ずれる時計
六月半ばの朝は、雲の低い、湿り気を帯びた空気に包まれていた。
いつもの電車を降り、駅の改札を出たところで、あおいは何気なく壁掛けの大時計を見上げた。
短針は八時を過ぎ、長針は四十七分を回っている。
スマートフォンを取り出して画面を点灯させると、デジタル表示は「8:50」
三分、ずれている。
駅の時計が狂うことなど滅多にないはずだが、急ぎ足で改札を抜けていく通勤客や学生たちの中に、足を止める者はいなかった。
あおいはスマホをポケットにしまい、緩やかな坂道を登って大学へと向かった。
共通講義棟の階段教室に入り、後ろから三列目、通路側のいつもの席に座る。
黒い長髪を黒いシュシュで手早くまとめ、ノートを開いたところで、ガラリと前扉が開いた。
「――はぁ、はぁっ……! あおい、おはよ……!」
飛び込んできた四宮このはは、胸元を押さえながら息を切らしていた。
明るい茶髪が額に少し汗ばんで張り付き、左のこめかみにはあの淡い青紫色のヘアピンが揺れている。
隣の席になだれ込むように腰を下ろすと、鞄をドサリと机に置いた。
「おはよう。……今日もギリギリ」
「違うの! ギリギリじゃないはずだったの!」
このはが必死な形相で顔を上げた。
「私、今朝はちゃんと余裕持って家出たんだよ? 駅のホームに着いたとき、電車の発車標見たら八時四十二分だったの。なのに、乗った電車の車内時計見たら四十五分でさ。あれ、時計進んでる? って思ってスマホ見たら、今度は四十八分になってて……! もう、どの時間が本当なのか全然わかんなくなっちゃって、パニックで駅からダッシュしてきたの!」
「……大変だったね」
「本当に焦ったんだから! 今日の一限、教育心理学の小テストある日なんだよ? 一分でも遅刻したら受けさせてもらえないんだから、命がけだよー」
このはは机に突っ伏し、恨めしそうに教室前方の時計を睨みつけた。
教壇の上の時計は、八時五十八分を指している。
「あ、ほら見て。教室の時計は合ってるみたい。……なんかさ、今朝の時間の進み方、変じゃなかった? 一分が三十秒くらいで過ぎてった気がする」
「……走ってたからじゃない」
「そうかなあ。でも駅の時計も変だったし……」
このはは首を傾げながら、前髪のヘアピンに指先を伸ばして位置を直した。
その時、教室に講義の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
教壇に立った講師がマイクを握り、小テストの用紙を配り始める。
他学部履修者も多い全学向けの講義だが、教育学部のこのはにとっては必修の重要科目だ。
「じゃあ、時間は二十分。始め」
静まり返った教室に、ペンの走る乾いた音だけが響き始めた。
あおいは小テストの合間に手元のノートで前回の復習を進めていたが、隣のこのはは鬼気迫る表情でテスト用紙と格闘していた。
眉間にしわを寄せ、消しゴムのカスを指先で払い、時折「うーん……」と小さく唸り声を漏らしている。
あおいは手元の青いペンを回しながら、そんなこのはの横顔を視線の端に捉えていた。
高校の頃から、テスト前になるといつもこうして焦り、終わるとあっけらかんと笑う。
何ひとつ変わらない、このはのリズム。
二十分が経過し、講師が「はい、そこまで。後ろから回収して」と告げた瞬間、このはは机の上に力尽きたように突っ伏した。
「……終わった……。ピアジェの発達段階、ど忘れして適当に書いちゃった……」
「……お疲れ様」
あおいが水筒の冷たいお茶を一口飲むと、このはが顔だけ横に向けて見上げてきた。
「あおい、一口ちょーだい……脳みそが糖分と水分を欲してる……」
「……はい」
あおいが紙パックのリンゴジュースを差し出すと、このはは「生き返るー!」とストローをくわえて目を細めた。
テスト用紙が回収されたあとも、講師による解説と板書が続けられた。
あおいはノートの隅に視線を落とし、小さく息を吸い込んだ。
――時間のズレ。
駅の時計、車内の時計、スマートフォンの時計。
単なる計時装置の狂いなら、どれか一つが遅れるか進むかで済むはずだ。
けれど、このはが感じた「一分が短く感じられた」という感覚。
それは、世界という舞台を動かしているテンポそのものが、目に見えないところでほんのわずかに引き伸ばされたり、縮められたりしている兆候だった。
講義が終わったのは十時二十分のはずだった。
けれど、講師が「はい、今日はここまで」とテキストを閉じたとき、教室前方の時計は十時十五分を指していた。五分、早い。
「あれ? もう終わり?」
片付けを始めた学生たちが、口々にざわめき始める。
「早くない? まだ十五分だよ」
「時計壊れてるんじゃない?」
「まあ、早く終わってラッキーか」
「うん、ラッキーラッキー。学食行こ」
周囲の学生たちが、驚くほど滑らかに納得して席を立っていく。
不自然な五分の短縮に対して、疑問を挟む者は一人もいなかった。
全員が「時計が壊れている」「早く終わってラッキー」という全く同じ定型句を口にして、笑いながら教室を出ていく。
「……ねえ、あおい」
隣で筆記用具を片付けていたこのはが、小声で話しかけてきた。
「やっぱり五分早いよね? チャイムも鳴ってないのに」
「……五分、早かったね」
「でしょ!? なのにみんな、なんであんなにあっさり納得してるの? 『時計壊れてるのかな、まあラッキーか』って、前の子も後ろの子も全く同じこと言ってたよ? 台本読んでるみたいで、なんかちょっと変な感じ」
このはが腕を組み、怪訝そうに眉をひそめた。
直感の鋭いこのはには、周囲の人々が「認識操作」のテンプレートに綺麗に収まっていく違和感が、薄気味悪さとして引っかかっているのだ。
「……気にしすぎると、疲れるよ」
あおいが静かに言うと、このはは「うーん」と唸ってから、息を吐き出した。
「まあ……早く終わったならいっか! あおい、購買で新発売のクロワッサンサンド出てるらしいんだけど、混む前に買いに行こ!」
立ち上がったこのはの背中を追いながら、あおいは教室の壁時計を見つめた。
秒針は規則正しくチクタクと音を立てている。
けれど、その一秒の間隔が、本当に「正しい一秒」なのか――それを証明できる人間は、この教室には一人もいない。
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お昼休みの中庭は、薄曇りの柔らかな光に包まれていた。
ベンチに並んで座り、このはが購買で買ったパンを頬張る。あおいは紙パックのミルクティーにストローを差した。
「そういえばさ、あおい」
このはがスマホの画面を見せながら言った。
「夕方、駅前の市民ホールでやってる限定スイーツの物産展、覚えてる? 前に話した、全国のプリンが集まるやつ!」
「……言ってたね」
「バイト入る前の夕方四時半から整理券配るんだって。今日の講義、三限で終わるから余裕で間に合うはずなんだけど……なんか今日の電車のダイヤ、怪しいんだよね」
画面には、地方路線の運行情報アプリが表示されていた。
『一部区間で信号確認のため、3〜5分の遅れが発生しています』
「また遅れ? 最近、こういう小さな遅れ多くない? 雨でも事故でもないのに」
「……信号の点検かも」
「うーん。プリン、絶対買いたいんだよね。あおいの分も買ってきてあげるからさ、講義終わったらダッシュで駅向かわなきゃ」
このはが意気込むように拳を握る。
その真剣な横顔に、あおいは胸の奥で小さく溜息をついた。
プリン。
たかがお菓子のイベントかもしれない。
けれど、このはにとっては楽しみにしていた一日のかけがえのない予定だ。
世界のテンポが狂ったせいで、その小さな楽しみが奪われるのは見過ごせなかった。
祖父――九条玄真が、かつて古い柱時計の振り子を止め、油を差しながら語っていた声が蘇る。
――あおい。時間はな、川の水みたいに勝手に流れてるんじゃないんだよ。誰かが奥の部屋で、均等に歯車を回してやってるから、みんな同じ今を生きられるんだ。
十歳のあおいは、柱時計の振り子を見つめながら尋ねた。
『歯車が狂ったら、どうなるの?』
祖父は穏やかに笑って、あおいの頭を撫でた。
『狂ったら、直すのさ。みんなが気づいて立ち止まっちまう前に、そっと針を指で押してやるんだ』
(……指で、押す)
あおいはストローをくわえたまま、遠くの駅の方向へ視線を向けた。
天候の乱れ、物資の欠落、記憶と場所のズレ。
そして今度は、世界の根幹を刻むテンポの同期エラー。
システムの軋みは、確実にその頻度と範囲を広げていた。
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午後の講義が終わり、二人は駅へと向かった。
駅前のロータリーには夕暮れの気配が漂い始めている。このはは改札へ向かって早足で歩きながら、スマホの時計を気にしていた。
「よし、四時十五分! これなら十六分の下り電車に乗れば、ホールに三十分前には着ける!」
改札を抜けてホームへ駆け上がる。
だが、ホームのアナウンスが流れた瞬間、このはの足が止まった。
『――下り線、普通列車をご利用のお客様にお知らせいたします。現在、運行管理システムの時刻表示の乱れおよび信号の確認のため、全線で運転を見合わせております。発車時刻は未定です――』
「ええっ!? 運転見合わせ!?」
このはが悲鳴を上げた。ホームにいた他の乗客たちも、一斉に掲示板を見上げる。
「うそでしょ……時刻表示の乱れって何!? プリンの整理券、四時半からなのに! 今止まられたら絶対に間に合わないよ……!」
半泣きになりながら頭を抱えるこのは。
周囲の乗客たちも「またかよ」「困ったな」と呟いている。だが、その声にはどこか感情の芯が抜けたような、奇妙な平坦さがあった。
あおいはこのはの肩をそっと叩いた。
「……このは。売店で飲み物買ってくる」
「え? あ、うん……でも電車いつ動くかわかんないよ……」
「すぐ戻る」
あおいは踵を返し、ホームの階段を下りた。
改札階の奥、自動販売機が並ぶ薄暗い通路を抜け、非常用避難口の先にある従業員用の連絡通路の扉の前へ向かう。
「関係者以外立入禁止」の札がかかった重い扉の影。人の気配は完全に途切れていた。
あおいは立ち止まり、壁に背を預けて深く息を吸い込んだ。
(……針を、合わせる)
天候を払うときとも、物の流れを解くときとも違う。
世界の「脈拍」に触れる感覚。
目を閉じ、胸の奥で刻まれている自身の鼓動を、この街の空間全体へと重ね合わせていく。
祖父から教わった、律動の調律。
カチ、カチ、カチ、と頭の中で無数の時計の秒針が重なり合う音がする。
どこかで歯車が空回りし、噛み合わせが滑っている。
あおいは右手の二本の指をそろえ、虚空に向けて垂直に立てた。
そして、その指先を――まるで目に見えない針を少しだけ前に進めるように、トン、と前に押し出す。
チッ、と小さく澄んだ音が鼓膜を叩いた。
張り詰めていた空気の粘度がふっと軽くなり、世界が正常な速度で呼吸を再開する。
あおいが目を開けると同時に、ホームのスピーカーから、ざざっとノイズが走る音が聞こえた。
『――大変お待たせいたしました。先ほど発生いたしました信号の安全確認が終了いたしました。下り普通列車、定刻通り十六分に発車いたします。お急ぎのところご迷惑をおかけいたしました――』
アナウンスの言葉が、何事もなかったかのように滑らかに訂正されていた。
時刻同期の乱れなど最初からなかったかのように、「信号の安全確認」という聞き慣れた日常の理由にすり替わっている。
あおいは服の乱れを直し、静かにホームへの階段を上がった。
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「あおい! 電車、来たよ!」
ホームに戻ると、入線してきた電車の前で、このはが満面の笑みで手を振っていた。
「見合わせって言ってたのに、放送の間違いだったみたい! 定刻通りだって! あー、よかったー!!」
「……よかったね」
「うん! あおい、本当にありがとう、付き合ってくれて! じゃあ私、行ってくるね! あおいの分の限定プリン、絶対にゲットしてくるから!」
「……無理しないで」
「任せて! じゃあね!」
このはは勢いよく電車の扉へ飛び込んでいった。
閉まるドアの向こうで、彼女が窓越しにぶんぶんと手を振る。
左のこめかみで、青紫のヘアピンがきらりと光った。
電車がゆっくりと滑り出し、夕暮れの線路の向こうへと消えていく。
ホームに残された乗客たちは、誰一人としてさっきの「運転見合わせ」を気にする様子もなく、各々のスマホへと視線を戻していた。
「人身事故じゃなくてよかったね」「ちょっと遅れただけか、まあいっか」。
やはり、同じような言い回しが風に乗って漂ってくる。
あおいは一人、静かになったホームのベンチに座り、夕空を見上げた。
街の時計は、再び正しい時を刻み始めている。
けれど、あおいの指先には、針を押したときのあの乾いた重みが、消えない痺れのように残っていた。
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夜。
本屋のバイトを終えてアパートに戻ったあおいは、机の上に置かれた小さな瓶を見つめていた。
帰宅途中、駅の改札前で待っていたこのはから手渡されたものだ。
『無事に買えたよ! あおいの分、一番人気のクラシックカスタード!』
息を切らしながら誇らしげに笑っていたこのはの笑顔が、脳裏をよぎる。
スプーンですくって一口口に運ぶ。
濃厚なバニラの香りと、ほろ苦いカラメルの味が口いっぱいに広がった。
美味しい。
とても、美味しかった。
けれど、あおいはスプーンを止め、窓の外の夜景に目を向けた。
街灯の光が規則正しく並び、遠くの交差点では信号機が青から黄色、そして赤へと一定の間隔で切り替わっている。
すべてが整然と、寸分の狂いもなく動いているように見える世界。
――時間は、誰かが奥の部屋で歯車を回している。
祖父の言葉が、胸の奥で静かに反響する。
今日、あおいが指先で押したあの数分。
そのツケは、一体どこへ消えたのだろう。
世界が誤魔化したズレは、本当に消えてなくなったのか。
それとも、どこかの見えない帳簿に「負債」として積み立てられているのだろうか。
スマホが短く震えた。
『プリン美味しかった? 私、もう一個食べちゃいそう(笑)今日は本当にバタバタしたけど、スマホ再起動したら時間も直ったみたい! やっぱりアプリの調子が悪かっただけだったよ。あおい、今日もありがとね。おやすみ!』
スマホの調子が悪かっただけ。
このはの認識もまた、綺麗に「日常の枠」へと収まっていた。
あおいは小さく息を吐き、短い返信を送った。
『美味しかった。おやすみ』
画面を伏せ、部屋の電気を消す。
暗闇の中、壁の掛け時計がチクタクと一定のリズムで時を刻んでいる。
その正確すぎる針の音を聞きながら、あおいは静かに目を閉じた。
全員が口を揃えて「まあいっか」と呟いた、あのどこか不気味な合唱の残響だけが、あおいの耳の奥に静かに残っていた。




