探した場所にあった探し物
朝の講義棟へと向かう並木道は、六月に入ったばかりのやわらかな新緑に彩られていた。
あおいは木漏れ日の落ちる石畳を、一定の歩幅でゆっくりと歩く。
昨夜の雨の名残で葉の先には小さな雫が留まり、朝の光を受けてきらきらと瞬いていた。
「――あおい! ちょっと待って!」
背後からパタパタと小走りの足音が追いついてくる。
振り返ると、四宮このはが片手で前髪を押さえながら、焦った様子で駆け寄ってくるところだった。
「ふぅ……追いついた。おはよう、あおい」
「おはよう。……走ったら危ないよ」
「だって、あおい見えたから! ……それより、見てこれ!」
このはが指さした左のこめかみを見て、あおいはわずかに瞬きをした。
いつも留まっているはずの、淡い青紫色の小ぶりなヘアピンがない。
「ないでしょ? ヘアピン!」
「……忘れたの?」
「違うの、落としたの! 今朝、家を出るときは確かに留めたの覚えてるんだよ。でも、駅の改札を通るときに前髪が落ちてきて気づいて……。駅のホームも階段も探したんだけど、全然見つからなくてさ。あおいに貰った大事なやつなのに、どうしよう……」
このはは泣きそうな顔で眉を下げ、何度もバッグのポケットやポーチを手探りしている。
あおいはその慌てぶりを静かに見つめた。
高校の誕生日に渡した、何の変哲もない手頃なヘアピン。
それを何年も毎日つけ続け、失くしただけでここまで取り乱してくれる幼馴染の姿に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……探せば、見つかるよ」
「見つかるかなあ……。あ、でも講義始まっちゃう。終わったらもう一回探してみる!」
このはは肩を落としながらも、あおいに並んで講義棟のエントランスへと入っていった。
階段教室に入り、後ろから三列目、通路側のいつもの席に座る。
あおいが筆記用具を出す間も、このはは机の下で鞄のポケットのファスナーを開けたり閉めたりして、落ち着かない様子だった。
「講義中にポケットの奥からポロッと出てきたりしないかな……」
「……講義、集中しないと先生に当てられるよ」
「うう、わかってるけど……気になっちゃって……」
チャイムが鳴り、教授がプロジェクターのスイッチを入れる。
教養科目として他学部からの受講者も多い、教育史の講義だ。
スライドに映し出される歴史の年表。
あおいは淡々とノートを取りながら、時折、隣で小さなため息を漏らすこのはに視線をやる。
このははペンを握りながらも、心ここにあらずといった様子で、ノートの隅に『ヘアピン……どこ……』と小さな文字で書き殴っていた。
あおいは自分のペンケースから予備の黒いヘアピンを取り出し、そっとこのはの手元に差し出した。
「……邪魔なら、これ使って」
このはが顔を上げ、目を潤ませてあおいを見た。
「あおい……優しい! でもね、あおいに貰ったあの紫のやつじゃないと、私の頭がシャキッとしないの!」
「……わがまま」
あおいが呆れたように言うと、このはは小さく吹き出し、前を向いてようやくノートを取り始めた。
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一限の講義を終えたあとの中庭。
六月の爽やかな風が、芝生の青葉を揺らしている。
木陰のベンチに座ったこのはは、テーブルの上にバッグの中身を全部ぶちまけて探していた。
教科書、ポーチ、定期入れ、ミントタブレットの缶、ハンドクリーム。色とりどりの小物がずらりと並ぶ。
「ない……やっぱりないよー」
「焦らなくてもいいのに」
「だって、あおいからのプレゼントだよ? 失くしたら立ち直れないもん……あ、そうだ。講義の前に寄った、図書館の自習室かも!」
このはが顔を上げた。
「一限が始まる前、レポートの参考文献借りようと思って図書館寄ったの。二階の角の自習ブースで鞄開けたから、その時に落ちたのかも!」
「……見に行ってみる?」
「うん! あおい、一緒についてきて!」
二人は大学図書館へと向かった。
静まり返った館内、階段を上がって二階の奥へ進む。窓際に並ぶ木製の個別自習ブース。
このはは自分が座っていたという「一番奥、窓際の二十四番席」へ駆け寄り、机の上や椅子、そして足元のカーペットを丹念に見回した。
「……ない」
机の上には何も置かれておらず、椅子の隙間にも、床の隅にも、ヘアピンらしきものは見当たらない。
「おかしいな……ここ、確かに座ったのに」
「……このは。鞄の底、もう一回見たら?」
あおいの促しに、このはが半信半疑で鞄の内ポケットに手を差し込んだ。
ガサリと指先が何かに触れる。
「――あれ!? あった!!」
このはが引っ張り出したのは、探し求めていたあの淡い青紫のヘアピンだった。
「え、うそ!? なんで!? さっき家出る前も、駅でも、中庭でも、このポケット三回は裏返して探したんだよ!? 絶対に入ってなかったのに!」
「見落としてたんじゃない」
「そんなことないよ! こんなに探して見つからないわけないもん……。でも、よかったー!」
このはは心底ほっとしたように息を吐き、大事そうにヘアピンを前髪へとパチンと留めた。
見慣れた横顔に戻り、あおいも小さく安堵の息を漏らす。
けれど――あおいの目は、このはの足元、自習席の椅子の下にあった別の小さな違和感を捉えていた。
(……何かが、引っかかってる)
ヘアピンは見つかった。それは単なるこのはの勘違いかもしれない。
だが、図書館の静寂の中に漂う空気の肌触りが、昨日や一昨日に感じた「世界の歪み」と酷似していた。
物が本来あるべき座標と、人々の記憶の重なりが、わずかにズレているような感覚。
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昼休み。食堂で昼食をとっていると、教育学部の友達がこのはの席に駆け込んできた。
「このはちゃん! 大変、どうしよう……!」
「え、サキちゃん? どうしたの?」
サキと呼ばれた女子学生は、顔を真っ青にして息を切らしていた。
「学生証……落としちゃったみたいで! 今日の午後の試験、学生証ないと受けられないのに!」
「えっ、本当!? どこで落としたの?」
「午前中、図書館の自習室にずっといたの。二階の窓際の席。席を立つときに机の上も椅子の周りも全部確認して、鞄に入れたはずなんだけど……今見たら財布の中にも鞄の中にもなくて。さっき図書館に戻って、自分がいた二十四番席を隅から隅まで探したんだけど、やっぱり落ちてなくて……」
「二十四番席……?」
このはが目を丸くして、あおいと顔を見合わせた。
「それ、私が朝座ってた席だよ! 私、さっきサキちゃんが来る直前までそこでヘアピン探してたの。机の上も足元も全部見たけど、学生証なんて落ちてなかったよ?」
「そうだよね……私、事務室に再発行できるか聞いてくる……!」
泣きそうになりながら走り去っていく友人の背中を、このはは痛ましそうに見送った。
「どうしよう、あおい……。サキちゃん、あの試験落としたら単位やばいってずっと言ってたのに。私、さっき自習席でちゃんと見てあげればよかった……」
このはがギュッと拳を握りしめ、眉をひそめる。
あおいは静かにパスタのフォークを止めた。
――図書館の二十四番席。
このはが「なかったはずのヘアピン」を見つけ、サキが「置いたはずの学生証」を失くした場所。
記憶と場所の不一致。
単なる紛失ではない。世界が物資や事象を整頓する際、ごく稀に発生する「座標のズレ」。
祖父――九条玄真が、かつて古い本棚の整理をしながら語っていた言葉が、あおいの脳裏をよぎった。
――あおい。なくしたものはな、消えて無くなるわけじゃない。戻るときには、ちゃんと戻るべき場所があるんだ。ただ、世界の引き出しが少し引っかかってるだけなんだよ。
十年前。祖父が突然いなくなったあの日。
あおいは祖父の部屋で、必死に祖父の痕跡を探した。机の上、縁側の湯呑み、庭の植木鉢。
いくら探しても、祖父の姿はどこにもなかった。
あの時の冷たい喪失感が、胸の奥でチクリと疼く。
あおいは目を伏せ、短く息を吸い込んだ。
「……このは」
「ん?」
「もう一回、図書館見に行こう」
「え? でも、サキちゃんも私も、さっきあんなに探したよ?」
「もう一回見たら、あるかもしれない」
あおいの静かな声音に、このはは不思議そうに瞬きをし、それから力強く頷いた。
「……うん、そうだよね! 行ってみよう!」
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昼下がりの図書館は、午前中よりもさらに静まり返っていた。
二階の窓際。二十四番の自習ブースには、誰も座っていない。
「ほら、やっぱり何もないよ……」
このはがブースの前で立ち尽くし、机の上を見つめる。
木目の天板の上には、ノートの一片すら残されていない。
「このは。一階の返却ポストのところ、念のため見てきて。誰か届けてくれたかも」
「え? でも事務室には届いてないって……」
「ポストの脇の棚。たまに誰かが仮置きする」
「あ、そうなんだ! 見てくる!」
このはが階段へ向かって駆け下りていく足音が遠ざかる。
静寂が戻った自習室で、あおいは二十四番席の前に立った。
誰もいない。
窓の外には、穏やかな青空と初夏の並木。
あおいは右手を伸ばし、机の天板の上、何もない空間へ向けてそっと指先をかざした。
(……引き出しの引っかかりを、抜く)
天候を補正したときのように。
カフェのシロップの巡りを整えたときのように。
世界が誤って噛み合わせてしまった「存在の継ぎ目」に、意識の針をそっと滑り込ませる。
祖父の手順。
消えたのではなく、そこにあるべきものを、あるべき時間へ戻すだけ。
指先に、紙の乾いた感触のような、微細な摩擦が走る。
あおいが静かに息を吐き、指を引いた瞬間。
――コトリ。
乾いた小さな音を立てて、何もないはずの机の真ん中に、プラスチックのカードが姿を現した。
大学のロゴと、サキの顔写真が印刷された学生証。
そしてその下には、数日前の日付が印字されたコンビニのレシートが、重石のように敷かれていた。
まるで、最初からずっとそこに置かれていたかのように。
あおいは何事もなかったかのように一歩下がり、壁に背を預けた。
「――あおい! やっぱりポストのところにはなかったよー!」
階段を駆け上がってきたこのはが、息を切らしながら戻ってきた。
「……このは。机の上」
あおいが顎で示すと、このはが視線を机に向け――そして、息を呑んだ。
「――えっ!? うそ、なんで!?」
このはが駆け寄り、机の上のカードを両手で拾い上げた。
「が、学生証……!? え、どういうこと!? さっきまで絶対になかったよね!? 机の上、真っ平らだったよね!?」
「……光の加減で、見えにくかったんじゃない」
「そんなわけないよ! こんな目立つカードが見えないわけないもん! それに、このレシート……日付、三日前だよ? 三日前からここに置きっぱなしだったみたいになってる……」
このはは目を白黒させながら、カードと机を交互に見つめた。
けれど、その混乱も長くは続かない。
「……あ、でも! とにかく見つかってよかった! サキちゃんに連絡しなきゃ、試験始まっちゃう!」
このははスマートフォンを取り出し、弾むような指取りでメッセージを打ち始めた。
違和感に驚きながらも、目の前の「良かった」という現実にすべてを委ねていく。
それが、この世界の人々が持つ、健やかで無意識な防御反応だった。
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夕方、駅前のカフェで二人は並んで座っていた。
窓の外を行き交う人々は、みな穏やかな足取りで家路についている。
「サキちゃん、無事に試験受けられたって! すっごく感謝されちゃった」
このはがアイスティーのストローをくわえ、満足そうに目を細めた。
左のこめかみには、朝一度見失った淡い青紫のヘアピンが、しっかりと前髪を留めている。
「でも、今日の一日は本当に不思議だったなー」
「何が?」
「朝の私のヘアピンもそうだし、サキちゃんの学生証もそう。探したときは絶対になかったのに、あとで見たら『最初からそこにあった』みたいに出てくるんだもん。……なんか最近、こういう不思議なこと多くない? 一昨日の雨とか、昨日のシトラスシロップとかさ」
このはがストローから口を離し、ふと真面目な顔であおいを見つめた。
あおいはコーヒーカップに口をつけ、静かに言葉を待つ。
「あおい、どう思う?」
「……おじいちゃんが、昔言ってた」
あおいがぽつりと呟くと、このはは「え?」と目を丸くした。
「おじいちゃん、なくしたものは戻るとき、戻る場所があるって言ってた」
「戻る場所……?」
「うん。消えたんじゃなくて、戻るタイミングを待ってるだけだって」
このははしばらくの間、天井を見上げてその言葉を反芻していたが、やがてふっと顔をほころばせた。
「あおいのおじいちゃん、本当に不思議なこと言うよね。でも……なんか優しい言葉だね。戻る場所があるって思うと、なくしものしてもあんまり怖くないかも」
「……そうだね」
「うん! まあ、ちゃんと見つかったんだし、結果オーライ! あおいのおかげで見つかったようなもんだよ、ありがとね」
このははあっけらかんと笑い、テーブルの上の伝票を手にとった。
「まあいっか」の魔法。
すべてを日常の枠の中に収めて、笑って流す。
その笑顔を守れるなら、あおいは何度でも「何もしなかったこと」にして構わないと思っていた。
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夜。
アパートの自室で、あおいは机の引き出しを開けた。
奥の小さな木箱。蓋を開けると、祖父がかつて使っていた古い万年筆と、革張りの手帳が収められている。
祖父が亡くなった――あるいは消えた――十歳のあの日から、あおいが大切にしまっているものだ。
天気のズレ。
物資の不足。
そして、場所と記憶の綻び。
一日ごとに、世界のどこかがわずかずつ軋みを上げている。
あおいが整えているのは、あくまで身の回りのほんの小さな綻びでしかない。
けれど、自分が気づいていないもっと大きなところで、何か目に見えない歪みが膨らんでいるのではないか――。
手帳の表紙をそっと指先で撫でる。
祖父の温もりは、もうそこにはない。
けれど、幼い頃に教わったあの不思議な呼吸や感覚は、今も確かにあおいの指先に息づいている。
スマホが短く鳴った。
『今日はいっぱい歩いて疲れちゃった。あおい、明日も講義よろしくね! おやすみー!』
このはからのメッセージ。
あおいは静かに画面をタップし、返信を送る。
『おやすみ』
短い言葉を送り、スマホを伏せる。
窓の外を見上げると、夜空には雲ひとつなく、無数の星が冷ややかに瞬いていた。
探した場所にあったもの。
見つかった記憶と、書き換えられた現実。
あおいだけが、あの日消えたはずの祖父の背中と、世界の静かな綻びの音を、夜風の奥に静かに感じ取っていた。




