外れた天気予報
朝の電車は、地方都市特有ののんびりとした速度で田園と住宅地の境目を縫うように進んでいた。
五月の終わり。
車窓から差し込む朝の陽射しはすでに初夏めいて、シートの起毛を暖めている。
あおいは文庫本から少しだけ目を上げ、流れる景色を眺めた。
雲ひとつない快晴。
スマホの天気アプリにも、澄み渡る太陽のアイコンが並んでいた。
大学前の駅で降り、緩やかな坂を登って講義棟へ入る。
全学共通の階段教室はまだまばらだった。
あおいは後ろから三列目、通路側のいつもの席に腰を下ろす。
黒い長髪を首の後ろで黒いシュシュで束ね直し、ノートとペンケースを机に出したところで、前扉が勢いよく開いた。
「――ふぅ、セーフ!」
小走りに階段を駆け上がってきたのは、四宮このはだった。
肩先で跳ねる明るい茶髪。
左のこめかみには、高校の誕生日にあおいがプレゼントした、淡い青紫色の小ぶりなヘアピンが留まっている。
あおいの隣に滑り込むように座り、肩で息をしながら鞄を膝の上に置いた。
「おはよう、あおい。ギリギリ間に合った」
「おはよう。あと三分ある」
「その三分が大事なの。……あー、それにしても今日、晴れて本当によかった」
このはは窓の外の青空を仰ぎ、屈託のない笑顔を浮かべた。
「今日一日ずっと晴れマークだったでしょ? 今日からカフェのバイト連勤だし、傘持って移動するの本当に嫌だったから助かったー」
「……うん、いい天気」
「でしょ! 朝からピカピカに晴れてると、それだけで一日得した気分になるよね。あ、でも午後から日焼け止め塗り直さなきゃ」
「……講義、始まるよ」
あおいは短く頷き、前方の教壇に目を戻した。
講師がマイクのスイッチを入れ、静かに講義が始まる。
スライドに映し出される市場原理の数式やグラフを、あおいは必要な部分だけノートに書き留めていく。
隣からは、シャープペンの芯が紙を走る軽やかな音。
ふと見ると、このはがテキストの余白に小さな猫のイラストを描き足していた。耳が丸く、長い尻尾が数字の『3』に巻きついている。
あおいが視線を向けると、このははペロッと舌を出し、消しゴムでササッと消そうとして、余計に黒く擦れた跡を残してしまった。
「あーあ、余計汚くなっちゃった……」
唇を尖らせて小さく息を吹きかける横顔。
昔から変わらない、落ち着く日常の呼吸だった。
講義が中盤に差し掛かった頃、窓の外を渡る風がかすかに強まり、レースのカーテンがふわりと膨らんだ。初夏の心地よい草木の匂い。
このはが手元のペットボトルの緑茶を一口飲み、小さくあくびを噛み殺す。
「あおい、今日の経済学、ちょっと難しくない? 需要曲線がどうとか言われても、私にはカフェのケーキの売れ行きくらいしかイメージ湧かないよ……」
「……あとで、ノート見せてあげる」
「本当!? 神様、仏様、あおい様! お昼の学食、デザートにプリンつけてあげるね!」
「……太るよ」
「失礼な! 脳みそ使った分はゼロキロカロリーなの!」
くすくすと笑い合う声が、講師の単調な講義の声に紛れて消えていく。
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講義の終わりを告げるチャイムが鳴ったのは、十一時三十分のことだった。
「あー、頭使った! あおい、お昼どうする? 学食混む前に行こ!」
「うん」
教科書を鞄にしまって立ち上がったその時、教室のざわめきがいつもと違う色を帯びた。
誰かが「うわ、嘘でしょ」と窓際で声を上げる。
ガラスの向こう。
さっきまで明るかったはずの青空が、いつの間にか重苦しい灰色の雲に覆い尽くされていた。
次の瞬間、ざざざっ、と叩きつけるような激しい音が窓を震わせた。
「……え? 雨……?」
このはが目を丸くして窓に駆け寄る。
見る見るうちに白く煙っていく中庭を、講義棟の渡り廊下へ向けて学生たちが頭を抱えて走っていくのが見えた。土砂降りだった。初夏の陽気などどこへやら、風まで吹き荒れて大粒の雨が地面を黒く染め変えていく。
「嘘、めっちゃ降ってきた! 傘なんて持ってきてないよ!」
「……急だね」
「急どころじゃないよ、さっきまであんなに晴れてたのに! あおい、今日傘持ってる?」
「持ってない」
「だよねー! あー、どうしよう。学食行くの、中庭突っ切らないと遠回りなのに……」
このはが困ったように眉を下げ、濡れる中庭を見つめる。
あおいはその横顔を見た。このはは今日、薄手の白いサマーニットを着ている。
あれで中庭を走れば、一瞬でずぶ濡れになってしまうだろう。
「……このは」
「ん?」
「お手洗い寄ってから行く。渡り廊下から回ろう」
「えー、あっち遠いよ? ……あ、でも雨宿りしながら行けるか。うん、そうしよ!」
このはが先に廊下へ出ていくのを見送り、あおいは講義棟の奥、人気のない非常階段の踊り場へと足を向けた。
踊り場の小窓からは、滝のように降る雨と荒れる中空が見える。
あおいは溜め息をひとつ吐き出した。
(……面倒だな)
できることなら、何もしないでいたい。世界がどう回っていようと、講義を受けて、本屋でバイトをして、静かに暮らしていければそれでいい。
けれど、このはが困った顔をして濡れるのは、もっと嫌だった。
空の気配がおかしい。
急激な気圧の変化でも前線の衝突でもない。
ただ「世界の都合」が一瞬だけ噛み合わず、歯車が空回りしたような、乾いた不自然さ。
幼い頃、祖父――九条玄真に教わった感覚だった。
――あおい。綻びはな、力づくで塞いじゃいけない。元の形を思い出させてやるだけでいい。
あおいは目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。
十歳まで毎日のように繰り返した、体の一部になっている呼吸。
胸の奥から指先へ、熱くも冷たくもない透明な感覚を滑らせる。
特別な呪文も、派手な光もない。ただ、右手のひらをふわりと上に向けて、空の乱れに向けてかすかに指を払う。
数秒。
肺の中の空気をすべて吐き出すと同時に、窓を叩く激しい雨音が、ふつりと途切れた。
目を開けると、雲の切れ間から青い光が差し込んでいた。濡れたアスファルトが光を反射して白く輝いている。
雨雲は急速に薄まり、最初からそこには無害な薄曇りしかなかったかのように、静かな昼の空へと戻っていく。
あおいは薄手のカーディガンの袖を整え、何事もなかったかのように踊り場をあとにした。
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「あおい、見て! やんだ!」
渡り廊下で待っていたこのはが、弾むような声で手招きした。
「本当に一瞬の通り雨だったね。よかったー、濡れずに済んだよ」
「……うん。よかった」
食堂へ向かう道すがら、すれ違う学生たちの様子は少し妙だった。
足元が濡れて靴を気にしている者もいれば、平然とスマホを眺めて歩いている者もいる。
どこか皆、記憶のピントが合っていないような、曖昧な顔をしていた。
食堂に入り、あおいは日替わりパスタ、このははカレーの食券を買って席につく。
トレーを置くや否や、このはがスマホの画面をあおいに見せてきた。
「ほら、見て。SNSでもみんな騒いでるよ」
画面には同じ大学の学生とおぼしき投稿が並んでいた。
『さっきの雨なに!? 一瞬でやんだけど服めっちゃ濡れた』
『晴れ予報じゃなかったの? 気象庁どうなってんの』
『え、雨なんて降った? 講義室いたから全然気づかなかった』
「やっぱり急だったよね。私の友達も、中庭走って靴びしょ濡れになったってさっき連絡きたし。……でもさ」
このはがスプーンを止め、小首を傾げた。
指先が、前髪を留めるヘアピンのあたりを無意識にそっと撫でる。
「……何?」
「ううん。なんか、さっきの講義の前に話してた予報……誰が言ってたんだっけと思って」
「予報?」
「うん。ほら、昨日の夜、雨が降るかもって話。テレビで見た気がするんだけど、どの番組だったか思い出せなくて。アプリ見ても『晴れ』って書いてあるし……私、何と勘違いしてたんだろ」
「……夢でも見たんじゃない」
「えー、そんなリアルな夢見るかなあ。……まあいっか! 雨上がったし、服も濡れなかったしね」
このはは屈託なく笑い、カレーを口に運んだ。
おかしなことがあっても、手の届く日常が穏やかであれば、人は深く気に留めずに受け流していく。
あおいが指先を払って雨を止ませたことも、誰かの記憶の中では「通り雨」や「ただの勘違い」として、やわらかく溶けて消えていくのだ。
「あおいって、本当に動じないよね」
「そう?」
「うん。さっき雨が降ったときも、全然慌ててなかったでしょ。いつも落ち着いてて、私の話を『うん』って聞いてくれるから、なんか安心するんだよね」
「……ただ面倒なだけ」
「それがいいの。あおいがのんびりしてると、世界が平和な感じがする」
このはの無邪気な言葉に、あおいはフォークを巻きながら曖昧に目を伏せた。
平和な感じ。
その平和の裏側に、どれだけの綻びと繕いがあるのかを、あおいは知っている。けれど、それを口にすることは決してない。
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午後の講義を終えたあと、二人は駅前のカフェへ移動した。
木目調の落ち着いた店内で、このははアイスティー、あおいはホットコーヒーを注文して窓際の席に座る。
外の通りは、雨の跡などすっかり乾ききって、夕方のやわらかな光に包まれていた。
「ふー、生き返る」
このはがストローで氷を鳴らし、深く背もたれに寄りかかる。
「今日、なんか変な一日だったな。雨が降ったりやんだり、みんな変にざわざわしてて」
「疲れた?」
「ちょっとね。あ、そういえばさ」
このはが思い出したように身を乗り出した。
「お昼に言ってた、天気予報の話なんだけどね。午後の講義のとき、隣の席の子に『昨日の天気予報覚えてる?』って聞いてみたの」
「……なんて言ってた」
「それがさ、『昨日はニュース見てないからわからない』って言われて。で、その隣の子は『最初から今日は曇り予報だったでしょ』って。みんな言うことバラバラなの。お昼前に雨降ったこと自体、『通り雨っていうか、霧雨くらいじゃなかった?』って言われちゃって。……私、そんなに大げさに騒いでたのかな」
このはは少しだけ寂しそうに、テーブルの上のグラスの水滴を指先でなぞった。
周囲との記憶のわずかな食い違い。
大多数の人は「いつも通りの一日」として通り過ぎていく。
けれど、このはのように目の前の景色をまっすぐ見つめる子には、ふとした瞬間に引っかかりが残ってしまうのかもしれない。
あおいは温かいカップを両手で包み、窓の外の穏やかな空を見つめた。
「……おじいちゃんが、昔言ってた」
ぽつりと零した言葉に、このはが顔を上げた。
「え? あおいのおじいちゃん?」
「うん」
「玄真さん……懐かしいな。あおいのお家に遊びに行くと、いつも縁側でお茶淹れてくれたよね。優しくて、物知りで」
このはの瞳に、あたたかな懐かしさが灯る。
このはにとっても、九条玄真はよく知る優しいおじいちゃんだった。
十年前に病気で亡くなった、あおいの祖父。
二人が共有しているその記憶自体は、疑いようのない事実としてそこにある。
「おじいちゃん、なんて言ってたの?」
「……天気は、誰かの都合で決まってるんじゃないって」
このはは目を瞬かせ、それからくすりと笑った。
「何それ、哲学的。……でも、おじいちゃんらしいね。空を見上げて、よく雲の話とか風の話をしてくれたもんね」
「……覚えてるんだ」
「覚えてるよ。私には難しくて半分も分からなかったけど、あおいがおじいちゃんの横で真剣に聞いてたの、すごく覚えてる。……おじいちゃん、本当にあおいのこと大切にしてたよね」
「……うん」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
病気で亡くなったはずの祖父。
けれど、あおいが受け継いだこの術の数々や、世界の綻びを目にするたび、頭の片隅で拭えない疑念が蠢く。
おじいちゃんは本当に、ただ病気でいなくなったのだろうか。
世界の仕組みのどこかに、今も消えない影を残しているのではないだろうか。
けれど、あおいはその疑念を心の底へ押し戻した。
詮索しても、答えは出ない。
おじいちゃんが何も言わずに遺していったのなら、自分も余計なことは言わない。
ただ、目の前の日常を守るだけだ。
「……まあ、天気なんて気まぐれだしね」
このはがグラスを持ち上げ、あっけらかんと言った。
「降るときは降るし、晴れるときは晴れる。変な天気だったけど、傘も使わずに済んだし、結果オーライってことで! あおいとカフェでこうしてお喋りできたから、今日はいい日!」
「……そうだね」
あおいが頷くと、このはは満足そうに笑って、左のヘアピンにそっと触れた。
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カフェを出たあと、このははバイト先のカフェへ向かい、あおいは駅前の本屋へ入った。
夕方の書店は静かで、ページをめくる乾いた紙の音と、控えめなBGMだけが流れている。
文庫本の棚を整理しながら、あおいは客たちの呟きに耳を傾ける。
「今日、雨降るって言ってたっけ?」
「いや、一日曇り予報だったよ」
「そっか。なんか靴が湿ってる気がしたんだけど、気のせいか」
レジの前で交わされる短い会話。
誰も深追いはしない。
不自然な点があっても、「気のせい」「勘違い」という日常のクッションがすべてを吸収していく。
あおいは棚の一冊を指先で押し込み、背表紙の列をまっすぐに揃えた。
静かな怠惰。
誰にも知られず、何も起きなかったことにする。
それが自分の役目であり、祖父から託された日常の守り方だった。
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夜。
アパートの部屋に戻り、入浴を済ませたあおいは、窓辺のデスクに腰掛けていた。
黒い長髪をシュシュでラフにまとめ、手元に置いたスマホを見る。
画面にはメッセージの通知が一件。
『今日なんか疲れたー! でも楽しかった。あおいもお疲れさま、おやすみ!』
このはからのメッセージ。
あおいは指先を動かし、短く返信を打った。
『おやすみ』
送信ボタンを押し、スマホを伏せる。
カーテンを開けると、夜空には薄い雲が散り、その隙間からかすかに星が覗いていた。
地方都市の夜は静まり返り、遠くを走る電車の音だけが低く響いている。
お昼前に降った、あの激しい雨。
あの雨は、ただの気まぐれな空の悪戯だったのだろうか。
それとも、かつておじいちゃんが何気なく口にしていたような、目に見えない世界のどこかが小さく軋んだ音だったのか。
今のあおいには分からない。
考える必要もないことのようにも思えた。
ただ、このはの服は濡れずに済んだ。
明日もまた、何事もなかったような顔で、いつもの席に彼女は飛び込んでくるだろう。
窓の外の穏やかな闇を見つめながら、あおいは小さく息を吐いた。
二人にとっては、いつもの何気ない一日の終わり。
けれど、あの雨の冷たい匂いだけが、あおいの記憶の奥に静かに残っていた。




