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春が終わる頃には、父は杖を使わずに庭を歩けるようになっていた。
リディアが領地へ戻って、三か月。
書庫の整理もかなり進んでいる。
水路の記録や古い境界争い、作物の変化。気になったことを調べては関連する文書を探しているうちに、リディアは小さな報告書まで作っていた。
『北部低地における水路整備と収穫量の推移』
題名だけ見ると、あまり面白そうではない。
けれど、リディアは結構気に入っていた。
昔の人が何を失敗し、何を変え、どうやって暮らしを続けてきたのか。数字や記録をたどっていくと、その向こうに当時の人々の姿が見えるような気がする。
そんなある日。
王都から一通の手紙が届いた。
差出人は、
『王立図書院・北方資料部』
「……え」
封を開き、内容を読む。
フェルナー領で整理された古文書を、王立図書院の北方史料集へ収録したい。
そのため、資料整理を行った人物に王都へ来て説明してほしい。
期間は二か月。
正式な司書官としての採用ではなく、臨時の協力者として。
たったそれだけの話なのに、心臓が急に速くなった。
王都へ行ける。
王立図書院へ。
また、あそこへ行ける。
「……どうしよう」
思わず呟くと、そばにいたナナが少し不思議そうな顔をした。
「行きたいのでは?」
「行きたい」
考えるより先に答えていた。
「すごく行きたい」
「では、行かれては?」
「でも……」
リディアはもう一度、手紙を見る。
私は領地へ帰ると決めた。
図書院の正式採用も辞退した。
そのために、あれだけ悩んだのだ。
それなのに、たった三か月でまた王都へ行く?
「……選んだ意味がなくならない?」
ナナは少し首を傾げた。
「帰るとお決めになりました」
「ええ」
「そして、帰ってこられました」
「ええ」
「三か月、ここで暮らしました」
「……ええ」
「では、その選択はもう実行されたのでは?」
リディアは言葉に詰まった。
「でも、一度決めたことをそんなに簡単に変えていいの?」
「簡単でしたか?」
「…………」
全然。
簡単ではなかった。
それだけは、すぐに分かった。
*
その日の夕食。
リディアは家族に手紙を見せた。
最初に声を上げたのはミーナだった。
「王都行くの?」
「まだ決めてない」
「行けばいいのに」
「簡単に言うわね」
「だって二か月でしょう? そのあと帰ってくるんでしょう?」
十二歳。
恐ろしく単純だ。
でも、その単純さが少し羨ましかった。
父も手紙を読み終えると、
「いい話じゃないか」
と言った。
「でも私、ここに戻るって決めたのよ」
父が一瞬、何を言われたのか分からないような顔をする。
「戻っただろう?」
「そうだけど。ここを選んだのに王都へ行ったら、選び直したことにならない?」
父は笑った。
「なればいいんじゃないか?」
「いいの?」
「お前は十八だぞ。十八で決めたことを、一生守らなければならないのか?」
「でも、お父様が倒れたから帰ってきたのに」
「そのときと今では状況が違う。私は三か月前より元気になった」
父は少し間を置き、穏やかな声で続けた。
「お前も、三か月前のお前とは少し違うだろう」
リディアは黙った。
たった三か月。
けれど、王都を出た日には知らなかったものを、今は少しだけ知っている。
領地の仕事。
家族と一緒に暮らす日々。
ここにしか残っていない記録。
そして何より、王都を離れても、自分は図書院を好きなままだということ。
領地が好きになれば、王都を忘れるわけではなかった。
王都が恋しいからといって、領地へ戻ったことが全部間違いになるわけでもない。
「一度選んだら、その選択を正解にし続けないといけないと思ってた」
リディアはゆっくり言った。
「領地へ帰るって決めたんだから、ここを好きにならないといけない。王都を恋しく思ったら、あのときの選択が間違いだったことになる気がしてた」
母も父も、何も言わずに聞いている。
リディアは手元の手紙を見る。
二か月。
王都。
王立図書院。
考えただけで、胸が少し高鳴った。
「でも、今は行きたい」
声にしてみる。
不思議なくらい、迷いのない言葉だった。
「王都へ、行きたい」
もう一度言うと、自分でもよく分かった。
本当に、行きたい。
父が頷く。
「なら、行けばいい」
ミーナもすぐに言った。
「お土産お願いね」
「あなたはそればっかりね」
「本も!」
「はいはい」
思わず笑う。
決める前なのに、少しだけ気持ちが軽くなった。
*
その夜。
リディアは久しぶりに、王都で何度も書き足した紙を取り出した。
そこには、
『私は、どうしたい?』
『王都に残りたい。』
『領地へ帰りたい。』
『どちらを選んでも、惜しい。』
『領地へ帰る。』
と書いてある。
リディアはしばらく、それを眺めた。
三か月前の自分が、ひどく遠く感じるわけではない。
今でも気持ちは分かる。
あのときは、領地へ帰りたかった。
だから帰った。
そして今は。
ペンを取る。
一番下に、新しい一行を書いた。
『王都へ行きたい。』
以前なら、その下に理由を並べただろう。
資料のため。
将来のため。
経験になるから。
図書院との縁をつなぐため。
どれも嘘ではない。
けれど今日は、書かなかった。
まず、行きたい。
それだけでいい気がした。
リディアはしばらくその一行を眺め、それから紙を静かに閉じた。




