第14話「黒い森のこと」
シュナイザーは出発するとすぐにハッとしてラチュウの元に行きました。ラチュウはシュナイザーが来てもしばらくそっぽを向いていました。子どもが喧嘩をしているみたいでした。
「さっきはすまなかった。その、殴ったりして……」
ラチュウはその謝罪を聞いて、そっぽを向いていた顔をあっさりとこちらに向けました。シュナイザーがこんなにすぐに謝るなんて想定していなかったからです。
でも、その後すぐに自分が彼をからかったことがこの喧嘩の発端だと思い出して、そんな風に謝まらせている自分が客観的に見れば、ひどいやつに思え、段々と恥ずかしくなってきました。
「……いや、気にしないでくれ!僕の方こそ悪かった!僕が少し調子に乗りすぎたんだよ!」
ラチュウは赤面して、焦りながら言いました。謝罪も忘れませんでした。
「それは本当にそうだ」
シュナイザーがそれに対し、即座に真顔で返しました。
「なんだよそれ! また喧嘩したいのか、仲直りするのかどっちだよ!」
「……ともかく、こんなところで喧嘩をしている場合じゃないと思ったんだ。ひょっとすると私たちの喧嘩は……『黒い森』の妖気にあてられたせいかもしれない」
シュナイザーは至って真剣でした。冗談を言っているようには思えませんでした。
「お前! 大真面目にそんな……」ラチュウは妖気になんて責任転嫁をするなんてらしくない、と反論しようとしましたがすぐにやめました。「いや……否定できないな……前より、力を増しているってか!? やっぱりあの一家に森のこと、きちんと説明しておいた方が良かったんじゃないか!?」
「お前は村を発つ前からその意見だったな……」シュナイザーは噛みしめながら言いました。「だが、変に怖がらせることになるだけだ。森はそんな心にまで取り入って来る。それなら、さっさとあんな森抜けてしまえばいい……」
「あの森は普通に入るだけでも結構怖いぜ?」ラチュウはもしかしたらシュナイザーがこれまで修羅場をくぐりすぎて感覚が麻痺しているのかと疑いました。「……そもそも森を迂回するって発想は無かったのか?」
「私だって暗いのは怖いが、それを最小限に抑えるために私たちは蛍石を持っているだろ?」シュナイザーは諭すように言いました。「迂回か……目的が帝都観光ってならそうするさ。今は順路を選り好みしている場合じゃないだろ?」
「まあ、それもそうだな……わかったよ!」
「頼りにしている、ラチュウ。それにアルスヴィズもな」シュナイザーはアルスヴィズに微笑みかけて言いました。「私はこれまで通り、先頭に立つ。ラチュウは後ろについて馬車を守ることに専念してくれ」
「ああ! アーファンルンク一家の命を守るのが何よりも優先される! そのために身を粉にして働くのみだ!」
ラチュウはそう言って息巻きました。『身を粉にして働く』という言葉は彼のお気に入りの言葉みたいでした。それはたぶん彼の出自に関係しているのだと思われます。
「ああ、その通りだ」シュナイザーが目を瞑ったまま言いました。「ただし、どうしても助けがいるときは呼ぶ。お前もそうしろ」
「おうよ!」とラチュウが拳を掲げると、シュナイザーもすっと拳を掲げて先頭に走っていきました。こうしてふたりの騎士の短い喧嘩が終わりました。
丘陵を抜けて『黒い森』が目前まで迫ってきていました。次第にその森がこれまでとは違う異様さを持っていることがわかりはじめます。黒い名もわからない不気味な鳥の大群がばっと飛んでいきました。
トウヒの木が光を求めて我先にとその枝を天に伸ばして生えて、それが曲がり、絡まり、幾重にも折り重なってアーチのようになっていました。それは、まるで自分だけ天上にまで至って助かろうと他者を蹴落としながら這いあがる亡者の腕のようにも見えました。森にぽっかりと生まれた天然の隧道は巨大な魔物が口を開いて待ち構えているみたいでした。
シュナイザーは馬車よりやや先行した位置につけていましたが、アールヴァクの歩みは黒い森に近付くにつれて遅くなり、ついにはもう手を伸ばせば木々に触れられる距離にまで来たというのにその足はぴたりと棒のように動かなくなってしまいました。アールヴァクは左右の目の焦点が合わず、耳をしきりに小刻みに動かしていました。
「アールヴァク……どうした? しっかりしろ」
シュナイザーは口ではそう自分の馬を励ましながらも、その異質さを肌で感じ、全身に鳥肌が立ちました。風が止んでいます。まるっきり風が吹いてきません。
──黒い森……魔の森か……やはり、その脅威は以前より増していると見るべきか……
この言語化できない本能的な恐怖を人間の自分でさえ目で耳で感じ取れるというのに、より敏感で繊細な動物の馬が感じ取ることができないわけがありません。
それどころかアールヴァクの黒い目の奥には、その目よりもっとどす黒い何かが映っているのかもしれませんし、小さく尖った耳には地の果ての暗闇から響いてくるような不快な音を捉えているのかもしれません。
──だが、そうだとして私が頼りなくてどうする!
「アールヴァク。大丈夫だ。私がついている。後からお前の親友のアルスヴィズも来る」そう撫でるような声でシュナイザーが言うと、アールヴァクはその蹄で一歩ずつ堅実に進み始めました。「よし、その調子だ。えらいぞ」
アールヴァクがもう大丈夫だとわかると、シュナイザーは後ろを半身に振り返って言いました。
「皆さん、ここからこの森はしばらく続きます!」シュナイザーは何があっても驚かないで、という言葉を言いかけて飲み込みました。「……注意して進むことにしましょう!」
──そうだ。余計な心配をさせる必要はない……ただ通り過ぎればいいんだ……
シュナイザーは胸についている宝石をとって掲げるとそれは宙に浮いて少し先までですが見通せる闇を照らす光になりました。それは先ほど、ラチュウとも話していた蛍石で名前を『旅人のための蛍石』といいました。シュナイザーはアールヴァクとともにほんの一足先にですが黒い森に入りました。
すぐに馬車も黒い森に入りました。ドトも一瞬、背筋にひやっとしたものを感じましたが、そんな感覚が来ることはわかっていたので左右の頬を順番に叩いて振り払い、気持ちを軽くました。スキンファクシとフリームファクシも入るにあたってわずかに狼狽えましたが彼はうまくそれを宥めてみせました。彼は天を仰ぎましたが、光は全く入って来てはいませんでした。
──『黒い森』か……ここは厄介だ……すぐに抜けられたらいいが……
ラチュウも馬車の後ろにぴったりくっついて森に入ると、『旅人のための蛍石』を浮かべました。
「シュナイザーさん、こんな森を先頭に立って進めるなんて勇敢ですけど、お馬さんのアールヴァクも勇敢ですよね!」
シャンティが先導するシュナイザーとアールヴァクを見ながら、ドトに喋りかけました。明らかに空気が変わったことは客室の中にいてもわかっていましたので気を紛らわせたいという思いもあるようでした。
「……ん、ああ。あのアールヴァクってのは恐れ知らずの馬でしてね。そんなのにシュナイザーが乗った日にゃ崖だろうと谷だろうと、どこにでも先陣切って飛び込んでいっちまいやす。ほんと大した奴らですよ」
「へえ……たしかに親友だっておっしゃってましたものね」
シャンティは、彼らはこれまでに数々の冒険をしてきたのだろうなと考えながら言いました。
「そうですな。人と人との友人関係と相違ない。いや馬と馬ですかな?……まさに『馬が合う』ってやつですな!」
ドトがそう自分で言って豪快に笑いました。森の中にドトの笑い声が響き渡りました。蛍石が馬車を挟むように前後を照らしている、とは言ってもあたり暗いことに変わりはなかったので少しでも場を明るくできたらという心遣いもありました。
「まあ、お上手!」
シャンティがそう言ってつられて笑いました。
そのときにマークガーヤはと言うと、小窓から、どこまでも黒々と連続する面白みもない外の景色が流れていくのを眺めておりました。まるで神様が世界中で余った黒いインクを、この森にぶちまけたように底知れない黒が広がっていました。
マークガーヤはこの森にある黒いもの以外を探していました。ですがその目は無意識に黒いものばかり追って確かめるようになりました。
──黒い木、黒い実、黒い幹……黒い花、黒い川、黒い沢……
葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉
葉葉葉 葉葉葉 葉葉葉
葉葉葉 葉葉葉 葉巣枝
枝葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉枝鳥
葉葉葉 葉葉実 葉実葉
葉実実 幹幹幹 霧霧霧
葉葉葉葉葉葉葉葉虫幹葉葉葉葉葉葉霧霧枝
幹幹虫
虫幹幹
枝枝枝葉幹虚幹葉葉枝枝
幹虚幹
幹幹幹
川川茸茸茸苔苔苔苔根根根根根根根根根花石根石石
川川川根根根石根根根根根根根根根根根根石根根根
沢沢沢 芽芽芽 花花蛾 虫芽芽
沢石沢 地地地 地地地 地地地
それは見る者全ての思考まで黒く染め上げてしまうような暴力的な黒でした。
──…………お!
その中にやっと黒くないものをマークガーヤは見つけました。それまで黒い部分に捉われて見えなくなっていましたがそこにはずっとあったのです。
地に、茂みに、木の上に無数に光る獣の目。
「ぐすん。ぐすん。えええええええええええん」
イーラーケルがマークガーヤの腕の中で急に泣き出し始めました。マークガーヤがハッと正気に戻りました。
「あら、どうしたの? ずっと落ち着いてたのに。お腹が空いたのかしら?」
「お腹って、さっきお乳を飲んだところだろ?…………たぶん、いきなり暗くなったから怖くなったんじゃないかな?…………ほらほら泣かないで」
慌ててマークガーヤはイーラケルをあやします。イーラーケルはあやし方が上手かったのかわかりませんが、徐々に落ち着いてきました。
マークガーヤがどうだ俺もうまくなったろ?とシャンティの顔を見ると彼女の顔から血の気が引いていました。
「いきなりって……あなた、何言ってるの?」シャンティが怖い顔をしたまま言いました。「疲れてるの? 話しかけてもずっと黙ってたからそっとしてたんだけど……」
「…………え、君こそ何言ってるんだい?」
マークガーヤは困惑して言いました。彼にとってこの森に入ってから話しかけれた記憶なんてありません。
「だって……朝ご飯はもう二時間も前よ?……森に入ったのもそれくらい前じゃない?」




