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選ばなかった未来ばかりが美しく見える  作者: 水瀬める


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神殿の扉は、以前と何も変わっていなかった。


高い天井に白い石床。その奥には、あの日と同じ銀色の鏡が置かれている。


リディアが近づくと、見覚えのある神官がこちらを見た。


「ああ。お久しぶりですね」


「覚えていらしたんですか?」


「人生の答えを探しに何度もいらした方は、あまり多くありませんので」


「……忘れてください」


神官が笑う。


リディアも少し笑ってから、鏡へ目を向けた。


ここへ来ても、もう未来は映らない。


鏡の中にいるのは、今の自分だけだった。


以前より少し日に焼けて、髪も王都にいた頃ほどきれいには整っていない。胸にあるのも、司書官の銀の鍵ではなく、臨時協力者の銅色の札だ。


けれど。


あの頃より、今の自分の顔の方が少しだけ好きだった。


「また、選ぶことになりました」


リディアは言った。


「王都に半年残るか、領地へ帰るか」


神官は静かに頷く。


「そうですか」


「それで、ここへ来ました」


神官が少し笑った。


「鏡は、もう使えませんよ」


「分かっています」


「では、なぜ?」


リディアは少し考えた。


「……見られないと分かっていても、来たくなったんです」


本当だった。


もし、もう一度だけ見られるのなら。


王都に残った自分。


領地へ帰った自分。


どちらか一つだけでも、知りたいと思う。


「もう一度見られたらと思いますか?」


神官に聞かれ、リディアはすぐに頷いた。


「思います」


「迷いませんね」


「見られるなら、たぶん見たいです。どちらの私が笑っているのか。どちらが幸せなのか。分かるなら、知りたい」


そう言ってから、少し笑った。


「相変わらずでしょう?」


「そうですね」


「そこは否定してください」


「嘘はいけませんので」


ひどい。


でも、否定できなかった。


「ただ」


リディアはもう一度、鏡の中の自分を見る。


「今なら、一つだけ分かります」


「何がでしょう」


「そこに映った一場面が、人生全部ではないということです」


以前、この鏡で見た自分は、紺色の制服を着て笑っていた。


あのときのリディアは、それだけで、その人生にはきっと何一つ後悔がないのだと思った。


王都に残れば幸せになれる。


領地へ帰れば、その未来を失う。


十秒ほどの光景を見ただけなのに、一つの人生を最初から最後まで見たような気になっていた。


でも今なら、分かる。


笑っている日の前にも、後にも、別の日がある。


「もし、もう一度見られたとして。幸せそうな私が映ったら、きっとそちらを選びたくなります」


「でしょうね」


「でも、その翌日に泣いていたかもしれない」


「ええ」


「逆に、辛そうな私が映ったとしても、その次の日には笑っていたかもしれない」


神官は静かに頷いた。


リディアは鏡から目を離した。


「見られないのは、やっぱり不安です」


「はい」


「今でも、できるなら見たいです」


「はい」


「でも、見えないんですね」


「そうですね」


リディアは小さく息を吐いた。


「やっぱり、神々は不親切です」


「そうかもしれません」


二人で少し笑った。


しばらくして、神官が尋ねた。


「答えは決まっていますか?」


「まだです」


そう口にしてから、リディアは気づいた。


以前なら、「まだ決まっていない」と言うだけで焦った。


何か大事なことを見落としているような。


もっと考えなければならないような。


決められない自分が、どこか足りないような。


そんな気がしていた。


けれど今は、ただ、まだ決めていないだけだった。


「これから決めます」


リディアは神殿を出た。


*


その夜。


宿の机に、二枚の紙を並べた。


一枚は、北方資料部との半年契約。


もう一枚は、何も書かれていない真っ白な紙。


以前なら、ここから利点と欠点を書き出した。


十年後まで想像して、失うものを数え、どちらが正しいのかを探しただろう。


リディアはペンを持った。


しばらく考えてから、一行だけ書く。


『王都に半年、残りたい。』


それだけだった。


書いてみても、領地へ帰りたい気持ちは消えない。


父にも、母にも、ミーナにも会いたい。


領地の書庫も途中だ。


リディアは、その下にもう一行書いた。


『領地にも帰りたい。』


二つ並べる。


相変わらず、矛盾している。


けれどもう、どちらかを消そうとは思わなかった。


リディアは半年契約の書類を手に取った。


半年は長い。


その間に父の体調が悪くなるかもしれない。ミーナの誕生日もある。領地で、何か大事なことが起きるかもしれない。


一方で、これを断れば北方資料部の仕事は他の誰かに渡る。


次がある保証もない。


惜しい。


どちらも、惜しい。


その気持ちは、以前と変わらなかった。


でも。


惜しいままでも、選べることは知っている。


リディアは署名欄へペンを置いた。


リディア・フェルナー。


名前を書き終える。


胸の奥が少し苦しくなった。


領地へ帰りたい気持ちがなくなったわけではない。


それでも今日は、書いた名前を消さなかった。


次に、家族への手紙を書く。


『もう半年、王都に残りたいです。』


そこまで書いて、手が止まった。


理由ならいくらでもある。


今回の研究が領地にも役立つから。


北方史料をもっと学べるから。


将来のためになるから。


どれも嘘ではない。


でも、そのどれより先にあったものを、今回は書いてみようと思った。


『この仕事を、もう少しやってみたいと思いました。』


続けて書く。


『領地へ帰りたくなくなったわけではありません。』


『途中で、きっと帰りたいと思います。』


『それでも、半年、やってみます。』


読み返してから、封をした。


ミーナには別の紙を一枚。


『誕生日には帰れません。ごめんなさい。』


少し考えて、もう一行。


『代わりに、王都で一番面白い本を探します。』


*


十日後。


領地から返事が来た。


父からは、


『分かった。』


母からは、


『ちゃんと食べること。』


そして紙の隅には、大きな文字で、


『本は二冊でお願いします。 ミーナ』


と書いてあった。


リディアはしばらくそれを見つめたあと、笑った。


それから、少しだけ泣いた。


帰りたい。


今すぐ、みんなに会いたい。


でも明日は、図書院へ行きたい。


やっぱり、両方だった。


*


半年後。


リディアは再び荷造りをしていた。


「お嬢様。本が増えましたね」


「必要なの」


「箱三つ分すべてが?」


「必要なの」


「二度仰っても増えません」


ナナが淡々と言いながら、本を箱へ詰めている。


明日、王都を出る。


半年契約は今日で終わった。


北方資料部からは、さらに一年の延長を打診されている。


けれど、まだ返事はしていない。


「どうされるのです?」


「何が?」


「一年契約です」


「まだ決めてないわ」


「そうですか」


あまりにも普通に返されて、リディアは手を止めた。


「驚かないの?」


ナナは本の背表紙を確認しながら答える。


「最近のお嬢様は、決まっていないことを、決まっていないと言えるようになりましたので」


「前から言えたわよ」


「十年後の予定表を書いていた方が?」


「……あれは忘れて」


「努力します」


たぶん、忘れない顔だった。


リディアは苦笑しながら窓の外を見る。


王都の夕暮れ。


明日、ここを出る。


以前なら、そのことだけで胸がざわついたかもしれない。


今度こそ戻ってこないのか。


この機会を手放していいのか。


一年契約を断ったら後悔するのではないか。


そんなことを、きっと何度も考えた。


今も、考えないわけではない。


また王都へ来るかもしれない。


来ないかもしれない。


領地で別の仕事を見つけるかもしれない。


一年契約を受けるかもしれないし、受けないかもしれない。


未来は、相変わらず何も決まっていない。


ただ以前ほど、それが怖くなかった。


荷物を整理していると、引き出しの奥から一枚の紙が出てきた。


何度も書き足した、あの紙だった。


リディアは椅子へ座り、久しぶりに広げる。


『私は、どうしたい?』


『王都に残りたい。』


『領地へ帰りたい。』


『どちらを選んでも、惜しい。』


『領地へ帰る。』


『王都へ行きたい。』


たったそれだけ。


最初の頃の自分なら、この紙にはもっと答えが増えていると思っていただろう。


正しい選び方。


後悔しない方法。


人生を間違えないための何か。


きっと、どこかにそんな答えがあると思っていた。


けれど実際に残ったのは、そのとき、そのときの自分が思ったことだけだった。


王都にいたい日。


領地へ帰りたい日。


選んだ日。


選び直した日。


どれも、そのときの自分にとっては本当だった。


リディアはペンを取る。


そして、一番下に最後の一行を書いた。


『明日のことは、明日の私が決める。』


しばらく眺めてから、少し笑った。


紙を折り、荷物の中へ入れる。


明日は、北へ帰る。


その先は、まだ決めていない。


けれど今は。


見えない未来を、不安だけではなく。


少し楽しみだと思えるようになっていた。


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