言わなかった約束
梅雨の晴れ間が広がる朝、湿ったアスファルトから立ち上る初夏の匂いが、講義室の窓から風に乗って流れ込んでいた。
あおいは後ろから三列目、いつもの通路側の席でノートを広げていた。
手帳を開き、今週の講義日程と本屋のシフトを確認する。
教壇では講師がマイクテストを始めた。
講義開始まで、あと二分。
ガラリと前扉が開き、四宮このはが入ってきた。
けれど、いつものように階段を小走りで駆け上がってくる気配がない。
とぼとぼと、重い足取りで一段ずつ登ってくる。
肩先で揺れる明るい茶髪には、いつも通り淡い青紫のヘアピンが留まっているが、その顔には深い影が落ちていた。
「……おはよ、あおい……」
隣に座ると、鞄を抱え込むようにして小さく丸まった。
「おはよう。……元気ないね」
「うん……ちょっと、落ち込んでて……」
このはは両手で顔を覆い、指の隙間からあおいを見上げた。
瞳の端がほんの少し赤くなっている。
「私、最低かも……。友達との大事な約束、すっぽかしちゃったみたいで……」
「約束?」
「うん。教育学部のユカちゃんって子がいるんだけどね。今日の二限の空きコマに、駅前のカフェで一緒に指導案の課題やろうねって、一昨日約束したはずだったの。なのに……さっき中庭で会ったら、『このはちゃん、昨日の放課後カフェで待ってたのに、なんで来なかったの?』って言われちゃって……」
このはが消え入りそうな声で続ける。
「私、絶対に『今日の二限』って約束した記憶があるの。手帳にもちゃんと今日の日付でメモしてあるし……。でもユカちゃんは、『一昨日のLINEで、昨日って決めたじゃん』って怒ってて……。私、すっぽかしたことすら気づいてなくて、ヘラヘラ笑って『今日だよね!』って声かけちゃったの。ユカちゃん、すごく怒って行っちゃって……」
このはは唇を噛み締め、俯いた。
いつも明るく誰とでも打ち解けるこのはが、ここまで激しく自分を責めている姿を見るのは、あおいにとっても胸が痛むことだった。
「……メッセージ、見返した?」
「うん。でも、それが変なの」
このはが震える手でスマートフォンを取り出し、メッセージアプリの画面をあおいに差し出した。
「ほら、見て。一昨日のトーク履歴なんだけど……」
画面には、一昨日の夕方のやり取りが表示されていた。
『ユカ:指導案の課題、いつやる?』
『このは:空きコマがいいな!』
『ユカ:じゃあ、カフェで集合ね!』
確かに、曜日や時間に関するやり取りが、不自然な空白のように抜け落ちていた。
一昨日と昨日のメッセージの境目がぼんやりと霞んでいるかのように、前後の文脈が不自然に繋がっている。
「私、なんて返信したか覚えてないの。『明後日ね』って打った気もするし、『明日ね』って打った気もしてきて……。私の記憶違いなのかな。私、約束の日付もちゃんと確認できないくらい、いい加減な人間なのかな……」
このはが前髪のヘアピンに触れ、縋るようにあおいの顔を見つめた。
あおいはその液晶画面を見つめながら、静かに喉の奥で息を止めた。
――記憶の食い違い。
そして、不自然に欠落した会話のインデックス。
天候、供給、場所、時間。
今度は、人々の「交わした言葉と記憶」そのものに、世界の綻びが及んでいた。
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一限の講義中、このははほとんどノートを取れずにいた。
シャープペンを持ったまま、時折小さく溜息をついては、消しゴムの角を無意味に丸めている。
あおいは講義の内容をノートに書き留めながら、内心で思考を巡らせていた。
祖父――九条玄真が、かつて古い本棚の整理をしながら、本の背表紙を指でなぞっていたときの言葉。
――あおい。人の記憶ってのはな、図書館のカード目録みたいなもんだ。本そのものが消えるわけじゃない。ただ、誰かが整理の途中でカードの引き出しを乱暴に閉めて、見出しの紙が隣の引き出しに挟まっちまうことがあるんだよ。
『挟まったら、どうなるの?』
幼いあおいが尋ねると、祖父は困ったように眉を下げて笑った。
『みんな、自分の探してる本が最初からなかったと思い込むか、違う本を読んだ気になっちまうのさ。……悲しいだろ? 自分が誰かと交わした言葉が、どこにもなかったことにされちまうのは』
祖父の寂しげな横顔が、あおいの胸を鋭く刺した。
おじいちゃんが遺していった様々な教えの中でも、一番難しく繊細だったのは「人々の記憶」に関することだった。
何かの拍子に綻びが起きたとき、人は自分の記憶に蓋をしたり、都合のいい理由をつけて通り過ぎようとする。
けれど、その帳尻合わせが乱暴になると、こうして「言ったはずの言葉」と「言わなかったはずの記憶」が宙ぶらりんになって人を傷つける。
(……面倒だけど)
あおいは隣で俯くこのはを横目で見た。
落ち込んで、眉を下げて、大事なヘアピンを何度も確かめるように触っている幼馴染。
このはが「自分が悪い」と思い込んで傷つくくらいなら、世界の目録のほうが狂っていると証明してやったほうがいい。
「……このは」
「ん……?」
「二限、図書館行こう」
「え……でも、ユカちゃんに謝りに行かなきゃ……」
「いいから。静かなところで、もう一回確認しよう」
あおいの普段より少しだけ強い口調に、このはは瞬きをして、それから小さく「……うん」と頷いた。
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講義が終わり、二人は大学図書館へ向かった。
二階の奥、古い文学全集が並ぶ通路は、昼前ということもあって人の気配が全くない。
木製の閲覧用テーブルに向かい合って座ると、窓の外からは湿った初夏の風が吹き抜けていた。
「あおい、確認するって何を……?」
「スマホ、もう一回見せて」
「うん……」
あおいはこのはからスマートフォンを受け取り、一昨日のトーク履歴を開いた。
画面を指先でなぞる。
液晶の冷たいガラスの向こう側に、目に見えない無数の「情報の糸」が絡まり合っているのが感じられた。
世界が誤魔化そうとした継ぎ目。
一昨日、天候や時間の同期ズレが多発したせいで、人々の行動記録の目録がパンクし、この二人の会話データが無理やり圧縮されて「なかったこと」にされかけている。
「このは。一昨日の夕方、何時ごろメッセージ送った?」
「えっと……五時半くらい。駅前のパン屋さんで、明日の朝ごはん買ってる時だったと思う」
「ユカさんは?」
「バイト前って言ってたから、たぶん五時四十五分くらい……」
「わかった」
あおいはスマホをテーブルの中央に置き、その上にそっと右手をかざした。
「……あおい?」
「ちょっと、電波探してる」
適当な口実を口にしながら、あおいは意識を指先へ集中させた。
目を半分閉じ、祖父から教わった手順をなぞる。
――カードの挟まりを、指先で優しく引き抜いてやる。
新しい記憶を作るんじゃない。
ただ、そこにあったはずの正しい引き出しへ、目録を戻すだけ。
呼吸を深く落とす。
胸の奥からすっと抜けていく透明な熱。
スマホの画面に向けて、指先をわずかに震わせる。
チリ、と静電気が弾けるような極小の感触が指の腹を撫でた。
その瞬間、スマートフォンの画面がふっと瞬いた。
「――あれ?」
このはが身を乗り出した。
画面の中のトーク履歴。
さっきまで不自然に途切れていたやり取りの間に、新しい行が自然と滲み出すように現れていた。
『ユカ:じゃあ、今日の放課後は私バイトだから無理だね!』
『このは:うん! じゃあ明後日の二限、空きコマにカフェで!』
『ユカ:りょーかい! 明後日の二限ね!』
「えっ……!? うそ、ある……!?」
このはが目を見張り、スマホを掴み取った。
「あるよ! 『明後日の二限ね』って、ユカちゃんちゃんと返信してる! え、なんで!? さっきまで絶対になかったよね!?」
「……電波が悪くて、読み込めてなかったんじゃない」
「そんなことある!? 一昨日のメッセージだよ!? ……あ、でも、本当に明後日……つまり今日になってる! 私、間違えてなかったんだ……!」
このはの顔に、ぱっと光が差した。
安堵のあまり、大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「よかったぁ……! 私、約束破ったんじゃなかった……! うぅ、あおい、ありがとう……!」
「泣かなくてもいいのに」
「だって、怖かったんだもん……自分が信じられなくなっちゃうかと思った……」
このはは袖口で涙を拭いながら、鼻をすすった。
そのとき、テーブルの上に置かれたスマホが震えた。ユカからの着信だった。
「わっ、ユカちゃんだ……! も、もしもし! ユカちゃん!?」
このはが慌てて通話ボタンを押し、耳に当てる。
あおいは静かに視線を落とし、二人の通話に耳を傾けた。
『あ、このはちゃん? ごめんね、さっき!』
スピーカーから漏れ聞こえるユカの声は、先ほどまでの刺々しさが嘘のように明るく、平坦だった。
『なんか私、勘違いしてたみたい! 手帳見返したら、今日って書いてあった! 昨日待ってた気になってたの、別の友達との約束だったかも(笑)! 今カフェ着いたんだけど、まだ来れる?』
「え……? あ、うん! すぐ行くよ!」
『よかったー! じゃあ席取って待ってるねー!』
プツリと通話が切れた。
このはは通話画面を見つめたまま、ぽかんと口を開けていた。
「……ねえ、あおい」
「何?」
「ユカちゃん……すごくあっさりしてた」
このはの声には、安堵の奥に、奇妙な戸惑いが混ざっていた。
「さっき中庭で会ったときは、あんなに怒ってて……泣きそうなくらいの顔だったのに。『勘違いだったかも、笑』って……なんか、さっきの怒りが最初からなかったみたいに、急にすっきりしてて……」
このはが眉をひそめ、自分の胸元に手を当てる。
「解決して嬉しいはずなのに……なんか、変な感じ。人の気持ちって、あんな一瞬で温度が変わるものなのかな……」
あおいは何も言えなかった。
それが、認識操作による「強制的な解決」の不気味な代償だった。
世界の帳尻を合わせるため、ユカの怒りも、行き違いのわだかまりも、すべて「勘違い」というラベルを貼られて急速に冷却されたのだ。
綻びは塞がった。
けれど、そこにあったはずの感情の熱まで、一緒に奪い去られてしまった。
「……早く行かないと、待たせちゃうよ」
あおいが静かに促すと、このははハッとしたように顔を上げた。
「あ、うん! そうだね! あおい、本当にありがとう! 私、行ってくるね!」
このはは立ち上がり、前髪のヘアピンをきゅっと直すと、小走りで図書館を出ていった。
一人残された閲覧室で、あおいは自分の右手をじっと見つめた。
指先は冷え切っていた。
正しく整えたはずなのに、胸の奥には重たい澱のようなものが沈んでいる。
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夕方、駅前のカフェで課題を終えたこのはと合流した。
テラス席に座り、このははストロベリーソーダ、あおいはホットの紅茶を頼む。
夕陽が街をオレンジ色に染め、駅前を行き交う人々を穏やかに照らしていた。
「課題、無事に終わったよ。ユカちゃんとも、普通に仲良くお喋りできた」
このはがストローで炭酸の泡を突っつきながら言った。
「でもね……ユカちゃんに『さっきのメッセージ、なんで消えてたんだろね』って聞いたら、『え? なんのこと?』って言われちゃってさ」
「……覚えてなかった?」
「うん。『約束は今日だったじゃん、最初から』って笑われちゃった。さっき中庭で私を睨みつけてたことなんて、まるで映画のワンシーンを忘れたみたいに、綺麗さっぱり忘れてるの」
このはは寂しそうに笑った。
「なんかね……世界が、私とユカちゃんの間で起きた小さな喧嘩を、勝手に消しゴムで消しちゃったみたいな気分。喧嘩なんてしない方がいいに決まってるんだけどさ……でも、あの時のユカちゃんの怒りも、私の悲しさも、本当にあったはずなのに……」
このはの言葉は、世界の核心を的確に捉えていた。
あおいは温かいカップを両手で包み、夕暮れの空を見上げた。
祖父――玄真。
おじいちゃんは、かつてこんな風に、人の心の摩擦に心を痛めながら日常を守っていたのだろうか。
誰も傷つかないように、穏やかな日々が続くようにと願うその裏側で、どれだけの本当の痛みを引き受けてきたのだろう。
「……おじいちゃんが、昔言ってた」
あおいが静かに口を開くと、このはが顔を上げた。
「おじいちゃん?」
「うん。……人の心は、本棚みたいなものだって」
「本棚……?」
「うん。読み終わった本も、途中で嫌になった本も、棚に並んでるから意味があるって。都合のいい本だけ残したら、それはもう、その人の本棚じゃないって」
このはは目を丸くし、それからふわりと柔らかく微笑んだ。
「あおいのおじいちゃん、本当に素敵なこと言うね。……そうだよね。悲しかったことも、ちゃんと並べておきたいよね。私、今日すごく怖くて泣いちゃったけど……あおいが一緒にいてくれたこと、絶対に忘れたくないもん」
このはが胸元に手を当て、力強く頷いた。
その笑顔を見て、あおいの胸の奥の冷たさが、ほんの少しだけ溶けていくような気がした。
「……まあ、ユカちゃんと仲直りできたんだから、結果オーライなんだけどね!」
このははいつもの調子を取り戻し、ストローをくわえて笑った。
「終わりよければすべてよし! あおいのおかげで、今日もいい日になったよ!」
「……私は、何もしてない」
「してるよ。あおいが隣にいてくれるだけで、私の本棚はいつも綺麗に片付くんだから」
このはは無邪気に笑い、左のヘアピンに指先を添えた。
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夜。
アパートの自室に戻ったあおいは、机の上のノートを開いた。
経済学のレポート用紙。そこには、数式とグラフが整然と並んでいる。
窓の外を見やると、夜空には薄い雲が広がり、街の明かりをぼんやりと反射していた。
街灯の下を歩く人々の影。
誰もが、今日交わした約束を「最初からそうだった」と信じて疑わずに眠りにつく。
けれど、あおいの胸の中には、消しゴムで消されたはずのユカの怒りと、このはの流した涙が、消えないインクの染みのように残っていた。
――都合のいい本だけ残したら、それはもう、その人の本棚じゃない。
祖父が遺した言葉。
けれど今、この街のどこかで、綻びを誤魔化すために、人々の記憶から大切なページが乱暴に破り捨てられ始めている。
その破り捨てられたページの重みは、一体どこへ消えていくのだろう。
スマホが短く震えた。
『今日は本当にありがとう! あおいのおじいちゃんの言葉、手帳にメモしちゃった。明日も大学でね、おやすみ!』
このはからのメッセージ。
あおいは画面を見つめ、静かに指を動かした。
『おやすみ』
短い返信を送り、スマホを伏せる。
街の静寂が、部屋の中を満たしていく。
狂っていく世界の調律と、急速に失われていく感情の熱。
あの一瞬で消え去った友人の怒りと、取り残されたこのはの静かな痛みを、あおいは夜の底でじっと見つめていた。




