戦場』だ」カケンがどっしり構えて歌の一節を引用しながら言いました。まったく動こうとはしない姿は彫像のようでした。「俺らは酒蠅のカケン・スイケンと呼ばれたふたりだぜ? 盛大たからしてもらうから覚悟しな」
彼らは骨の髄までしゃぶりつくそうとしているみたいです。まさに酒蠅根性です。
──そうやすやすとは乗って来てはくれないか。だがロップルとやらから聞いたという話。ある程度、聞きたいことのほとんどが含まれていた。情報の真偽が重要にこそなってくるが、それはむしろ彼ら以外によって裏付けられるというもの。
「ああ。そうしたいところだが、私たちはもう悠長にしていられなくなった。気付かせてくれて感謝する」シュナイザーが潰れているラチュウとドトを揺らして起こし始めました。「安心しろ、金なら払うさ」
「なんだ、テプタタか? もう少し、寝かしてくらよ。疲らたんだよ」寝ぼけながらドトが言いました。呂律が回っていませんでした。「あっしとお前さんの仲らろ?」
「テプタタじゃない、私だ! シュナイザーだ! さっさと起きろドト」シュナイザーはそう言ってドトの頬をぺしぺしと叩きます。『もう食べられないよ』とドトはよくわからない文言で鳴きます。「もうここを出ないと取り返しのつかないことになるかもしれないんだ!」
「え? 何かあったんですか?」
シャンティがそれを聞ききつけて訊きました。両手で服の胸のあたりをぎゅっと握って皺が寄っています。それは自身の心臓の鼓動を直接抑え込もうとしているみたいでした。
「…………大丈夫か? まるで何かに追われているようだが…………」
マークガーヤにそのように言われて、シュナイザーはすかさず襟を正しました。
シュナイザーはアーファンルンク一家を保護するべき対象として、自分の命よりも優先される位置に置いていました。もちろん、マークガーヤに協力してもらって倒木を除去したり、シャンティが自分を助けに戻って来てくれたりしたことはわかっていました。ですが、それを『一方的に迷惑をかけた』と認識し、巻きこんでしまっているために『もう二度と彼らには頼らないようにしなければならない』とまで考えていました。
彼は出発前より余計な不安をかけさせることを過度に避けようとしていました。それは黒い森の件について黙っていたことにも現れています。あの森の件がありながらも、なおも自分が先頭に立ち、森の中を枝を間引きながら進むように、これからの旅も自分が矢面に立って不安要素を取り除いていけばいいと考えていました。それは自分の腕への自信と一家への気遣いから来る、混じりっ気のない善意から来る庇護欲でしたが破滅への旅路をゆっくりと進んでいると言ってもなんら誇張にはなりませんでした。
シュナイザーは自分では気付いていませんでしたが、このときまだ暗闇の中を独りで旅をしているも同義だったのです。
「ご心配なく、大丈夫です。何かに追われているとしたら……時間にでしょうか。もう遅い時間でしょう? それに少し事情が変わりまして、今夜中にはここを発つことになると思います」シュナイザーはあくまで焦慮の念を顔に現れぬよう努力して、絶妙に調整した声色で言いました。まるで初めからそのことも思案に入れていたような口ぶりでした。シャンティもマークガーヤもこれにはその完璧なまでの繕い方に不安を覚えました。「……そんな顔をしないでください。ただ……もう少しだけ遅れを取り戻すためにも進んでおきたかっただけですよ」
アーファンルンク一家はそれが安心させるためのシュナイザーによる嘘だと見抜きました。カケンとスイケンから何か熱心に話を聞いているのは、内容まではここまで聞こえては来ませんでしたが見えていました。
シャンティはその会話が、あの『ひとまず今日はこうしてなんとか一日目を乗り越えられたことを喜びましょう』とまで言っていたシュナイザーが予定を繰り上げ、早めの出発を決めるほどの動機付けになったことは察しがつきました。マークガーヤも一行のほとんどが傷を負い、酒が入っているにも関わらず出発を強行する姿勢に違和感を感じずにはいられませんでした。
そして、イーラーケルもしきりに扉の方は気にしていても耳だけはこちらを向いていたため全てを聞き感じ取っているみたいでした。
「おいおい。兄ちゃん、ちょっと待てよ。『南方の使者』が来たところで俺たちには害がないんだぜ? 狙われているのは赤ん坊だけだ」
カケンがこっちの宅にまでやって来て引き留めながら言いました。
「なにを無責任な、赤ん坊だけ置いて逃げろとでも言うのか?」
「あ? 何言ってんだ? 赤ん坊なんてこんな酒場にいるわけねえじゃねえか」スイケンがごく当たり前という風に言います。酒臭い息を吐き、ニヤニヤしながらシュナイザーの肩を抱きます。「逃げるための口実か? 兄ちゃん、そういうのはもういいから朝まで飲もうや」
「ん? ちょっと待て。まさか、お前たち、この子が見えていないのか?」
シュナイザーが不審に思って、訊きます。そんなはずはないと素直には言い切れない危うさがあるのでした。
「この子って一体、どこのどの子だい?」そう言われてスイケンが手を擦り合わせながら、さながら蠅みたいにきょろきょろと辺りを見渡しました。それからマークガーヤの方の一点に目を止めるとぐっと目を凝らして見ます。そしてようやく島を見つけた船乗りみたいに声を上げます。「ん? あれ? カケン! 見てみろよ、赤ん坊がいるぜ!」
「なんだって? 冗談もほどほどにって……」カケンもそう言いながら同じ方向を向きました。「っておい、本当だ。おいおい、冗談きついぜ、酒場に赤子なんざ連れて来るか普通?」
カケンは随分と常識的なことを言ったものでした。たしかに酒場に赤子がいるというのは『典型的な酒場』の風景にはなりませんから。
──酒に酔ってるにしても不可解すぎる。イーラーケルに今の今まで気付かないことなんてあり得るのだろうか? むしろ、もの珍しいとテプタタあたりから誰もが反応してもおかしくないだろうに。
「ええん、ええええん」
すると、ここでイーラーケルが泣き始めました。この町に入って彼が泣くのはこれが初めてです。
マークガーヤがシャンティにイーラーケルを抱くのを代わってもらいました。彼女はすぐにあやし始めました。
「おーよしよし。ご機嫌ななめね。お乳が欲しいのかな?」
イーラーケルは泣き止みません。その泣き声を聞いてドトがのっそりと起きだします。ゲリがわんわんと吠え始めます。
それに対し、
「げっ、赤ん坊が泣きだしたぞ」とスイケン。
「それに犬まで連れ込んでた奴がいたのかよ」とカケン。
彼らふたりは反応していました。
ところが、どうでしょう、まるで他の者は反応していないのです。テプタタも女中も客も皆、軒並みいつも通り。こちらに顔を向ける者など誰一人いません。何事もなく酒場の風景が維持されています。
イーラーケルのことが見えていない、聞こえていないみたいです。その目、その耳まで届いていないみたいです。脳が認識できていないみたいです。思考が『典型的な酒場』の風景に固定化されているみたいです。
空間がぐらりと歪んだ気がしました。渦を巻くように見える全てが歪んでいきます。
「どうなっているんだ? この酒場は」
シュナイザーが当惑して言いました。一点を見つめていたら早まった動悸が今度は視点を慌ただしく反らしても収まりませんでした。眩暈を起こしてしまいそうでした。カケンとスイケンも苦しそうに机に肘をつき頭を抱えていました。
「おい、シュナイザー」ドトが言いました。頭痛がするみたいで顔をしかめています。「なんか気分が悪いんだ。眩暈がする」
酒場での話し声が段々と増して、耳に濁流のように流れ込んできます。
一旦、止まったかと思うとドトが椅子から崩れ落ちました。シュナイザーがふらふらと近付きます。
「大丈夫か?」
「ああ……なんとかな。さっきも、一瞬だがこんなことがなかったか?」
シュナイザーにはそれを聞いても心当たりはありませんでした。
ドトはきっとあの国の名前を叫んだ瞬間のことを言っていましたが、残念ながらシュナイザーはあのとき考えるのに夢中で気付けていなかったのでした。
「ぐっ、頭が…………割れる…………」
「え? え? あなた一体どうしたの?」
シャンティはなんともないみたいでした。イーラーケルも同じように無事でしたが、まだ泣いていました。問題はマークガーヤで彼は酷く押しつぶされそうになっているのでした。
さらにその空間をさらに乱すかのように酒場の扉ががたりと開きました。
テプタタがすぐに躊躇いもなく、いつも通り、ナイフを投げました。冷たい死人のような手がぬっと外から伸びてそれを掴んだのをシュナイザーは見ました。




