第17話「事態が急変したこと」
一行はそれはそれは長い間、この黒い森におりました。
シャンティは何年も太陽の光を浴びていないような気がしました。
「ねえ、ドトさん。いつになったら外へ出られるの?」
シャンティは数分進むごとにそのように訊くようになっていました。その度にドトは「もう少しですから辛抱してください」と返すのでした。シャンティはもう限界が近いみたいでした。それでも彼女は夫を気にかける余裕はまだ少し残っていました。
マークガーヤは「大丈夫?」と妻から訊かれるたびに「ああ」と返事を返していました。やがてイーラーケルをシャンティに任せると言って顔を覆って返事もしなくなりました。彼の左手にはぷつぷつと黒い斑点ができはじめていました。
ドトもこの黒い森の比較的安全な経路を知ってはいますが、普段からここを好んで通ったりは絶対にしませんでした。
先ほど、ラチュウが相まみえたような木の化け物しかり、数々の人間にとっての怪異がこの森では生態系を築いておりました。ですが、そのほとんどがこの屈強な騎士ふたりと、立派な馬、そしてそれらが測り知れない『何か』の存在から手出しができないようでした。ただその『何か』を確かめようと近付く影が一行には迫っていました。いえ、気付かぬうちにですが一行の方がそちらへ向かっていたのです。
半時間ほど進んで、まず先頭を走っていた、シュナイザーが道の左側に『黒い沼』が広がっているのを見つけました。
「やっと……やっと出られそうだな」
シュナイザーは手綱をとった両の拳を強く握りしめて言いました。ですがここからが本当に気合を入れなければならないことを彼はわかっていました。
──このまま、何事もなく森を抜けられたらどれだけいいか……
シュナイザーはかつてないほど警戒してその五感を研ぎ澄ませていました。
『黒い沼』はやや森のトウヒの木の樹冠に隙間があるためにそこから入り込んだ何年もの雨水が一か所に溜まってできた底なしの沼でした。この沼は森の出口付近にあることからよくこの森をいく命知らずの旅人たちの目印にされていました。シュナイザーが最大限に警戒するのはこの沼を根城にするある魔物でした。
「おっ、『黒い沼』だ!」ドトもその沼を見つけて嬉々として言いました。前を向いたままでしたが汗を拭いながら客室に呼び掛けます。「奥さん、旦那さん。お待たせしました。本当にもうすぐ出られやすぜ!」
「ええ……本当? 早く外へ出たいわ……もうこんな真っ暗なところごめんだもの……」シャンティがやつれ気味に言いました。何か葉が擦れるような音が聞こえましたが、彼女は相変わらず、小窓に枝があたっているだけだと考えて無視しました。「ねえ。あなた」
「……………ぃゃ……っ……」
何か小さな声でマークガーヤがぶつぶつと喋っていましたがシャンティにはよく聞こえませんでした。
左手だけを隣に伸ばしてシャンティはマークガーヤを揺すります。何か葉っぱのようなわしゃわしゃとしたものに触れました。シャンティは嫌な予感がしつつも、夫の方に目をやりました。
マークガーヤは真っ黒な葉っぱの中に埋もれていました。顔を覆っていた手の指という指から茎が伸び、草が生え、花が咲いていました。耳からは樹液が垂れて虫がたかっていました。黒い髪はまるっきり黒い葉っぱへと変わって木の枝が生えそこには実がなっていました。苔むした足は木の幹になって太くなり、つまさきからは根が張り、ところどころに茸が生えていました。
それからマークガーヤは顔を起こしその目をシャンティに向けました。マークガーヤの目はシャンティを見つめているうちに段々体の中に吸収させるように小さくなって無くなって、木の虚のような眼球のない真っ黒な空間へと変わりました。
「ここで暮らすのも悪いことじゃないかもしれないよ…………シャンティ…………」
口調はそのまま、優しいマークガーヤでした。蔓のようなものを背中から伸ばしました、それがシャンティの伸ばした手の薬指に巻き付きました。
「………………!?」シャンティはあまりの恐怖で声も出せませんでした。彼女はその蔓を引きちぎると、ガバッとイーラーケルを守るような姿勢で丸まりました。「………………!」
「うえええええええええええん。えええええええええええん」
イーラーケルがそのように泣き始めました。
その泣き声でドトも後ろで起こっていることに気づきました。
「おい、ふたりとも! 一家が大変だ! 旦那さんが、旦那さんが木の化け物になった!」
ドトは叫びました。スキンファクシとフリームファクシも共鳴するように嘶きました。
「なにっ!?」
シュナイザーがすぐに反応して振り返りました。そして前を向きます。既に一筋の光明が見えていました。あれはきっと出口です。もう目の前に出口が見えています。
──迂闊だった。たしかに奴が仕掛けるなら、あの一家の方だ。だが何が起こったにせよ、ここまで来たのなら……
「……ようし、全速力で走り抜けろ!出口はすぐそこだ!」
森さえ出てしまえば、勝ちだとばかりにシュナイザーは叫びました。森さえ出れば手の打ちようはいくらでもありました。彼は一刻も早く、この森をあとにすることが最善であると森に入った当初より考えていました。それは自分たちに忍び寄る影について心当たりがあったからでした。
──スヴェトロノス……あいつとはまともに戦うことは避けたい……
そのときです。耳元で何者かが囁きました。
「おっとっと、シュナイザー卿。お急ぎのようですね。一体、どちらへ?」
それから先に見えていた光明が九つほどに分裂しました。出口だと思っていた光は無数の鬼火だったのです。その鬼火の奥には今までに見たことないようなどっぷりとした暗黒の闇が広がっていて、さらに黒く顎のない馬に引かれた棘のついた赤い血のような色をした馬車が躍り出て、シュナイザーも後方の馬車もラチュウも全てすり抜けて颯爽と駆け抜けていきました。
そして、シュナイザー駆るアールヴァクの頭の上にそれは音もなく乗っていました。
大きくごとごつとした毛の生えた足、身体を包む真っ黒なクマの毛皮で出来たローブ、毛むくじゃらの手に握られたトウヒの杖。それに、耳まで裂けた口、鬼火のように光る赤い目。
「馬上では話は、し辛いですからな。少し降りていただいてもいいですかな?」
──こいつ!スヴェトロノ……
シュナイザーはすぐに腰の剣に手をかけていました。それよりも早く、また答えを聞く前にスヴェトロノスはアールヴァクからシュナイザーを杖の先で突き落としました。
──くそっ不覚を取られた!
シュナイザーは地にどっと転がりました。彼の世界がぐわんと揺れて、衝撃が内臓にまで響きました。スキンファクシとフリームファクシの蹄が、馬車の車輪が目の前に迫ってきます。一瞬、時間が過ぎるのがゆっくりになりました。シュナイザーは死を覚悟し目を瞑りました。
──ああ、ラチュウ……後は任せたぞ……
「何だったんだ、今のあれ!?」ドトが自分たちの身体を通り抜けていった幽霊馬車に驚き、余裕もなく、叫びました。自分自身の鼓動の音が聞こえます。そして背に誰も乗っていないアールヴァクだけが目の前を走っていることに気づきました。「シュナイザーが消えた!?」
「おい! ドト!」
ラチュウの声が聞こえました。
「ラチュウ! これは一体、どうなってる!?」
「あいつ、アールヴァクから落ちたらしい! 上手いこと、僕は避けられたけど!」ラチュウが声を張り上げて言いました。身体中の傷が痛みましたがそれどころではありませんでした。そして一度、身体が悲鳴をあげるのを覚悟で上体をわずかにそらし、後方を確認しました。案の定、口から血が伝いました。「今も倒れている! どうなったかはわからない!」
「……ど、どうする? 馬車をとめるか?」
「ああ……」ラチュウはドトに同意しようかと思いましたがすぐに考えを改めました。「……いいや、このまま進むぞ!」
「しかしな……あいつが無事かどうか──
「迷っている暇はない! あいつが全力で走り抜けろってそう言ったんだ!」ラチュウが馬車より前までパカパカと駆け上がって来てドトの心配さえも跳ね除けるような強い口調で言いました。「僕は今から一家を助ける! お前は運転に集中しろ、ドト!」
「わ……わかった! よし、スキンファクシにフリームファクシ! 最後まで走り抜けるぞ!」
ドトは気合を入れて今一度、手綱をしっかりと握りしめました。
──頼むから無事でいろよ、シュナイザー! 一家のことはあっしらに任しとけ!
ドトはそのように思いながら馬車を走らせるしかありませんでした。




