第23話「床屋でのこと」
「シュナイザー、今回ばかりは少し焦ったよ!」とラチュウ。
「シュナイザー。お前も頑張っただろうが皆も頑張ったんだぞ?」とドト。
「シュナイザーさん、本当にご無事でよかったです」とシャンティ。
「…………お互い、ぼろぼろだな。シュナイザー」とマークガーヤ。
「いあーい、あーい」とイーラーケル。
「わふわふ」と──?
皆が誰一人欠けることなく、ありがたいことにシュナイザーの意識の回復を祝って一斉に喋るものですから、顔が自然と綻んできます。ですが、それをアールヴァクみたいにぶるぶると顔を振って振り払います。見覚えのない子犬のような黒い毛むくじゃらが礼儀正しく座って舌を出して人懐っこそうに呼吸しているのですから。
「ちょっと待ってください。その子犬はどこから──
シュナイザーはそう言いかけたときに毛むくじゃらの獣が彼の胸の上に飛び乗りました。そうして顔をぺろぺろと舐め始めます。「おい、ちょっと。くすぐったいぞ。やめろ」
「はいはい。また傷が開いちまうからな。あっち行っててな」ノンが頃合いを見て、その子犬のような獣を抱くとほれと床に放しました。くーんと鳴いてからその毛玉は駆けて行ってシャンティの足の後ろに隠れました。「まだしばらくは安静だ」
「こら、ゲリ。おとなしくしてないと駄目でしょう?」
シャンティが軽く叱りました。彼女の顎あたり皮膚の創傷はガーゼで止められ隠されていました。またその獣──ゲリはくーんと鳴きまして今度はマークガーヤの後ろに隠れました。
「ゲリって……もう名前までつけてるんですか?」
シュナイザーが驚いて言いました。
「…………ああ、皆でつけた」
マークガーヤが答えました。彼は至るところに包帯を巻かれてミイラみたいになっていましたが、隙間から覗く顔色は元気そうでした。
「この犬っころ、可愛いのなんのってな」ドトが穏やかに言いました。「ゲリって名前もイカしてるよ」
「シュナイザー……僕から説明するよ!」ラチュウが前に出て言いました。「このゲリは僕が黒い森で切ったオオカミの子どもでね……まだ息があって、シャンティさんがどうしてもって言うからここまで運んだのさ……」
ラチュウが喋り出すとゲリがぐるると喉を鳴らして唸りだしました。手を出そうものなら噛みつかれそうでした。彼は苦しい表情を浮かべながら、あのときのシャンティの言葉を思い返していました。
「それと我儘になるんですが──あのオオカミも一緒に助けてあげてくれませんか?」
地面に転がっている子オオカミを指差しなら言うシャンティにラチュウは「本気ですか?」と返しました。
「はい。森に入ってさんざ荒らしてこの子たちを刺激したのは私たちでしょう?……それにこの子には罪はないと思うから」
ラチュウは回想から帰ってきました。
「てな訳で、僕はこの通り相当嫌われてしまってるけどね! 他の皆には懐いちゃった!」
ゲリはその匂いからラチュウを自分を切った者として認識して嫌っているみたいでした。
「……あんたたちがあの森をわざわざ抜けてきたと聞いたときはびっくりしたよ。しかもオオカミまで連れてくるんだから」ノンが言いました。皆が気恥ずかしそうに笑いました。「そりゃ、あたしじゃないと取り入ってもらえないだろうさ」
「──そう言えば、どのようにして皆さんは森を抜けたんですか?」
シュナイザーがふと気になって訊きました。
皆がそれぞれ語り始めました。ドトとラチュウが主に話しました。
一行は森の出口がなかなか見つからずに困り果てておりました。森は進むごとに黒く濃くなる一方でした。永遠の夜の中に囚われている気分でした。
血を欲して地を這う多くの生き物の息遣いが聞こえました。それらは決して、その爪と牙を突き立てようとはして来ませんでしたが、いつでも使えるように鋭く研ぎ上げていて、気抜けすればいつ襲われるかわからず、皆の神経をすり減らしていきました。
ドトはいくつか森を抜けるための道を知っていました。いくつもの道を試しました。ひとつは切り立った崖に、ひとつは倒木によって閉ざされ、ひとつは黒い沼よりもずっと大きい毒の沼につながっていました。最後に正しいと信じた進路が行き止まりになったことでもはや精魂尽き果てようにその目は輝きを失い、黒ずみました。
「ここもだめか……戻って別の道を探そう」
ドトが限界が近いとはわかりましたが喉から絞り出したような声で提案しました。シャンティは何も言わずにぐったりと瞼の裏の暗黒を見つめていました。
ラチュウは疲れ果てておりましたが、口はまだ利けました。
「そうだな……ドト……」とラチュウは言いました。視野も思考も狭まっていき、やがて森をそのまま水面に映したような暗い顔をしていました。そして黒い大きな染みを眉の上に作って言います。「ところで、ドト……僕たちは本当に森を出る必要があるのか?」
ドトが驚いた顔をしましたが力無く言いました。
「そうかも……しれないな」
手はインクに突っ込んだかのように真っ黒に染まっていました。
そのとき、ラチュウは気付きました。抱いたイーラーケルの瞳孔がまばゆく光り始めたことに。そして、彼がそれに気づいた矢先、イーラーケルは村を出て以来、最も激しく泣き喚きました。飛び散る涙の中にちらりと森にはない黒以外の何かが映ったのをラチュウが見ました。涙が触れた地面には緑が見えました。
「まさか……これは!」ラチュウの視界が開けていきます。黒い染みがすっと引いていきます。青白く冷たい肌が温かみを帯びていきます。さらに檄を飛ばします。「おい、皆! よく目を凝らすんだ! ここは──もう外だ! 森はもはや幻覚だ!」
その言葉を一行は、しかと聞きました。
シャンティが目を開けました。ドトが目を擦りました。マークガーヤが虚ろの眼窩を外へ向けました。
ラチュウは剣を引き抜き空へ掲げました。刀身には緑が赤が白が、色とりどりの風景が映りました。刃先からイーラーケルの目の光を反射して閃光が放たれました。まさに希望の光でした。その瞬間、目の前の闇の森が光の中に吸い込まれるように消えました。
太陽が強く照り付けていました。草の匂いがしました。鳥の鳴き声がしました。指の先から身体が温まるのを感じました。澄んだ空気の味がしました。
背後には黒い森が依然としてありました。皆がそれに近寄らず、距離をとる中、アールヴァクだけは違いました。止まって、耳をぴんと立てて欹てました。シャンティはようやく鐙を踏み、しっかりした姿勢でアールヴァクに跨ることができました。ふうと息を吐きました。
「やっと、出られたのね……」
マークガーヤから伸びた枝が枯れていきます。客室の中で彼は悶え苦しんでいました。
「ぎぎぎぎぎ……ああああ!俺は…………!」
「旦那さん!」ドトが言いました。「かなり苦しんでいるが、意識がしっかり戻ってきたいだ!」
「よかった……森を抜けてましになってきたみたいだな!」ラチュウがほっとしたように言いました。「見ろ、もうヤーバクーは目の前じゃないか」
少し先にフェリペの村よりもずっと大きな町が見えました。
「あとは──シュナイザーだな」
ドトが心配そうに言いました。
「そうだな。やっぱり、ここは僕が……そうだ! その前に奥さん、イーラーケルを……」
そうラチュウが言ってイーラーケルを返そうとしたとき、アールヴァクがくるりと回転すると森に向かって一目散に駆けだしました。
「え──
シャンティは状況が飲み込めないようでしたが、そのまま森へと消えていきました。蛍石も気を使ってその尻を追いかけます。ラチュウが何か言っていましたが彼女には聞こえませんでした。
それから、シャンティとアールヴァクがシュナイザーのところまで辿り着いたこと。ラチュウがオオカミたちと戦ったこと。さらにヤーバクーまで走ってドトとイーラーケルと馬たちを除いた全員がノンの床屋に担ぎ込まれたこと。それらが一巡に語られました。
「軽い者から言えば、シャンティさんの切創。ワン公の切創。ラチュウの肋骨骨折と全身打撲。マークガーヤの指の裂傷に一時的な麻痺と軽度の意識混濁。シュナイザーの顔面と右手の刺傷、左手中手骨骨折、腹部挫創、重度の意識混濁……」ノンがつらつらと手元にあった治療記録を読み上げました。そして一生分の仕事をしたかのように息をふうと吐いてから呆れたように言いました。「にしても、あんたたち、自分の身体大事にしなさすぎじゃないかい? これじゃあ怪我の展覧会じゃないか。治療代。高くつくよ」
その言葉を聞いてわっと騒がしくなりました。
ラチュウはこの先路銀が足りるだろうか、と心配そうな顔をしてドトと顔を見合わせました。シャンティとマークガーヤが一体、どれくらいの額になるのかしらと他人事のように喋っていました。イーラーケルは何も知らずに笑っていました。ゲリは皆の足の隙間をしきりにくぐっていました。
「ノン先生……フィヨルギュン男爵ルーカスの名でつけておくことはできるだろうか?」
シュナイザーが見かねて主君の名前を出しました。
「床屋でつけかい?」ノンが訝し気に言いました。「……まあ、男爵様が支払いを保障してくれてるってんならいいか。あんたはその男爵の何なんだい?」
「騎士だ」頭の横のロケットを取って掲げて見せました。その銀の表面にはよくよく見ると剣とオリーブの木が描かれていました。まさしく帝国の紋章であり、その身分を証明するにふさわしいものでした。「うちの主君は尊敬こそできるお方だがいつも難題をおっしゃるのでな」
「そうかい。あんたも苦労してるんだね」ノンが長い睫毛をぱちくりさせながら言いました。「あとノンでいいよ」
「そうか。わかった。ノン」シュナイザーがノンをまっすぐ見つめて言いました。「今すぐにでもここを発ちたいのだがあとどれくらいで治療は終わるだろうか」
全身が傷だらけなのに加えて、さっき意識が回復したばかりの者が言うにはあまりに性急な台詞でした。
思わず、「何を冗談を」と口走りそうになったノンですが。それを躊躇うほどその目はまさに剣のようで、まっすぐに貫くようにこちらを見てくるのでした。




