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王都を出て十二日目。
馬車の窓の向こうに、フェルナー領の屋敷が見えてきた。
見慣れた灰色の屋根。その向こうには、まだ少し雪の残る山がある。
リディアが窓から身を乗り出すと、玄関前に立っていた小さな人影がこちらに気づいた。
「お姉様!」
ミーナだった。
馬車が止まりきるより早く、こちらへ走ってくる。
「危ないわよ」
そう言いながらリディアも馬車を降りた。
次の瞬間、妹が勢いよく抱きついてくる。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
細い腕が、ぎゅっと腰に回る。
その向こうには母と、杖をついた父が立っていた。
思っていたより元気そうだった。
「お父様」
駆け寄ると、父は少し痩せていたものの、いつものように笑った。
「帰ってきてしまったか」
その言葉に、リディアは少しだけ困った。
「……帰ってきてほしくなかった?」
「まさか。嬉しいに決まっている」
父はすぐに答えたあと、少しだけ眉を下げた。
「だからこそ、複雑なんだ」
リディアには、何となく分かった。
父も同じなのだ。
帰ってきてほしい。
でも、図書院にも行かせてやりたい。
どちらか一つだけではない。
「私も複雑よ」
そう言うと、父も少し笑った。
*
その夜は、久しぶりに家族四人で食卓を囲んだ。
ミーナはずっと喋っていた。
学校のこと。
友人のこと。
庭で見つけた鳥の巣。
そして、失敗した焼き菓子のこと。
「今度は焦がさないから」
「三個だったのでしょう?」
「五個」
「手紙には三個って書いてあったじゃない」
「二個は、お父様が焦げてないって言ったから数えなかったの」
「十分焦げていたぞ」
父が言うと、ミーナがむっとした。
母が笑い、リディアもつられて笑う。
その瞬間、ふと思った。
――帰ってきてよかった。
胸の奥が温かくなる。
そうか。
やっぱり、これでよかったのだ。
私は、正しい方を選べたのだ。
そのときは、そう思った。
*
数日後。
リディアは、父が管理していた書庫の整理を始めた。
棚には税の記録や土地台帳、古い契約書、何十年も前の収穫記録まで、様々な文書が詰め込まれている。
最初は正直、退屈だった。
王立図書院で見た南方航路の記録とは、まるで違う。
珍しい国の話も、失われた文字もない。
あるのは、麦が何袋採れたとか、どこの橋を直したとか、誰が何年に土地を買ったとか。
「……地味」
思わず呟いた。
けれど三日目。
古い帳簿の中に、妙な記録を見つけた。
同じ土地なのに、ある年だけ収穫量が極端に少ない。
「何これ」
気になって別の文書を探してみる。
その年、川が氾濫していた。
さらに調べると、翌年には領主が水路を作り直している。そして、その次の年から収穫量が戻っていた。
「……面白い」
気づけば、机いっぱいに資料を広げていた。
一つの数字が、別の記録につながっていく。
昔ここで暮らしていた人たちが、何に困り、何を考え、どうやって暮らしを続けたのか。
文字と数字を追っているうちに、少しずつその姿が見えてくる。
図書院とは違う。
でも、これはこれで面白い。
「お姉様?」
声に振り返ると、ミーナが立っていた。
「夕食だって」
「もう?」
「もう二刻も前からいるよ」
「そんなに?」
ミーナが机の上を見る。
「楽しいの?」
リディアは少し考えてから、
「……うん」
と答えた。
ミーナが嬉しそうに笑う。
その顔を見て、また思った。
――やっぱり。
帰ってきて、正解だった。
*
一か月ほど経った頃。
王都から一通の手紙が届いた。
差出人は、図書院の先輩だった。
リディアは少し迷ってから封を切る。
南方航路記録の整理が始まったこと。
新しい研究官が来たこと。
研修時代によく使っていた窓際の机が、今は別の新人の席になったこと。
そして最後に、
『あなたなら、この資料を見たら絶対に喜んだと思う』
と書いてあった。
その一文を読んだ瞬間、胸の奥が痛んだ。
リディアは手紙を伏せた。
見たかった。
南方航路記録。
本当に、見たかった。
もし王都に残っていたら、今頃あの書庫にいたのだろうか。
紺色の制服を着て、銀の鍵を胸につけて。
あの日、分岐鏡で見たように笑っていたのだろうか。
そう考えた途端、今いる書庫がひどく狭く見えた。
並んでいるのは土地台帳、税の記録、収穫量。
昨日まで面白いと思っていたものなのに、王立図書院と比べた途端、足りないものばかりが目につく。
「私……間違えた?」
小さく呟いた。
答える人はいなかった。
*
その日の夕食。
ミーナが、新しく覚えた刺繍を見せてくれた。
父は以前より長く歩けるようになったと話し、母はリディアが整理した書類のおかげで仕事が楽になったと笑った。
どれも嬉しかった。
だから、少し安心した。
ほら。
私は家族の役に立っている。
妹とも一緒にいられる。
父も元気になってきた。
書庫の仕事だって楽しい。
だから、こちらでよかった。
これが正しかった。
そこまで考えて、リディアの手が止まった。
「……まただ」
「何が?」
ミーナが顔を上げる。
「何でもない」
リディアはスープへ視線を落とした。
また、答え合わせをしている。
領地で楽しいことが起きる。
――正解だった。
王都が恋しくなる。
――間違えた。
家族に必要とされる。
――正解。
図書院の話を聞いて羨ましくなる。
――間違い。
毎日、自分の選択に丸と罰をつけている。
「……そんなの、疲れるわ」
「何が?」
またミーナだ。
「本当に何でもない」
今度は少し笑った。
*
その夜。
リディアは机の引き出しを開け、王都から持ってきた紙を取り出した。
そこには、
『王都に残りたい。』
『領地へ帰りたい。』
『どちらを選んでも、惜しい。』
『領地へ帰る。』
と書いてある。
あれだけ悩んだわりに、最後に残っている言葉は少なかった。
リディアはしばらく紙を見つめる。
選ぶ前は、正解を知りたかった。
そして選んだあとは、正解だったという証拠を探している。
結局、やっていることはあまり変わっていない。
窓の向こうには、暗い北の空が広がっている。
王都はずっと南だ。
ここから図書院は見えない。
銀の鍵も、あの鏡も。
けれど、なくなったわけではない。
今もそこにある。
そして、自分がそこにいたかったという気持ちも、消えてはいない。
あの日の自分は、領地へ帰った。
今日の自分は、王都が恋しい。
その二つが同時にあっても、別に何かが壊れるわけではない。
リディアはペンを取った。
何かを書こうとして、少し考える。
けれど。
結局、何も書かなかった。
紙をそのまま引き出しへ戻す。
明日は、古い水路の記録の続きを調べよう。
それを一生やりたいのかは、まだ分からない。
でも今は。
その続きが、少し気になっていた。




