第18話「進んだこと、留まったこと」
その威勢のいいドトの返事を聞いてラチュウは頷きました。
そして、ラチュウは前を走っていたアールヴァクに二三言、喋りかけると、それをうまく誘導しながら徐々に速度を落としていって客室のすぐ隣にアルスヴィズをつけました。
ラチュウはアルスヴィズに乗ったまま、手を伸ばして客室の扉をノックすると「今、開けますよ!」と強く言って何度か引っ張ってこじ開けようとしました。怪我をしていたこともあって痛みとの戦いでもありました。
「あ、痛!」ラチュウはそう言って手を引っ込めました。よく見ると、何かが自分の腕に乗って、尖ったもので腕を突っついて開けるのを妨害しているのに気付きました。「ん? 何だ?」
ラチュウは片手で剣を抜くと、空間を裂きました。短く悲鳴をあげて、その何かの黒い血が見えるとそれは後ろへ飛ばされていきました。そしてその何かが羽ばたく音も聞こえました。
「幽霊馬車といい何なんだ……まったく!」困惑しながら、ラチュウは剣をしまうと扉を引っ張り、ようやくそれが開きました。「開いた!」
シャンティの姿が目に飛び込んできました。
どっと客室に入って来る風にシャンティは吹き煽られ、衣服が旗のように揺れました。すぐに彼女は迷わず、イーラーケルをラチュウに渡しました。搔き消えそうな声でシャンティは言いました。
「この……お願い……」
ラチュウは手綱を離して、差し出された、イーラーケルを何とか抱えます。
「アルスヴィズ。少しの間、走るのは任したぞ」
ラチュウはアルスヴィズに語り掛けました。アルスヴィズは嘶きひとつ返しませんでしたが、尻尾をぱたぱたと振りました。
──それだけで十分だ。心強い。
イーラーケルは随分と泣きわめいていましたが、ラチュウに抱えられると段々と落ち着いてきました。
「受け止めました!」ラチュウがイーラーケルを抱えながら言いました。「奥さん、あなたも見過ごせない! そこは危険です! 旦那さんは森に肉体も精神も侵されている!」
シャンティは森のチリか何かを飲み込んだのか、咳込みました。
「ええ……でもわたし……どうしたら……」
シャンティは咳込んでからようやく声が戻ってきていました。ですが、左からは森に汚染されたマークガーヤ、右には風が吹き流れていく黒い森、どちらも森に囲まれていて逃げ場はありませんでした。
「シャンティ…………一体、どうした?…………何かあったか?」
マークガーヤが耳元近くで言いました。蔓が今度はシャンティの首に巻き付いてきていました。「いやあああ」と彼女が悲鳴をあげます。
「奥さん、あんた馬に乗ったことあるか?」ラチュウは焦りつつも言いました。もはや敬語を使う余裕さえ残されてはいませんでした。「アールヴァクは利口な奴だ! 背に乗るだけでどこにだって走って行ってくれる!」
「馬なんて、わたし、乗ったことないわ!」
すすり泣く中でシャンティは言いました。涙が後ろへぽろぽろと流れていきます。後ろではマークガーヤがすっと何かわけのわからないことを喋っていました。
マークガーヤ側の窓が割れました。彼の左手が窓を突き破った音でした。その手は全ての方向に拡散して一斉に枝を生やしはじめます。この森の枝そのものでした。
「森はいいなあ…………シャンティ…………」マークガーヤの声はまるで洞穴に吹き込む風のようないつもと違うおどろおどろしいものへと変質していきます。「そうだ! スヴェトロノス様に三人いっしょに仲良く住めるようお願いしてみよう…………そうだな…………それがいいよなあ」
「それでも乗るんだ!」ラチュウがそう言って催促しました。焦らせる意図はありませんでしたが、なにしろ時間がありませんでした。木の化け物と化したマークガーヤは客室の外にまで枝を張り巡らせて今にも客室を握りつぶさんとしているのがラチュウのいる角度だからこそわかりましたから。ラチュウはすぐに後ろへ下がって前方の馬を呼びました。「アールヴァク! 来い!」
それを聞いたアールヴァクがシャンティが乗りやすいように馬車の側面につけて並走してくれていました。
すると一度、ラチュウの視界がぐらりと揺らぎました。すぐになんとか立て直します。
──少々、無理をしすぎたか……だが奥さんから受け取った大事なこの子を落とすわけにはいかないからな……
ラチュウにとって馬と自分、どちらが身体に鞭を打たれているか、わかったものじゃありませんでした。身体がガタがきているように思える中で、ラチュウは守らなくてはならない対象に目を落としました。
そこには、なんとも星空のような綺麗な目がありました。ラチュウがその目を見つめると、イーラーケルも見つめかえしてきて、きらりきらりと特大の蛍石のように光るのでした。
ラチュウはこのとき、はじめてイーラーケルの顔を見たのでした。この赤子はこんな騒がしく大変なときなのに、誰とも知らぬ血の匂いがする大人に抱かれているのに無垢な笑顔をこちらへ向けてくるのでした。
──泣かないのな。こういうときは……笑うんだな。
ラチュウは説得の仕方を変えることにしました。ただ一言、シャンティに言ってあげればいいのです。
「おい、奥さん! 赤ちゃんのイーラーケルにだって馬に乗れてるんだ!」ラチュウがイーラーケルを見せながら言いました。「あんたもきっと乗れるさ! 迷わず飛べ!」
シャンティはイーラーケルの無事な姿を見て、涙を拭いました。しかもイーラーケルはこの状況を知らないみたいにいつもと同じ笑顔を浮かべていました。
──そうね。イーラーケル。あなたも馬に乗っているものね。
「自信はないけれど、やるしかないわ」
シャンティはあえてそれを言葉にして、顔を出して下を覗きました。イーラーケルに、そしてラチュウの言葉に勇気をもらいました。アールヴァクの背が見えました。
「何をやるんだ?…………シャンティ…………俺にも教えてくれよ…………」
「ごめんなさい、あなた。それはできないわ」
シャンティはそう言って、機を見計らうと「勝負は一度きり」とさらに言って、意を決して客室から飛びました。飛んだ瞬間、一気に恐怖が襲ってきて彼女は目を閉じました。
「やったな! 奥さん! イーラーケル、お前のお母さん、飛べたよ! よかったな!」
シャンティは混濁した意識の中でラチュウの歓喜の声を聞きました。そして次に恐る恐る開けたその目で見たのは地面でした。ですが、それはアールヴァクの背の上から見た地面でした。彼女はうまくアールヴァクによって受け止められたのでした。彼女の足には何か蔓のようなものが巻き付いていましたがそれはすぐに客室へと引っ込みました。
その頃、シュナイザーは地に臥せっておりましたが息はしていました。偶然、馬の股をくぐり、馬車と地面の間を通り抜け、ラチュウとアルスヴィズがそれをうまく避けられただけに過ぎませんでした。
──……また生きていたか。神に感謝しないとな。
シュナイザーはゆっくりと呼吸を整えていきます。少し前まで遠くでイーラーケルの泣き声がしていましたが、それももう止んでいました。
「ああ。よかったです。お話ができないまま息絶えられたらどうしようかと思いました」しゅるると上からスヴェトロノスが蔓でも伝って来たかのような音を立てて降りてきて言いました。その言葉はまるで書いてある文字をただ読み上げたような、まったくもって人間の温かさがこもってはいませんでした。「本当によかったです」
「……『どうしようかと思った』なんてとぼけて!」シュナイザーはかっと目を開くと、土を払い立ち上がって言いました。彼の強靭な肉体をもってしても体の芯に傷を負っているようでしたが、それを悟らせないほどすくっと立ち上がりました。「お前のような魔物が考えることはすぐわかるさ。あの汚い泥水の沼に私をぶちこむだけだろう?」
立ち上がるとあたりは鬼火の光で包まれていました。鬼火の中にシュナイザーとスヴェトロノスだけがゆらゆらと陽炎のように浮かんでいました。シュナイザーは片目を閉じました。
ラチュウと自分の蛍石に包まれた馬車がもうかなり小さくなっていましたが辛うじて見えました。
──そうだ。そのまま、進め。何があっても。
すると、馬車が消えていったあたりから一羽のピンクのカラスがふらふらっと飛んできて、スヴェトロノスの肩にとまりました。その奇抜な色はこの森の中でとても目立ちました。まるで羽根をみんなむしってしまった生まれたばかりのような姿に見えました。
「おっとっと、魔物だなんて心外ですね」スヴェトロノスが表情ひとつ変えずに言いました。それから肩のカラスの方を向きました。「お帰りなさい、チェルト」
「リーブサマ。ハラヘッタ、ハラヘッタ」
チェルトと呼ばれたカラスが翼で腹を擦って言いました。スヴェトロノスはそのカラスから、リーブと呼ばれているようでした。よくしつけられているようでした。
「そうですか、チェルト。あなたは思えば今回、ずっとあの馬車に付きっ切りでしたもんね」スヴェトロノスは少し考えると名案を思い付いたとばかりに言いました。「そしたらね、こうしましょう。このシュナイザー卿に訊きたいことを全部、訊いたらね。さくっと殺しちゃいますから、そうしたらあなたの大好物のお目目を上げますよ」
「ええい、勝手なことを言って! 私は何も喋らないぞ!」
我慢ならなくなってシュナイザーは剣を抜きました。すぐ切りかかってもよかったのですが、あまりにもスヴェトロノスが不穏であったがために相手の出方をずっと窺っておりました。これ以上、不覚をとるわけにはいきませんでした。
ですが、シュナイザーはまるで鳥籠の中にいれられているみたいでした。どれだけ鳴いて、わめいても流されて、まるでスヴェトロノスとチェルトの相手にはされていませんでした。まるっきりシュナイザーを無視して彼らは話を続けます。
「おや、あなた羽根を怪我しているじゃないの!」
チェルトと話していて、スヴェトロノスがふと羽根が一部切れていることに気付きました。そこからそのピンクの翼に黒い血が滲んでいました。
「キラレタ、コイツノナカマ、ナハラチュウ!」
反対の翼で器用にシュナイザーの方を指さしてカラスのチェルトは言いました。ようやくシュナイザーに関心が戻ってきました。
「おっとっと、お可哀想に。すぐに止血の魔法をかけてあげましょうね」シュナイザーの方をちらりと見てから、すぐに杖をゆるりと傾けるとスヴェトロノスは魔法を使いました。「止血魔法」
緑の光がチェルトの翼を包みました。見た目ですぐ判断はできませんでしたが、血がとまったようでした。「アリガトウ、リーブサマ」とチェルトは律儀にお礼を言っていました。それにスヴェトロノスは不気味な微笑みをもって返事としていました。
そんな様子を見ていて、シュナイザーは不思議に思いました。
──どうして、そんな魔法を、こいつが?
止血の魔法なんて僧侶や賢者が覚えるような優しい魔法を魔物が覚えているのを初めて見ましたから。
そうして、スヴェトロノスはまっすぐこちらへ向き直りました。トウヒの杖を地に打ち付けると八つの鬼火がそれの背中の後ろで回転していました。チェルトが察したように飛び上がって、近くのふたりの様子をよく見通せるような、木にとまりました。
「さて、はじめましょうか……喋りたくないなら黙っていていただいて結構です。もし黙っていられるのでしたらね」スヴェトロノスは含みを持たせる言い方をしました。それの影が大きく縦に伸びてまるで巨人に見下ろされているかのような気分にさせました。「そんなに素直じゃない人には体に訊くだけですから」
ついに戦いが始まることをシュナイザーは悟って、足をしっかり踏みしめました。




