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選ばなかった未来ばかりが美しく見える  作者: 水瀬める


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7



春が終わる頃には、父は杖を使わずに庭を歩けるようになっていた。


リディアが領地へ戻って、三か月。


書庫の整理もかなり進んでいる。


水路の記録や古い境界争い、作物の変化。気になったことを調べては関連する文書を探しているうちに、リディアは小さな報告書まで作っていた。


『北部低地における水路整備と収穫量の推移』


題名だけ見ると、あまり面白そうではない。


けれど、リディアは結構気に入っていた。


昔の人が何を失敗し、何を変え、どうやって暮らしを続けてきたのか。数字や記録をたどっていくと、その向こうに当時の人々の姿が見えるような気がする。


そんなある日。


王都から一通の手紙が届いた。


差出人は、


『王立図書院・北方資料部』


「……え」


封を開き、内容を読む。


フェルナー領で整理された古文書を、王立図書院の北方史料集へ収録したい。


そのため、資料整理を行った人物に王都へ来て説明してほしい。


期間は二か月。


正式な司書官としての採用ではなく、臨時の協力者として。


たったそれだけの話なのに、心臓が急に速くなった。


王都へ行ける。


王立図書院へ。


また、あそこへ行ける。


「……どうしよう」


思わず呟くと、そばにいたナナが少し不思議そうな顔をした。


「行きたいのでは?」


「行きたい」


考えるより先に答えていた。


「すごく行きたい」


「では、行かれては?」


「でも……」


リディアはもう一度、手紙を見る。


私は領地へ帰ると決めた。


図書院の正式採用も辞退した。


そのために、あれだけ悩んだのだ。


それなのに、たった三か月でまた王都へ行く?


「……選んだ意味がなくならない?」


ナナは少し首を傾げた。


「帰るとお決めになりました」


「ええ」


「そして、帰ってこられました」


「ええ」


「三か月、ここで暮らしました」


「……ええ」


「では、その選択はもう実行されたのでは?」


リディアは言葉に詰まった。


「でも、一度決めたことをそんなに簡単に変えていいの?」


「簡単でしたか?」


「…………」


全然。


簡単ではなかった。


それだけは、すぐに分かった。


*


その日の夕食。


リディアは家族に手紙を見せた。


最初に声を上げたのはミーナだった。


「王都行くの?」


「まだ決めてない」


「行けばいいのに」


「簡単に言うわね」


「だって二か月でしょう? そのあと帰ってくるんでしょう?」


十二歳。


恐ろしく単純だ。


でも、その単純さが少し羨ましかった。


父も手紙を読み終えると、


「いい話じゃないか」


と言った。


「でも私、ここに戻るって決めたのよ」


父が一瞬、何を言われたのか分からないような顔をする。


「戻っただろう?」


「そうだけど。ここを選んだのに王都へ行ったら、選び直したことにならない?」


父は笑った。


「なればいいんじゃないか?」


「いいの?」


「お前は十八だぞ。十八で決めたことを、一生守らなければならないのか?」


「でも、お父様が倒れたから帰ってきたのに」


「そのときと今では状況が違う。私は三か月前より元気になった」


父は少し間を置き、穏やかな声で続けた。


「お前も、三か月前のお前とは少し違うだろう」


リディアは黙った。


たった三か月。


けれど、王都を出た日には知らなかったものを、今は少しだけ知っている。


領地の仕事。


家族と一緒に暮らす日々。


ここにしか残っていない記録。


そして何より、王都を離れても、自分は図書院を好きなままだということ。


領地が好きになれば、王都を忘れるわけではなかった。


王都が恋しいからといって、領地へ戻ったことが全部間違いになるわけでもない。


「一度選んだら、その選択を正解にし続けないといけないと思ってた」


リディアはゆっくり言った。


「領地へ帰るって決めたんだから、ここを好きにならないといけない。王都を恋しく思ったら、あのときの選択が間違いだったことになる気がしてた」


母も父も、何も言わずに聞いている。


リディアは手元の手紙を見る。


二か月。


王都。


王立図書院。


考えただけで、胸が少し高鳴った。


「でも、今は行きたい」


声にしてみる。


不思議なくらい、迷いのない言葉だった。


「王都へ、行きたい」


もう一度言うと、自分でもよく分かった。


本当に、行きたい。


父が頷く。


「なら、行けばいい」


ミーナもすぐに言った。


「お土産お願いね」


「あなたはそればっかりね」


「本も!」


「はいはい」


思わず笑う。


決める前なのに、少しだけ気持ちが軽くなった。


*


その夜。


リディアは久しぶりに、王都で何度も書き足した紙を取り出した。


そこには、


『私は、どうしたい?』


『王都に残りたい。』


『領地へ帰りたい。』


『どちらを選んでも、惜しい。』


『領地へ帰る。』


と書いてある。


リディアはしばらく、それを眺めた。


三か月前の自分が、ひどく遠く感じるわけではない。


今でも気持ちは分かる。


あのときは、領地へ帰りたかった。


だから帰った。


そして今は。


ペンを取る。


一番下に、新しい一行を書いた。


『王都へ行きたい。』


以前なら、その下に理由を並べただろう。


資料のため。


将来のため。


経験になるから。


図書院との縁をつなぐため。


どれも嘘ではない。


けれど今日は、書かなかった。


まず、行きたい。


それだけでいい気がした。


リディアはしばらくその一行を眺め、それから紙を静かに閉じた。


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