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王都へ戻った日。
リディアは、少しだけ変な気持ちになった。
三か月前、ここを出た。
もう、この街で暮らすことはないかもしれない。そう思って十二日かけて北へ帰ったのに、今は同じ門を反対側からくぐっている。
「……戻ってきちゃった」
馬車の窓から、見慣れた街並みを見る。
パン屋も、花屋も、石畳も、遠くに見える時計塔も、何も変わっていない。
三か月しか経っていないのだから、当然だ。
それなのに少し不思議だった。
三か月前の自分には、王都を出ることが人生の大きな分岐に見えていた。
右へ行けば、もう左には行けない。
そんなふうに思っていた。
けれど今、自分は一度出たはずの門を、反対側からくぐっている。
人生は、自分が思っていたほど真っ直ぐな道ではないらしい。
*
翌朝。
リディアは王立図書院の前に立った。
高い石造りの建物。その正面には、銀色の鍵の紋章が掲げられている。
三か月前、ここで正式採用を辞退した。
「……緊張する」
隣にいたナナが首を傾げた。
「以前、働いておられた場所でしょう?」
「だからよ」
中へ入り、受付で名前を告げる。
用意されていた通行証を受け取って、リディアは少しだけ手を止めた。
司書官の銀の鍵ではない。
臨時協力者用の、小さな銅色の札だった。
三か月前、《分岐鏡》で見た自分は紺色の制服を着て、胸に銀の鍵をつけていた。
今の自分は、領地から持ってきた服に銅色の札。
違う。
当たり前だ。
自分は、あの未来を選ばなかった。
「リディア!」
声に顔を上げると、先輩がこちらへ歩いてくるところだった。
「本当に来たのね」
「呼んだのはそちらでしょう」
「断るかと思った」
「私も、少し前ならそうしたかもしれません」
先輩が笑った。
「こっちよ。見せたいものが山ほどあるの」
その言葉を聞いただけで、少し胸が弾んだ。
*
北方資料部は、リディアが以前いた部署とは別の階にあった。
机の上には、フェルナー領から送った文書の写しや近隣領の地図、水路図、古い税記録が並んでいる。
そして、その中には王立図書院にしかない資料もあった。
「……これ」
リディアは一冊を手に取った。
「百二十年前の北部河川記録?」
「そう」
「こんなの、領地にはなかった」
「王都にはあるのよ」
先輩が少し得意そうに言う。
リディアはすぐにページをめくった。
領地で見つけた収穫量の変化。
水路の改修。
そのさらに前にも、別の領地で似たような工事が行われている。
「……同じ方法を使ってる」
「でしょう?」
「でも、こっちは三年でやめてる」
「なぜだと思う?」
「待って」
次の資料を取る。
さらに、その次。
気づけば、いつの間にか昼食の時間を過ぎていた。
「リディア」
「はい」
「ご飯」
「……もう?」
「またそれ言ってる」
先輩が呆れたように笑う。
リディアも笑った。
楽しい。
やっぱり、ここが好きだ。
その気持ちは、少しも嘘ではなかった。
*
数日後。
廊下を歩いていると、前から一人の若い女性がやってきた。
紺色の制服。
胸には、銀の鍵。
リディアは思わず足を止めた。
見覚えがある。
研修の頃、一度だけ話したことがある女性だった。
リディアより一つ年下の、マリエル。
彼女もこちらに気づいた。
「あ」
「……こんにちは」
「フェルナー様ですよね?」
「ええ」
マリエルが少し緊張したように頭を下げる。
「以前の採用試験で、ご一緒した」
「覚えてるわ」
そう答えてから、リディアは気づいた。
紺色の制服。
銀の鍵。
おそらく、自分が辞退したあとに空いた枠へ入ったのだ。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
ここにいたのは、本当なら自分だったかもしれない。
そんな考えが浮かぶ。
マリエルは嬉しそうに言った。
「正式採用になったんです」
「……そう」
「まだ失敗ばかりですけど」
少し恥ずかしそうに笑う。
「毎日、すごく楽しくて」
リディアは一瞬、返事ができなかった。
分岐鏡の中で笑っていた自分。
紺色の制服。
銀の鍵。
それを今、目の前の彼女が身につけている。
「……よかったわね」
ようやく言った。
本当に、そう思った。
同時に。
羨ましいとも思った。
どちらも本当だった。
マリエルが去ったあと、リディアはしばらくその背中を見送った。
「惜しい?」
いつの間にか隣にいた先輩が聞いた。
リディアは少し考えてから答えた。
「惜しいです。すごく」
「そう」
「でも、彼女がそこにいるのが嫌なわけじゃないんです」
「でしょうね」
「むしろ、よかったと思います」
「うん」
「なのに、羨ましい」
先輩が少し笑った。
「忙しいわね」
「本当に」
リディアも笑う。
以前なら、この気持ちをどうにか整理しようとしただろう。
羨ましいなら、領地へ帰ったことは間違いだった。
よかったと思えるなら、正しかった。
どちらか一つに決めようとした。
でも今日は、決めなかった。
惜しい。
羨ましい。
それでも、彼女がその席に座っていることをよかったと思う。
今は、それでいい気がした。
*
二か月は、思っていたよりずっと早く過ぎた。
領地から持ってきた資料と王都の記録を照らし合わせ、新しい発見もあった。間違いもしたし、意見がぶつかった日もある。
夜遅くまで資料を読んだ日も、皆で笑った日もあった。
そして、最終日。
リディアは北方資料部の責任者に呼ばれた。
「フェルナー嬢」
「はい」
「今回の仕事ですが、非常に助かりました」
「ありがとうございます」
「そこで、もしあなたにその気があるなら」
責任者が、一枚の書類を机へ置いた。
リディアはそこに書かれた文字を見る。
王立図書院。
北方資料部。
半年契約。
臨時研究員。
王都勤務。
胸が大きく鳴った。
「……これは」
「今回の仕事の続きです」
責任者は言った。
「正式な司書官ではありません。期間も半年です。ですが、北方の史料整理はまだ始まったばかりです」
「……はい」
リディアは書類から目を離せなかった。
半年。
王都。
図書院。
やりたい。
それは、すぐに分かった。
けれど同時に、領地の書庫が浮かぶ。
父。
母。
ミーナ。
途中まで整理した古い水路の記録。
帰りたい。
それも、すぐに分かった。
また。
両方だった。
「返事は、一週間以内で構いません」
「……分かりました」
リディアは書類を受け取った。
紙、数枚。
重いはずなどない。
それなのに不思議と、三か月前に受け取った正式採用通知より軽く感じた。
あの頃は、一枚の紙がその先の人生すべてを決めるような気がしていた。
今は、少し違う。
*
図書院を出る。
夕方の王都には、人の声と馬車の音が混じっている。どこかから焼きたてのパンの匂いが流れてきた。
リディアは書類を抱えて歩いた。
半年。
どうする。
王都に残るのか。
領地へ帰るのか。
また、選ばなければならない。
そのとき、通りの向こうに神殿の塔が見えた。
《分岐鏡》のある場所。
リディアは足を止める。
三か月前。
あそこで、自分は生涯に一度の権利を使った。
王都に残っていた未来を見た。
そして。
もう二度と、使うことはできない。
今度は。
王都に半年残った自分も。
領地へ帰った自分も。
どちらも見ることはできない。
何も知らないまま。
決めなければならない。
リディアはしばらく神殿の塔を見上げた。
それなのに。
なぜか。
もう一度、あの鏡の前に立ちたくなった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
リディアは書類を抱え直す。
そして。
ゆっくりと。
神殿へ向かって歩き出した。




