品切れの日
朝の階段教室には、前日と変わらない初夏の陽射しが斜めに差し込んでいた。
あおいは後ろから三列目、いつもの席に座り、ノートの新しいページを開く。
ペン先を置いたところで、前扉が控えめに開いた。
「――おはよ、あおい……」
入ってきた四宮このはは、昨日とは打って変わって、どことなく足取りが重かった。
肩先で揺れる明るい茶髪、左のこめかみには昨日と同じ淡い青紫のヘアピン。
けれど、その表情には明らかな疲労の色が滲んでいる。
あおいの隣に腰を下ろすと、机の上に突っ伏すようにして深く息を吐き出した。
「おはよう。……眠そう」
「眠いっていうか、体中がバキバキ……。昨日バイト、本当に地獄だったんだから……」
「大変だったんだ」
「大変どころじゃないよー」
このはは机に頬を押し付けたまま、恨めしそうにあおいを見上げた。
「昨日から始まった季節限定のシトラスハニーティー、知ってる? 初夏限定のやつ」
「看板、見た」
「それ! 初日だからって店長が仕入れ強気にしてたはずなのに、夕方前に突然シロップも茶葉も全部底をついちゃってさ。仕入れの伝票にはちゃんと届いたって書いてあるのに、バックヤードのどこ探しても影も形もないの」
「……届いてなかったの?」
「それが、届いてた痕跡はあるの! 段ボール開けた覚えもあるし、冷蔵庫に補充した記憶もあるのに、夕方のピーク時に見たら空っぽで。予約してた常連さんには怒られるし、店長は青ざめて問屋に電話かけまくるし……。私、謝りっぱなしで喉カラカラ」
「それは……災難だったね」
あおいは労うように短く返した。
このはは「もう二度とあんな思いしたくないよ」と呟き、小さく伸びをして起き上がる。
指先が無意識にヘアピンの位置を確かめるように触れた。
「まあ、今日は午前で大学終わったらバイト入ってるから、店長が仕入れ直してくれてるのを祈るばかりだけど……。あおい、今日の講義終わったら、お店寄ってくれない? あおいの顔見たら、なんか落ち着いてバイト頑張れそうな気がする」
「……うん。寄る」
「やった! あおい大好き。じゃあ、今日の講義はしっかり寝ないで耐えるね!」
講師がマイクの音量を調節し、経済学の講義が始まる。
あおいは黒板の文字をノートに写しながら、このはが言っていた言葉を頭の中で反芻していた。
――届いた記憶はあるのに、影も形もない。
昨日のお昼前、突如として降り注いだあの激しい雨の匂いが、ふとあおいの記憶の片隅をかすめた。
ふと横を見ると、このはは頬杖をつきながら、必死に睡魔と戦っていた。
ペン先がノートの上でカクンと揺れ、小さな点がいくつも打たれている。
あおいがそっと肘で軽く突くと、ビクッと跳ねて背筋を伸ばし、「起きてるよ!」と声を出さずに口パクで主張してきた。
あおいは小さく息を漏らし、ノートを少しだけこのはの側に寄せてやった。
このはがホッとしたように笑い、あおいのノートの文字を目で追い始める。
特別なことは何もない、穏やかな午前の講義の風景。
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講義が終わり、二人は人の波に押されるようにして学食へと向かった。
渡り廊下には初夏の陽射しが溢れ、初々しい新入生たちがサークルのチラシを配っている。
「あおい、今日の日替わりうどん、冷やしきつねだって! 私、絶対オムライスにするって決めてたけど、ちょっと揺らいじゃうな……」
「……両方食べればいい」
「食べられるわけないでしょ! あおいが半分食べてくれるならいいけどさ」
券売機の前で並びながら、このはが楽しそうに小銭入れをパチパチと開閉する。
結局、初志貫徹でオムライスを選んだこのはと、冷やしうどんの食券を買ったあおいは、満席に近い学食の中をトレイを持って歩き、窓際の空いたカウンター席に並んで滑り込んだ。
「あー、お腹すいた! バイト前にしっかり食べとかないと」
このはがスプーンを手に取ったとき、背後のテーブルから女子学生たちの話し声が耳に入ってきた。
「――そういえば昨日、駅前のスーパー寄ったらさ、いつも買ってる牛乳が棚ごとごっそりなくなっててびっくりした」
「え、あそこが? 珍しいね」
「店員さんも『入荷してるはずなんですけど……』ってバックヤード探しに行っててさ。結局見つからなくて、別のやつ買ったよ」
「……ねえ、あおい」
このはがスプーンを止め、小声で囁いてきた。
「今の聞いた? やっぱり昨日、なんかおかしかったよね。うちのカフェだけじゃなくて、スーパーでもそんなことあったんだ」
「……流通のトラブルかもね」
「そうかなあ。でもさ、スーパーの牛乳もうちのシトラスシロップも、全然別の仕入れ先でしょ? なんか、街のどっかでごっそり神隠しにでもあったみたいな感じだったんだよね」
このははオムライスのケチャップを崩しながら、不思議そうに眉を寄せる。
神隠し、直感の鋭いこのはらしい表現だった。
あおいはうどんのつゆに視線を落とし、小さく息を潜めた。
天候の乱れに続いて、今度は物の供給の乱れ。
おじいちゃんがかつて、茶碗の茶を指でなぞりながら話してくれたことがあった。
――世界ってのはな、ひとつの大きな台所みたいなもんだ。誰かが鍋をかき混ぜ、誰かが火を調節してる。たまに具材が底に沈んで見えなくなることもあるが、それは消えたんじゃなくて、巡りが滞ってるだけなんだよ。
十歳のあおいには、おとぎ話のようにしか聞こえなかった言葉。
けれど、こうして不可思議な滞りを目の当たりにするたび、おじいちゃんが教えてくれたその感覚が、指先に静かに蘇ってくる。
「……あおい? 聞いてる?」
「聞いてる。……早く食べないと、バイト遅れるよ」
「わっ、本当だ! あと二十分しかない!」
このはは慌ててオムライスを口に運び始めた。
あおいは静かに箸を進めながら、胸の奥に小さな重みを感じていた。
面倒なことにならなければいい、と思う。
けれど、昨日あんなに疲れた顔をしていたこのはが、今日もまた理不尽なトラブルに巻き込まれて頭を下げ続ける姿を想像すると、胸の奥が少しだけざらついた。
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午後一時過ぎ。
あおいは大学を出て、駅前商店街の一角にあるカフェの前に立っていた。
レンガ調の外観に、木製のテラス席。
ガラス越しに店内の様子を伺うと、カウンターの奥でエプロンをつけたこのはが、忙しそうにグラスを拭いているのが見えた。
カランコロン、とドアベルを鳴らして店に入る。
「いらっしゃいませ――あ、あおい!」
レジにいたこのはが、ぱっと表情を明るくした。
けれど、その背後にあるメニュー看板の隅に、小さく赤いテープが貼られているのが目に入った。
『シトラスハニーティー 本日分完売』
「……いらっしゃい。好きな席座ってて、すぐお水持っていくね」
このはが小声で言い、あおいはカウンターから少し離れた二人掛けのテーブル席に腰を下ろした。
すぐに冷たい水が入ったグラスを運んできたこのはは、トレイを抱えて小さくため息をついた。
「……見た? 看板」
「売り切れ?」
「そうなの! 今日も午前中だけで終わっちゃって……。問屋さんに確認したら『午前便で届けました』って言われたらしいんだけど、店長がダンボール開けたら、頼んだ数の半分も入ってなくてさ。店長、今奥で『仕入れの都合って言われても困るよ……向こうの事情なんてこっちは知らないのに』って頭抱えてる」
このはは困り果てたように眉尻を下げた。
「せっかく看板見て来てくれたお客さんにも断らなきゃいけなくて、心苦しいよ……。昨日からずっとこんなの、絶対おかしいよ」
「……このは」
「ん?」
「ホットコーヒー、ひとつ頼む」
「あ、うん! すぐ淹れるね」
このはがカウンターへと戻っていくのを見届け、あおいはそっと視線を落とした。
店内の喧騒。奥のスタッフルームから微かに漏れ聞こえる店長の重苦しい電話の声。
そして、カウンターの奥で必死に笑顔を作って注文を捌く、このはの細い背中。
(……やっぱり、滞ってる)
あおいはバッグからハンカチを取り出すふりをして、指先を膝の下で軽く組んだ。
天候の補正とは勝手が違う。
空を整えるのは大気の流れに触れるだけだが、物の存在を整えるには、世界の「流通の継ぎ目」にわずかに意識を潜り込ませる必要がある。
祖父から教わった、もうひとつの手順。
――無理に生み出そうとしちゃいけない。ただ、あるべき場所へ流れるよう、詰まりを抜いてやるんだ。
あおいは目を伏せ、呼吸を整えた。
深く吸い、胸の内で意識を研ぎ澄ます。
店舗のバックヤード、配送のトラック、問屋の倉庫、人々の認識の隙間。
世界が本来保持しているはずの「供給の正しさ」を、そっと手繰り寄せるように。
指先からかすかに抜けていく、無色の熱。
ほんの数秒。
あおいが小さく息を吐き出した瞬間、スタッフルームのドアが勢いよく開いた。
「――あれ!? 四宮さん!」
店長が目を丸くして飛び出してきた。手には納品伝票が握られている。
「どうしました、店長?」
「いや、あの……棚の奥のストック、もう一回確認したらさ……あったんだよ。別の段ボールの陰に、昨日届いたはずのシトラスシロップのケースが丸ごと二箱も」
「えっ!? 本当ですか!?」
「うん……さっきあんなに探したのに、なんで見落としてたんだろ。ごめん、私の確認不足だったみたいだ。すぐ仕込みに入ろう! 完売の札、外して!」
「はいっ!」
このはの声が弾む。
赤い完売のテープが看板から剥がされ、店内には再び活気が戻り始めた。
あおいは運ばれてきたホットコーヒーを一口啜った。
苦味が喉を通り、胃の腑を静かに温めていく。
何事もなかったかのように、世界の歯車が再び噛み合って回り出す。
面倒な仕事だったが、カウンターの向こうで嬉しそうにシロップの瓶を並べるこのはの笑顔を見て、あおいは小さく息を吐いた。
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夕方、シフトを終えたこのはと一緒に、駅へと向かう道を並んで歩いた。
西日が二人の影を長くアスファルトに伸ばしている。初夏の風が心地よく、このはの明るい茶髪をふわりと揺らした。
「あー、今日は後半すっごく忙しかったけど、楽しかった!」
このはが両手を上げて伸びをする。左のこめかみでヘアピンが夕日を浴びてきらりと光った。
「シトラスティー、午後はめちゃくちゃ出たよ。お客さんもみんな喜んでくれてさ。……でも、本当に不思議だよね」
「何が?」
「あのシロップ。店長は『見落としてた』って言ってたけど、私、午前中にあの棚、隅から隅まで絶対に見たんだよね。絶対になかったはずなのに」
このはが顎に指を当てて首を傾げる。
「昨日もそうだし、今日もそう。品切れ騒ぎになって、大騒ぎして……でも終わってみたら『最初からそこにあった』みたいになってるの。なんか私、狐にでも包まれてるのかな」
「……ただの勘違いじゃない」
「あおいまでそんなこと言うー? ……まあ、でも、店長も『最初から在庫に余裕あったのに、なんであんなに焦ってたんだろ』って不思議そうな顔してたし、私の思い過ごしなのかなあ」
このはは肩をすくめ、すぐにいつもの屈託のない笑みを浮かべた。
「まあいっか! 結果的に足りたんだし、お客さんも怒ってないしね。昨日の雨といい、今日のシロップといい、世の中って意外といい加減にできてるのかも」
「……そうだね」
あおいは短く頷いた。
いい加減。
そう思ってもらえるなら、それが一番都合がいい。
世界の綻びも、補正された現実も、すべては「そういうもの」として日常の波間に溶けて消えていく。
「あおい、今日はお店来てくれてありがとね。あおいがコーヒー飲んで座っててくれたから、なんか落ち着いて仕事できた」
「……私は、何もしてない」
「座っててくれるだけでいいの。あおいがいると、なんか安心するんだから」
このはは満足そうに微笑み、駅の改札へと歩を進めた。
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夜。
あおいは自室の机に向かい、経済学のレポートに目を通していた。
窓の外を見やると、静かな地方都市の夜景が広がっている。
星がいくつか瞬き、街灯の光が規則正しく並んでいる。
昨日の雨。今日の品切れ。
どちらも、あおいが手を伸ばして整えたことで、表面上は何事もなかったかのように収まった。
けれど、あおいの胸の奥には、昨日よりも少しだけ深い違和感が沈んでいた。
天候の乱れと、物資の巡りの乱れ。
おじいちゃんが遺していった様々な教えや手順。
それは、あおいが思っているよりもずっと広く、そして何気ない日常のあちこちに根を張っているのかもしれない。
――おじいちゃん。
病気で亡くなったはずの祖父の面影が、夜の闇に浮かぶ。
幼いあおいに手順を教え、不思議な世界の捉え方を語り聞かせながら、ふとした時にどこか遠くを見ていた人。
あの人のいなくなった理由に、本当にただの病気以外の何かはなかったのだろうか。
胸の奥に灯る小さな疑問は、夜の風に揺れるだけで、形を成すことはない。
「……面倒だな」
あおいは小さく呟き、ペンを置いた。
考えても仕方のないことだ。あおいには、世界を丸ごと救うような大層な力も意志もない。
ただ明日も、このはが何事もなかったように笑って大学へ来て、他愛のないお喋りをしてくれれば、それでいい。
スマホが短く震えた。
『今日もお疲れさま! 明日は一限からだから遅刻しないようにしなきゃ。あおい、起こしてね(笑)おやすみ!』
このはからのメッセージ。
あおいは口元をほんのわずかに緩め、短い返信を打ち込んだ。
『おやすみ。起こさない』
画面を伏せ、部屋の明かりを消す。
窓の外の街は、今夜も何事もなかったかのように、穏やかな静けさの中に眠っていた。




